「ふおぉぉ! いい匂い!」
食堂に到着したアリスはクンクン匂いを嗅いで、キリにギュっと鼻を抓まれた。
「はしたないですよ、お嬢様」
「もう! ちょっとぐらい、いいでしょ! キリ、後で何食べたか教えてね」
従者用の食堂に歩き出そうとしたキリの背中に声をかけると、キリは面倒そうに「はいはい」とだけ言ってさっさと行ってしまった。
「アリス、何食べるの?」
「何にしよっかな~……ねえ兄さま、このカードで食べられるの、ここからここまでだよね?」
そうなのだ。この学園は学食でさえも階級によって食べられる物が変わるのだ。それにアリスが気づいたのはキャロラインが持っているカードの色を見た時だ。こういう時だけは目ざといアリスである。
その言葉にノアが頷くと、アリスはキャロラインをじっと見つめた。もう仲間のはずだ。仲間なら同じ釜の飯を食うものではないのか。どこまでも図々しいアリスの視線に気づいたのか、キャロラインが初めて笑顔を見せた。とは言え、もちろん苦笑いなのだが。
「あなた、私が思ってたよりもずっとおバカなのね?」
「!」
「そうなんだ! 可愛いでしょ?」
「可愛いというか……何ていうのかしら。厚かましいわね」
過去では何度もこの少女にしてやられてきた。だからずっと、この少女がずる賢く立ち回り自分を陥れているのだと思い込んできた。だからこそこちらから仕掛けた事もあったのだけれど、どうやらそれは見当違いだったようだと、今なら分かる。いや、ノアのように溺愛する事は決して出来そうにないが。
「そこが可愛いんじゃないか! 食に関してだけは貪欲で無駄に素直で嘘ついてもすぐバレる所なんて、最高じゃない?」
「それを全てまとめるとおバカという事になるのではなくて?」
「むぅぅぅ」
おバカ呼ばわりされたアリスは半眼でキャロラインを見上げたが、やっぱりさほどの威力はないようで、フフンと鼻で笑ってあしらわれてしまった。こんな態度は完全に悪役令嬢そのものである。
「まあでも、それぐらい厚かましい方が私も言いたい事が言えて気が楽だわ。何が食べたいの? 言いなさい」
「神! キャロライン様、マジ神! Aコース! Aコースでお願いします!」
思いがけないキャロラインの返事にアリスは両手を合わせてキャロラインを拝んだ。
ふと脳裏に蘇るキャロラインの昼食のAコース。驚くほど豪華だった。あれが食べたい! 堪能したい!
いつまでもナムナムとキャロラインを拝むアリスに、キャロラインはドン引きしている。
「ノア、この子、大丈夫なの?」
「んー、多分」
兄のノアでさえたまにアリスの事はよく分からなくなる。それでも可愛いから別にいいのだ。
それにキャロラインが今笑っているのは、間違いなくアリスのおかげなのだから。たとえそれが苦笑いだとしても。
「Aコース! Aコース! キリに自慢しよ~っと。キャロライン様! 明日の朝ごはんもお昼も晩ごはんも一緒に食べましょうね!」
「い、嫌よ。あなたどう考えてもこのカードが目当てじゃない」
「えー……けちー」
「け、けち⁉」
「アリス、駄目だよ。カードなら僕が借りて来てあげるから。ルイスあたりから」
「それもどうなの。ノア、あなたちょっと甘やかしすぎじゃない?」
「そんな事ないよ。すっごく厳しくしてる!」
「どこが! アリスさん、あなたには貴族のなんたるかをこれから卒業するまでの間、私がきっちり教え込んであげるわ。いいわね?」
「えー!」
これはえらい事になった。キャロラインは悪役令嬢ではあったが、乙女ゲームではあるまじき正統派悪役令嬢だったのだ。幼い頃からお妃教育を叩き込まれた彼女は、階級至上主義故にアリスに辛くあたるが、ヒロインのあまりの無知さに、という感じだったので人気も高かった。
