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第9話

 部屋に入って軽く片付けをして明日の授業の準備を終えたアリスは、本を持ってホールに戻った。そこには既にキリがお茶とお菓子を用意してくれている。


「おっかし~!」

「お嬢様の分はそちらですよ」


 そう言って指さされた先を見ると、いかにも味気なさそうなオートミールを固めただけのビスケットが二枚置いてあった。一方、ノアの方にはチョコレートがかかったクッキーが五、六枚積んである……何故。


「こ、この差は……」

「働いた分です。これが妥当です」

「ぐぅ!」


 確かに穴掘りはほとんどノアとキリがしてくれた。自分で言い出した事なのに、ほとんどこの二人がやってくれたのだ。


「……分かった。我慢する」

「キリ、あんまり虐めないでやって」


 部屋からノアが筆記用具を持ってやってきた。しょんぼりとしているアリスのお菓子を、自分の分と入れ替えてくれる。


「ううん。これは兄さまが食べて。キリの言う通りだから。私、これも結構好きなんだよ」


 そう言って取り換えてくれたお菓子をもう一度入れ替えると、ボソボソのクッキーを口に放り込んだ。


「偉いね、アリス。じゃあ僕のを少しあげる。これならいい?」

「っ! ありがとう! 兄さま!」


 優しすぎるにも程がある兄に感激したアリスは、もらったクッキーを最後まで大事に取っておくことにした。


「さて、じゃあ話そうか。まずアリス、キャロラインに会ったのは今日が初めて? あ、今アリスね」

「うん、そうだよ」

「だよね。じゃあやっぱりおかしいな」


 そう言ってペンを回しながら考え込んだノア。


 クルクル回るペンを眺めながら、アリスはさっき会ったキャロラインを思い出していた。


 顔色を悪くしてアリスと目が合った途端、逃げるように走り去ってしまった。あんなご馳走を注文しておきながら! どんな時でもアリスの脳内の大半を占めるのは食である。


「兄さま? 何がおかしいの?」

「あの時、キャロラインはこう言ったんだ。こんな所で会うなんて、って」

「?」


 意味の分からないアリスとは違い、キリは理解したように頷く。


「おかしいですね。まるでどこかで会う事を知っているみたいです」

「そうなんだよ。もしかしたら、キャロラインも気付いてるのかも。このループに」

「えぇ⁉」


 もしもノアの言う様にキャロラインもループに気付いているのだとしたら、これほど心強い事はないが、ふと考えてみる。


 もしも自分がキャロラインだったとしたら、これから自分を不幸のどん底に陥れようとしている人間と話したいだろうか? 答えは否だ。アリスなら徹底的に避ける。不幸になると分かっているフラグに自ら突っ込んでいったりはしない。


「兄さま……もしもキャロライン様がループの事を分かっていたとしても、話をすんなり聞いてもらえるとは思えないんだけど……」

「うん、そうだね」


 アリスの不安をノアは笑顔で肯定した。何故笑うのか、兄よ。


「だから僕が聞くよ。幸いな事に彼女は同じクラスなんだし」

「え? で、でも私と一緒に居たの知ってるし、もうルイス様とかが話してると思うんだけど」

「話してるだろうね。僕たちが兄妹って事も知ってると思うけど、別に問題ないよ」

「……」


 問題……あるだろう、どう考えても。


 何だか急にノアの笑顔が不穏なものに思えて来てアリスは頬を引きつらせる。


「キャロラインは公爵家の令嬢でルイスの婚約者という立場上、下級貴族の意見は無碍には出来ないと思うんだ。それにループに気付いているのなら尚更アリスを敵に回そうとはしないと思う。だってそうでしょう? 嫌って言う程アリスにルイスを取られる過去を見てきてるんだから」

「な、なるほど?」


 確かにそうかもしれない。こちらはキャロラインがループに気付いているかもしれないと思っているが、向こうはおそらくこちらもループに気付いているとは夢にも思っていないだろう。だから理由も無しに無碍には出来ないだろう、というノアの意見は正しいのかもしれない。