実際ゲームのアリスは今アリスよりもずっとお花畑で、ほんっきで何も考えていなかった。そりゃキャロラインも怒るだろう、というような事を沢山しでかすのだ。
そう、キャロライン・オーグはゲームの中でもピカイチの潔癖で真っ当な人だった。
「えーじゃありません! あのね、今だから言うけど、あなた本当に酷かったんだからね! マナーは知らない、ダンスは踊れない、階級上の人にも馴れ馴れしい、そんな状態でルイス様と婚約して、本当にどうするつもりだったの?」
「か、過去アリスの事は知らないもん!」
「もん! じゃないでしょ⁉ じゃあ今は踊れるの? マナーは? 知っていて?」
「う、ごめんなさい。踊れないし知りません」
これは駄目だ。本気でキャロラインはこれを機にアリスに貴族のなんたるかを教え込もうとしている。まるでお母さんのようだ。
「そうでしょう? 過去のあなたも今のあなたもそう変わらなくてよ! ずっと言いたかったからいい機会だわ。覚悟なさい!」
「ひぃぃ」
ビシっと真っすぐアリスを指さしてくるキャロラインの瞳には何故か闘志が燃えている。そんなキャロラインを見て、ノアは何故か喜んでいた。
「良かったね、アリス。一流の講師が出来て」
「うえぇ」
勉強は琴子の時代から死ぬほど嫌いなアリスは、目の前で闘志に燃えるキャロラインからそっと視線を外した。
「あれーキャロライン? 珍しいね、ノアと一緒とか。あれ? おちびちゃんもいるじゃん」
「げぇ!」
これからキャロラインのお説教が始まりそうな所に突然現れたのはカインだった。相変わらずの軽さに思わず声が漏れたアリスを見て、キャロラインがキッと睨んでくるが、ここは分かってほしい。この人は本当に苦手なのだ!
けれどそんなアリスの心など分かっていてもキャロラインは無視する。
「アリス、挨拶のやり直しよ」
「……カイン様、こんにちはでございます」
「そんな敬語はないわ」
「カイン様、ごきげんよう?」
「そうね、それでいいわ。明日は正しいカーテシーを覚えましょう」
「……」
「返事!」
「は、はい!」
「よろしい」
「兄さま~」
何かのスイッチが入ってしまったキャロラインはもう止められない。
アリスは唯一の味方、ノアに泣きついてみたが、ノアはニコニコ笑ってるだけで助けてくれそうにない。これはもう腹をくくるしかないのだろうと決心したアリスは、仕方なくキャロラインに従う事にした。
けれど、ゲームの中でも過去の中でもキャロラインに呼び捨てをされた事などないし、こんな風に一緒に食事をした事もない。何だかこれからの事を思うと、とてもワクワクしてやっぱりノアの言う通りにしておいて良かったと思う。
そんなキャロラインとアリスを見ていたカインは笑いを堪えている。
「なに? なんかすっごく仲良くなってない?」
「カイン、ちょうどいいわ。あなたも座りなさいな。あなたにも一度、ちゃんと話をしなければと思っていたのよ」
「えっ⁉ もしかして俺、なんかとばっちり食らいそうな感じ?」
逃げようとしたカインの袖を、アリスはがっちりと掴んだ。そんなアリスを驚いたような顔でカインが見下ろしてくる。
逃してなるものか。お前もキャロラインのマナー講座を一緒に受けるといい。
そんな思いを込めてにっこり笑ったアリスを見てキャロラインは満足げに頷き、カインは笑顔を引きつらせた。
「でかしたわ、アリス。カイン、食事は大勢で食べた方が美味しいわよ」
「いや、キャロライン、いっつもそんな事言わないよね?」
笑顔を引きつらせてノアに視線を走らせたカインだったが、ノアは笑ったまま頷くだけだ。