「そういう訳だから、大丈夫だよ、アリス」

「う、うん。兄さまがそう言うなら」


 少し怖い気もするけれど。アリスはそんなセリフを飲み込んだ。



「キャロライン、僕と組まない?」


 翌日、ノアは魔法演習の授業の相手に自分から声をかけた。いつもは余っている人と組む、をスタンスにしているノアにしては大変珍しい。


 ノアの言葉にキャロラインはビクリと肩を震わせて、まるで恐ろしい物でも見るような顔をしてノアを見上げてくる。


「……」


 ノア・バセットは、学園でもとても優秀な生徒で、男爵家に生まれた彼はその爵位を差し引いてもお釣りがくるであろう容姿と、優秀さから大変人気があった。


 その証拠にノアは入学してからただの一度もテストで五位以下になった事がないし、爵位の壁を越えてルイスやカイン達とも普通に話せているのがいい例だ。


 父のアーサーに至ってはノアがあまりにも優秀だった為、登城した際に王に『例えれば私は雀ですが、彼は鷹です』などと話した程だった。


 それぐらい優秀な彼だが、そんな彼にも弱点はある。アリスだ。誰にも当たり障りなくやり過ごす彼が唯一心を砕くのは、この世でアリスの事だけである。


 先日の夏休みで家に戻った時も、ノアは目の前に積まれた縁談の姿絵をチラリとも見ず父に言った。


『父さん、僕は結婚しないよ。だから全部断っておいてね。バセットの血は途絶えるかもしれないけど、その代わりにちゃんとこの男爵家に優秀な後継者を育ててみせるから』

『な、何故?』

『何故って、そりゃアリスの面倒を最後までちゃんと見ないといけないから』

『……』


 アーサーがその答えを聞いて絶句したのは言うまでもない。


 ノアが残念な感じになるのはアリスの事だけ。これは学園内でも周知の事実で、ノアを知る人達は皆、そんなノアについてこう語る。


『あれで妹命でなければ、ノア・バセットは完璧』と。それほどにノアの妹への愛は重い。


 あまりにもノアがアリスを溺愛するので、クラスメイトがある日ふざけてノアに言った。


『もしかして妹と血、繋がってないんじゃない? でないとその溺愛ぶりおかしいよ』

『何言ってるの? もしアリスと僕の血が繋がってなかったら、とっくの昔に求婚してるよ』


 と。真顔でだ。怖すぎる。見た事もないアリスに向かって、クラスメイトの大半はこう思った。


『アリスちゃん、逃げて!』と。


 そしてその日から、優秀な男爵家のノア・バセットは、優秀だけど残念なノア・バセットになった。


「ダメかな?」

「め、珍しいわね、あなたがそんな事を言うのは」


 引きつった顔でキャロラインはそう言って周りを見渡したが、頼みの綱のルイスは既にカインと組んでいるし、取り巻きの子達は皆遠巻きにこちらを見ているだけで誰も助けてくれようとはしない。


「そうかな? だって、今日は君が余りそうだよ?」


 ノアはそう言っていつものように他人行儀な笑みを浮かべた。その笑顔にキャロラインの顔はさらに引きつる。


「……分かったわ」


 キャロラインは入学当初からこのノア・バセットが苦手だった。最初は貴族の中でも最も爵位の低い男爵家である事が理由だったが、いつの間にかそんな事を無しにしても苦手だと思う様になった。その理由は、昨日ハッキリした所だ。


「ああ、あそこがいいかな。ちょっと遠いけど」


 魔法演習は二人一組で行うのが常だ。ノアはキャロラインを連れて演習場の隅まで移動して演習を開始した。


 この世界では一人につき大体2個から3個の魔法が使えるが、メインになるのは大抵一つだ。


 キャロラインは得意の氷の魔法で、それは見事な樹氷を作り出した。


 しかし、それを呆気なくノアが炎の魔法で溶かしてしまう。かと思えば、次の瞬間には水を操りその炎を消してみせた。その手際の良さにキャロラインは思わず見とれてしまう。


「ノアはどちらの魔法がメインなの?」

「どちらもメインだよ」


 キャロラインの質問に笑って答えたノアは、まるで天気の話でもするように続ける。


「そう言えば、キャロラインの前世の名前は何て言うの?」

「?」


 ノアの言ってる言葉の意味が分からなくてキャロラインは思わず首を傾げた。そんなキャロラインを見てノアがポツリと呟く。


「なるほど、前世はないのか」

「一体何の話?」


 意味が分からないキャロラインはどうにかしてこの場を立ち去りたかった。さっさと演習を終わらせて早く皆の所に戻りたい。でなければ、何か良くない事が起こる。今までもそうだったから。