仕方なくキャロラインの隣に腰を下ろしたカインは、甲斐甲斐しくアリスの世話をするノアを見ながら親友たちの到着を大人しく待つことにした。
しかし何だろう? このアウェー感は。というよりも、こんなにもはりきっているキャロラインを見た事がないかもしれない。
しばらくすると食堂の入り口がザワついた。皆で視線をそちらに向けると、目にも鮮やかな金髪がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「お前たちこんな所に居たのか! ノアも居るのか。珍しいな」
「ごきげんよう、ルイス様」
笑顔を浮かべて突然そんな事を言うノアに、ルイスは顔を引きつらせた。
「お、おう……なんだ、怖いな。お前がそんな挨拶をしてくるのは」
「お手本を見せておかないと。はい、次はアリスだよ」
「う、うん。ごきげんよう、ルイス様」
たどたどしいアリスの挨拶に目を細めたルイスは、アリスの前に座るキャロラインを見てビクリと肩を震わせた。
「どうしたんだ? キャロ」
「いえ、ちょっと忌々しい記憶が蘇ってきまして……申し訳ありません」
何を思い出しているのか、その理由を知っているのはアリスとノアだけだ。
「まあ、キャロラインのトラウマみたいなもんだよ。ルイスも座りなよ」
「あ、ああ。キャロライン、隣いいか?」
「ええ、どうぞ」
伺うようなルイスの態度にキャロラインは頷いた。それを見ていたアリスが、両手で握りこぶしを作って応援してくる。
アリスにしても、キャロラインにはルイスと上手くいってほしいのだろう。何故なら、そうでなければ自分がルイスに気に入られてしまうからだという事をキャロラインはもう理解している。
そう考えると、今までのどの過去よりもアリスが頼もしく見えて来るから不思議だ。
ささやかなアリスからの応援を受けて、キャロラインは小さく頷いた。
「そう言えばアランは?」
カインの問いかけにルイスが苦笑いを浮かべた。
「あいつは相変わらず籠りっきりだ」
「なるほど。アランらしいね。それで、どうしてキャロラインがノア達と居るのかな~?」
ありえない、とでも言いたげなカインの顔にキャロラインはゴクリと息を飲んだ。それはアリスもだ。キャロラインもアリスもどんなにおちゃらけていても、カインがどれほど腹黒いかを知っている。
そんな二人とは裏腹に同じぐらい腹黒いであろうノアがクスリと笑う。
「さて、どうしてでしょう? 当ててみてよ」
「……」
人差し指を口元に充ててそんな事を言うノアにカインとルイスは訝し気にしていたが、やがて二人とも首を振った。
「ま、いいや。ノアがそんな事言う時は碌な事じゃないに決まってる」
「そうだな。そんな事よりもノア! 今期こそ生徒会に!」
「入らないよ。悪いけど僕、今はそれどころじゃないから」
入学して半年ほどした頃からずっとこんな風にルイス達から生徒会に入れとノアは誘われていた。今までは特に理由もなく断ってきたが、今はちゃんと理由がある。
ちらりとキャロラインに視線を送るとキャロラインも同じことを考えていたのか無言で頷く。
「ルイス様、ノアにも色々あるのでしょうから、もうそろそろ諦めましょう」
「どうした? お前もずっと賛成していたじゃないか」
「そうですが、これだけ誘っても靡かないということは、本当にしたくないという事です。生徒の自主性を重んじるこの学園で、いくら優秀だからと言って無理強いするのは良くないのではないでしょうか」
「そーだそーだ!」
ノアは忙しいのだ! そしてノアが万が一にでも生徒会に入ったら、芋づる式にアリスもゲームの設定通り生徒会に通う羽目になる恐れがある。それは困る!
「アリスは黙ってなさい!」
「はい……」
もはやお母さん化してしまったキャロラインを横目に見ながらふとカインに視線を移すと、バチリと目が合った。その途端いつもの調子でウインクなどしてくるカイン。
「キャロラインといつそんなに仲良くなったの?」
「い、いつでしょうね~? ご、ご飯まだかな~?」
目が泳ぐアリスを見てカインはますます笑みを深めた。
「アリスちゃんは隠し事が下手くそだねぇ」
スッと目を細めたカインを見て、アリスはギクリと肩を揺らした。
ど、どうしよう? 隣のノアを見上げると、ノアもノアでカインの様子を窺うように微笑んでいるだけだ。
「しかしだな、キャロ。こんな優秀な人材を放っておくにはあまりにも……」
どうしても諦めきれないルイスに、キャロラインがピシャリと言い放つ。
「ルイス様、しつこいです。次期王になられる方がそんな事でどうするのですか。確かに学園で腹心になれるような存在を探すのは大事な事ですが、無理強いをしているようではこの国に未来はありません!」
「お~キャロライン格好いい~」
声を荒げたキャロラインを見て皆はそれぞれの反応だった。特に驚いていたのはルイスとカインで、ノアはぱちぱちと手など叩いている。
「……キャロライン?」
ノアと一緒に居る時にも思った違和感。何だかキャロラインが変わった。
公爵家という名前に恥じぬようにと生きて来た彼女は、決してルイスにたてつく事など無かった。
確か今日の昼まではいつものキャロラインだった筈だ。それがこの数時間で一体何があったのだと思う程、キャロラインは強くなった。最早別人を疑うレベルだ。
「キャ、キャロ、一体どうしたんだ?」
「ルイス様。この際はっきりと申し上げます。私は今までずっと、公爵家の娘として、あなたの婚約者として振舞わなければならないのだと自分を押し殺してきました。けれど、気づいたのです。私はあなたを支えなければならないのだ、と。ただ黙って頷いているだけではいけないのです」
「……」
はっきり言って、こんな事をキャロラインに言われたのは初めてだ。出会ってからもう随分たつが、気づいた時にはキャロラインは既に婚約者で、ずっと公爵家らしい大人しい子なのだと思っていた。
「キャロライン様は正義の人ですからね! 私の尊敬する人です!」
アリスはそう言って何度も頷いた。
ゲームの中のキャロラインもこうだった。ルイスの前では大人しい子の振りをしていたが、アリスと対峙する時の態度はいつも毅然としていて、それはもう凛々しかった。だから人気もあったのだろう。お邪魔虫ではあったが。
それは今、目の前にいるキャロラインもそうだ。突拍子もないアリスの話を信じてくれて、過去ではあんな仕打ちを受けたにも関わらず、今のアリスに冷たく当たったりしない。
アリスの言葉に驚いたような顔をしたルイスとカインとキャロラインは、一様にポカンと口を開けてアリスを見つめてくる。
「キャロラインの事、随分よく知ってるんだね、アリスちゃん」
「アリス、と言ったか? お前はキャロの何なのだ?」
ルイスとカインに質問攻めにされそうになった所で、そんな空気を打ち破ったのはキャロラインだった。
「アリス……私はあなたの辞書に尊敬と言う単語があった事に一番驚いているわ」
「酷くないですか⁉」
まるでキリのような言い草にアリスはキャロラインをキッと睨んだ。
けれどキャロラインはそんなアリスをフフンと笑ってあしらう。そんな様もルイスとカインには珍しく映ったようだ。
「僕は大人しく取り澄ましてるキャロラインよりも、今の方が好感持てるけどね。二人は違うの? あんなお人形さんの方が良かったの?」
畳みかけるようにそんな事を言うノアの真意はアリスには分からなかったが、この兄は無駄な事はしない。きっと、何か考えがあっての事なのだろう、とアリスは黙って頷いておく。
「そ、それは……」
言い淀んだルイスを馬鹿にしたように笑うノアの顔は、本当に悪い顔だ。
「扱いやすくて良かったよね? 何でも言う事聞いてくれたもんね? でもね、それじゃ未来が無くなっちゃうんだよ。それはとても困るんだよ」
「ノア、言い過ぎでしょ」
「言い過ぎじゃないよ。全然優しいと思うけど? うちの執事が居たら、もっと辛辣な事言うよ。ねえ? アリス」
「うん……凄い事言われる……怖い」
脳裏にキリの顔が過って思わず震えたアリスを見て、キャロラインが無言で深く頷く。
「だとしても、男爵家の君が王家に言っていい言葉じゃないし、態度じゃない」
「そうかな? 僕はルイスを友人だと思ってる。だからこそ、キツイ事だって言うよ。君達の目線だけでものを言わせてたら、本気でこの国は終わる」
珍しく真剣な顔をしたノアに、ルイスとカインとキャロラインは黙り込んだ。
「お待たせしました。こちら、Aコースになります」
まるでずっと機会を伺っていたかのような絶妙なタイミングで、アリスが待ち望んでいた料理がやってきた。ワゴンが二つ。あれはアリスとキャロラインのだ。
「はぁはぁ、Aコース……はぁはぁ」
思わず垂れそうなヨダレを隣からノアが何も言わずにそっとぬぐってくれる。
失礼な! まだ出ていない!