 けれどこんな時に限ってノアは話を止めようとはしてくれない。


「じゃあ、もう一つだけ聞いてもいいかな?」

「な、何かしら?」

「卒業パーティーで婚約破棄されるのって、どんな気分?」

「っ⁉」


 驚いて思わず口を覆ったキャロラインを見てノアの笑みが深くなった。その途端、背筋に何か冷たいものが流れ落ちる。


「ど、どうしてあなたが……」

「知ってるのかって? 聞いたからだよ、アリスに」

「ア、アリス……バセット……」


 その名前だけは聞きたくなかった。キャロラインはノアを渾身の力を込めて睨みつけた。


 これから何を言われるのか、今回はもう既に戦いは始まっているのか、キャロラインは色んな答えを想定していた。そんなキャロラインの心を知ってか知らずか、ノアは続ける。


「多分、君は昨日、こう考えたよね? 食堂でアリスを見てどうして? 早いじゃない、って」

「……」


 ノアの言う通りだ。アリスが編入してくるのはまだ先の筈だった。それなのに、昨日は既に食堂に居たから驚いたのだ。そして焦った。


「そしてこう考えたと思うんだ。こんなルートは知らない。またルイスを取られるの?」

「っ⁉」


 いつものノアの他人行儀な笑顔が今日ほど怖いと思った事はなかった。


「当たりでしょ? で、率直に聞くよ。君は何回目?」

「……」


 恐らくノアは全て知っている。キャロラインが必死になって隠していた事を。


「力になれると思うんだけどな?」

「!」


 そう言ってキャロラインを覗き込んでくるノア。


 彼のセリフは罠なのか、本当に救いなのかがキャロラインには分からなかった。ただ、色々限界だったのかもしれない。気づいた時には勝手に口を開いていた。


「……十五回目よ」

「そっか、十五回目か。教えてくれてありがとう、キャロライン」

「ど、どうして知ってるの⁉ あの子、何を知ってるの? これはあの子がやってるの⁉」

「まさか! アリスにこんな事出来る訳ないでしょ? アリスも被害者だよ。まあ、詳しい話はまた後でするけど、一つだけ」


 次の瞬間、ノアの笑みが消えた。真っすぐにキャロラインを見下ろして冷たい声で言い放つ。


「断罪エンド。あれ、二度としようなんて思わないでね。次やったら僕が君を殺すよ」

「……」


 ノアの顔は本気だ。キャロラインが一歩後ずさると、ノアに腕を掴まれた。普段なら不敬だと跳ね返すが、今日はそれさえも出来ない。その時、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。


「どこ行くの? 授業、終わりだよ。まだ全然話したりないから放課後色々話し合おう。僕の部屋に来る? それとも君の所?」

「……私がそちらに行くわ」


 どちらかを選べ。ノアの目はそう言っている。逃げられない。


「了解。美味しいお茶を用意して待ってるよ」


 それだけ言ってノアはキャロラインの腕を離し、仕入れた情報をキリに伝えるべく歩き出した。おそらくまた一人ぼっちで半べそかいているだろうアリスにも伝えなくてはならない。


「やっぱりキャロラインは黒だった。さて、次は誰にしよっかな」


 仲間は多い方がいい。次なる標的の顔を頭の中に思い浮かべながら、ノアは意気揚々と歩く。


「……」


 やっぱり、ノアのアリスに対する愛情は異常だ。後に残されたキャロラインは、どこか楽し気に歩くノアの後ろ姿を見ながらそんな事を考えていた。

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