「ん? キャロはAコースにしたのか?」
「ええ」
「では、もう一つは誰のだ?」
「アリスのです」
「アリス?」
不思議なものでも見るようなルイスの目の前で、給仕が淡々とアリスの前に食事を並べていく。この学園では食べるものですら階級で分けられる。それがどうしてアリスまでAコースを頼んでいるのか。考えられるのは一つしかない。
「キャロが頼んでやったのか?」
「ええ。食べたそうにしていたので。いけませんか?」
「……いや、構わないが……そうか……お前は……そんなだったんだな、本当は」
「……」
ポツリと呟いたルイスの言葉にキャロラインは内心オロオロしていた。思わずノアに視線を送ったが、ノアは小さく頷くだけだ。
食堂に入る前、ノアがキャロラインに頼み込んできた事。それは、アリスにAコースを食べさせてやって欲しいという事だった。最初はただ単にアリスを甘やかしたいだけかと思っていたのだが――。
「ルイス様?」
俯くルイスの顔を覗き込むと、ルイスはキャロラインと目が合うなり、何故か耳まで真っ赤にして顔を上げた。
「い、いや! すまない。ノアの言う通り、俺はずっとお前の事を人形のような女だと心のどこかで思っていたみたいだ。だから今その、驚いているんだ。本当のお前を知って……み、見るな! 今は駄目だ!」
「……」
酷い言われ様だ。でも何故だろう。嬉しい。こんな風にルイスがキャロラインの事で顔を真っ赤にした事なんてただの一度もない。気づけばキャロラインは満面の笑みを浮かべていたようで、それを見たルイスはさらに顔を真っ赤にしてまた俯いてしまった。
「さ、さっきの事もすまなかった。もうノアに無理強いはしないと約束しよう。それに、もう無理して家の事を考えて自分を押し殺さなくていい。……俺がこの先、何か道を踏み外しそうな時はその……止めてくれると……助かる」
「……」
キャロラインはゴクリと息を飲んでノアを見る。目の前のノアは何かが成功したような顔をしていてゾッとした。なるほど、これが狙いか。
「ノア、お前にも悪い事をしていたと謝らなければ。すまなかった。お前のように率直な意見を言ってくれる者は、俺にとってはとても大切なんだ。これからもその、友人として付き合ってほしい」
「もちろん。そんなに気に病まないでよ、ルイス。生徒会には入らないけど、今まで通り手伝いはするからさ、友人として」
「そ、そうか! ありがとう! ど、どうだ? アリス、美味いか?」
何だか恥ずかしくて咄嗟に話を逸らしたルイスは、まるで皿に顔を突っ込みそうな勢いで食事をしているアリスに尋ねると、よほど美味しいのかアリスは無言で何度も頷いた。
けれど次の瞬間、急にアリスは青ざめて今しがた口に入れた一口サイズの玉ねぎを皿に吐き出し、キャロラインが食べようとしていた玉ねぎも素手で奪い取った。
「食べちゃ駄目! これ、危ないやつ!」
「え? な、なに?」
突然フォークから素手で食材を取り上げられたキャロラインが驚いて目を丸くしていると、奥の方の席から悲鳴が上がった。
「どうした⁉」
「何事⁉」
ルイスとカインは勢いよく立ち上がり悲鳴のする席に向かうと、生徒が一人うずくまっていた。顔色は真っ青で震え、汗が滝のように流れ出ている。
「い、一体何が……」
「どいて! これ早く飲んで! 兄さま、バケツ!」
唖然として立ち尽くすルイスとカイン。そんな二人を押しのけて、うずくまる生徒の口に何かを流し込むアリス。
「う……無理……にが……」
無理やり口に緑色のドロドロした物を流し込まれた生徒は、大半を飲み切れずに吐き出したが、それでもアリスは手を止めない。
「無理じゃない! 飲んで! 全部!」
それでも生徒は飲み込まない。
「お嬢様、それでは流れ出るばかりですよ。こういう時は、こうです」
「お、お前は?」
突然現れた青年が、アリスの隣に膝をついていつまでも飲み込まない生徒の鼻を抓むと、容赦なく口の中に緑のドロドロを流し込んだ。殆ど鬼の所業である。
やがてその中身が無くなったと思ったら、青年は暴れる生徒を羽交い絞めにして無理やり口を塞ぎ、ドロドロを飲み込ませた。すると今度はノアが隣からスッとバケツを差し出してくる。
「キリ、離していいよ」
「はい」
キリが押さえていた手を離すと、生徒は胃の中身を勢いよく全部吐き出した。苦しそうに顔を歪め、何度も何度も吐き出す。やがて胃の中身が全部出きったのか、生徒は肩で息をしながらキリを睨みつけた。
「その人はあなたを助けてくれたのよ。さあ、水で口をゆすぎなさい」
「キャロライン?」
いつの間に水を汲んできたのか、キャロラインは苦しそうな生徒の背中を優しくさすりながら水を与えている。
その姿は、今まで階級で区別をしていたあのキャロラインからは程遠く、思わずカインまで目を細めてしまった。
「少し落ち着いた? 誰か医務室に連れて行ってあげてちょうだい。アリス、原因は何なの?」
「これです。これ、玉ねぎじゃない。多分スイセンの球根だと思う。他の人も絶対食べないで」
「皆さん、聞こえましたか? 食事の中に入っている小さな玉ねぎに似た植物は決して食べないように。いいですね?」
背筋を伸ばして毅然とした態度ではっきりと告げたキャロラインの言葉は、この場に居る誰よりも影響力があった。
「私、調理室見て来る。もしかしたらまだあるかも。キリ、従者食堂の皆にも伝えて。もしかしたら混ざってるかもしれない」
「はい。キャロライン様、あなたのメイドをお借りしても?」
「ええ、構わないわ。よろしくお願いします」
キャロラインの言葉にキリは小さく礼をして足早にその場を立ち去った。
「驚いた。アリスちゃん、凄いね」
「ああ、全くだ。よく気付いたな」
「田舎では良くある事だからね。まあ、普通はあれだけ調理されてしまってたら分からないと思うけど」
そう言って走り去るアリスの背中を見ていたノアは、ついこの間領地で起こった一件を思い出した。アリスの並々ならぬ嗅覚と味覚はついこの間の小麦事件で立証済みだ。
ノアは、慌ててやってきた学園のメイドにバケツを渡すと、まだ感心したように呆けているルイスとカインと共に席に戻った。そこには教師と話し込んでいるキャロラインが居る。
キャロラインはてきぱきと今起こった事と、自分がどうして気づいたのかを教師に説明している。
「ええ、これだそうです。アリスが言うには、この玉ねぎに似た食材がスイセンの球根なのだとか。ですから、すぐに調査をされた方がいいと思います」
「あと、どこの業者から仕入れたのかも調べておいた方がいいかもしれないよ」
横から口を挟んだノアにキャロラインも頷く。故意にやったのであれば、誰を狙ったのかなんて答えは明白だ。恐らくはルイスだろう。
しかしそれにしては計画が杜撰すぎるので、まあただの間違いの線が一番濃厚だ。
「兄さま、戻りました!」
「アリス、お帰り。どうだった? まだあった?」
「うん。明日の食材にも混ざってたから、明日は玉ねぎ止めた方がいいよ、ってコックさん達に言って来たよ」
アリスは調理室での出来事を思い出して苦笑いする。
突然顔を出したアリスに、あのコック達が青ざめたのは言うまでもない。真っ先に生ごみを隠し、まな板の上にあった骨という骨を全て捨てられてしまった。完全に骨を食べる貴族として認定されているようだ。
「戻りました。従者の方では今日はメニューの中に玉ねぎを使った料理は無かったようです」
「お帰り、キリ。そう、それは良かった」
「はい。お嬢様の食い意地のおかげで助かりました」
「ねえ、一言多いよね⁉」
あんな事があったのにいつも通りのキリ。この執事が慌てている所など、あの隠された趣味を知ってしまった時だけだ。
そんなやりとりをまるで観察するように眺めていたカインだったが、やがて口を開いた。
「どうしてあれが毒だって分かったの?」
普通に考えてあれほど調理されてしまっていたら、ノアではないが普通の人間には分からないはずだ。なのに何故分かった?
疑うようなカインの質問に、アリスは一瞬キョトンとした顔をしたが次の瞬間、胸を張り堂々と言う。
「私、味にはちょっとうるさいので!」
「うん?」
いや、だから? 恐らく誰もがそう思ったはずだ。隣でルイスもポカンとしているし、キャロラインはため息をついておでこを抑えている。
「だから! 味にはちょっとうるさいので!」
「通訳します。お嬢様はミルクを飲むだけでその牛の体調不良が分かります。生麦を食べただけで日光不足も分かります。なんなら生麦を食べただけで水に混ざる不純物まで分かってしまう、特殊な才能があるんです。要は、それだけ食い意地が張っているという事です。幼い頃から山に入ればとりあえず目に付いたものは何でも口に入れて味を確かめる。川に入れば魚を素手で掴んではその場で焼き始める。そうやって過ごしてきた結果、こうなってしまいました」
「キリ、悪意がそこら中に散りばめられてる気がするんだけど」
「自意識過剰ですね、お嬢様」
「うぬぅ」
言わせておけば、まるでアリスが野生児のようではないか。
けれど実際は何も間違えて居ない。アリスははっきり言って野生児である。何ならキリはかなり配慮して話してくれていた。
「なるほど。だからすぐにスイセンって分かったって事?」
「はい! 昔食べて死ぬ思いをしたので!」
「お腹が減ったからと言って意地汚く庭を掘り返した時ですね」
「い、言わなくていい!」
どうして一言余計な事を付け加えるのだ!
けれど、どうやらそのキリの言葉のおかげでカインのアリスを見る目が途端に柔らかくなった。それとは対照的にキャロラインの視線がどんどん厳しくなる。
「アリス、あなたの特技は素直に凄いわ。でもね、何でも口に入れるのはおやめなさい。川に行って素手で魚を取ってもいけないわ。その場で焼くなんてもってのほかよ」
今やキャロラインの中でアリスは完全に自分を陥れた憎き敵ではなく、ノアに引き続きかなり残念な子になってしまっていた。バセット家の教育方針は一体どうなっているのだ。
「でもね、キャロライン様、魚は獲れたてが一番美味しいんですよ。はっ! 私、こんなにも海の側にいるのにまだ刺身に挑戦してない! 兄さま、次のお休みは釣りに行こ! 釣り!」
日本人たるもの、魚は刺身で食べなければ! 琴子時代から食にうるさかったアリスはこう見えて料理は結構出来る。目を輝かせてそんな事を言ったアリスを見てキャロラインの額に青筋が浮かぶ。
「アリス!」
「ひい!」
その後もキャロラインにこってり絞られていると、ようやく一度回収されてしまった料理がやってきた。流石に食中毒を起こした料理を食べようとはアリスも思わない。
「キャ、キャロライン様! ほら、美味しそうですよ! 楽しく食べましょう!」
「……仕方ないわね」
「ふぃ~」
「ふはっ! ははは!」
しばらく二人のやりとりを見ていたルイスだったが、とうとう堪えきれなくて噴き出した。そんなルイスを見てアリスとキャロラインは同じように首を傾げているからいけない。
「いやうん、キャロ、お前はそうしている方がずっといいな。なあ、カイン?」
「そうだねぇ。人間味があるね、こっちの方が。ノアの言う通り」
腑に落ちないが、確かにそうだ。キャロラインとアリスの関係はまるで母とどうしようもない娘といった感じだが、こんなにも楽しそうなキャロラインは初めて見る。キャロラインは突然変わってしまった。その理由はおそらくノアが知っているはずだ。
カインがちらりとノアを見ると、それまで優雅に食事をしていたノアがふと口を開き、後ろに立っていた執事に小声で話し出した。
「キリ、大丈夫そう?」
「ええ。まとめて近いうちに話した方がいいと思います」
「そう」
ノアはキリの言葉に頷いて持っていたフォークとナイフをそっと置いた。
「ルイス、カイン、君達に大事な話があるんだけど、次の休みに僕の部屋に来てくれない?」
その言葉にアリスとキャロラインが固まった。
けれどそれは一瞬だ。すぐにキャロラインが口を開く。
「ノア、あなたの部屋では狭すぎると思うから、私の部屋を提供するわ」
「それは助かるよ。で、どうかな? 二人とも」
部屋の貸し出しを申し出てくれたキャロラインに礼を言ってルイスとカインに視線を移すと、二人は怪訝な顔をしていた。そりゃそうだ。突然改まって話がある、などと言われたら誰でも構える。
けれど、キリが『サーチ』を使って近いうちに話した方がいいと判断したという事は、ルイスとカインの好意がこちらに向いているという事だ。ゲームの軌道修正が入ってしまう前に、最悪ルイスだけでも味方につけておきたい。
ノアの言葉にしばらく考え込んでいたルイスとカインだったが、ふとカインが口を開いた。
「それがキャロラインの脱お人形の話?」
突然変わってしまったキャロライン。喜ばしい事ではあるが、もしかしたら何か魔法をかけられている可能性もある。
ノアはとても優秀だが、あまり普段から自分の事を語らない。だからこそノアを信用しているルイスとは違い、カインはどこか胡散臭いとずっと思っていた。それぐらいノアについてはミステリアスな部分が多いのだ。
滅多に社交界にも出て来ないし、辺境の領地に住んでいた為、仲の良い貴族も居ない。ルイスの側に居る人間については慎重に調査をされるのは当然だが、ノアに関しては本気で学園に入る時の調査書に書かれている事以外に何も出て来なかった。
言い換えれば清廉潔白なのだが、本人と付き合ううちにその調査書すら怪しく見えてくる。そういう意味ではアリスも同じだ。その二人と何故か突然仲良くなったキャロライン。操られていない、とは言い切れないし、アリスの魔法は特殊な『魅了』だと言う。
カインの言葉にノアは頷いた。
「そういう意味では、そうだね。でもおそらく、話を聞いたら君達の信念も変わると思うよ。何せ僕の信念を変えたぐらいだから」
「どういう意味かな?」
「僕がもしこの話をアリスから聞かなければ、君達とはこれ以上深く関わるつもりは無かったって事だよ。卒業したら僕はさっさと男爵家を継いで余生をアリスとまったり暮らすつもりだったんだ」
「な、何を言う! お前にはぜひ王都に来てもらいたいんだ!」
「ほらね、こんな事言い出しちゃうでしょ? だからこれ以上深い付き合いはしたくなかったんだけど、そうもいかなくなったんだよ」
鼻息を荒くして何か言おうとするルイスにチラリと視線を向けたノアは、隣で不安そうなアリスの手をしっかりと握った。
「兄さま」
「大丈夫。僕はアリスを置いてどこにも行かないよ」
「う、うん?」
(そこは別に心配してないけど……)
そこではなくて、本当にこの二人は信じてくれるだろうか? キャロラインはループ中の記憶があったからこそ信じてくれたのだ。でもこのふたりは違う。
「分かった。いいよ、俺は。ルイスはどうする?」
じっとノアの顔を見つめていたカインはゆっくり頷いた。どのみち話を聞かなければどうしようもない。もしも魔法をかけようとしているのなら、カインの『反射』を掛けておけばいいだけの話だ。
「俺も聞こう。ノア、貸しだぞ」
「貸しって……言っておくけど、君達の未来にも大きく影響してくるからね? 何なら貸すのは僕らの方だよ」
「そ、そうなのか?」
「そうだよ。ていうよりも、貸し借りとかそんな次元の話じゃないから。まあ、次の休みを楽しみにしててよ。あと出来ればアランにも話たいんだ」
「アランは相変わらず保健室の住人だ」
「それじゃあアランには私から話しておくわ」
「助かるよ。アリス、明日少しキリを借りても構わない?」
「もちろん! いっくらでも!」
(何ならずっと兄さまの側に置いておいてくれていいよ!)
そんな心の声を飲み込んだアリスが満面の笑顔で頷いた。
「ご安心ください。用事が終わればすぐにお嬢様の元に戻りますので。そうですね、十分程度でしょうか」
「む、無理しなくていいよ! そのまま休憩していても……」
「いいえ。すぐに戻ります。お嬢様は教室の椅子から一歩も動かず大人しく待っていてください。いいですね? 一ミリたりとも動いてはいけませんよ」
「そ、そんな……」
どんだけ信用ないんだ。アリスが渋々頷くと、キリはようやく納得したように頷いた。