変だな。どうして過去アリスはループに気付いてからも一人でどうにかしようと考えたのだろう? 過去アリスが残したものはこの本しか無いので、過去アリスの想いを今のアリスが推し測る事は出来ない訳だが、それにしたって……。
「お嬢様、他には何か思い出せる事はないんですか? ゲームの中で起こった事でも攻略対象に関する事でもいいので、この際全部吐いて楽になった方が身のためですよ」
まるでアリスを犯罪者か何かのように問い詰めるキリに、それまで真剣に考え込んでいたノアがおかしそうに笑った。
「キリ、その言い方は流石にアリスが可哀相だよ。それに、アリスだって巻き込まれてるだけで、別にアリスが自らループを起こしてる訳じゃないんだから」
「そうですか? お嬢様の事ですから、案外シャルル様に言い寄りたいが為に無理やり深層心理的なものでどうにかしたとかでは?」
「……」
まったく酷い言われ様である。アリスはキリをキッと睨むと、フンとそっぽを向いた。
「深層心理だけでどうにか出来るなら、僕にだって変えたい過去の一つや二つはあるし、皆の願いを叶えていたら、それこそたったの一秒も時間は進まないと思うよ?」
「そうだそうだー!」
(私は被害者だー!)
ノアの後ろに隠れて拳を振り上げたアリスを庇うようにノアが頭をヨシヨシと撫でてくれる。
「まあそうですよね。申し訳ありません。言ってみただけです」
あっさりと自分の間違いを認めたキリは、自身でお茶を淹れて優雅に飲んでいる。
「待って! じゃあなんでわざわざ突っかかったの⁉」
何だか腑に落ちないアリスを見てキリが鼻で笑った。そうだ。キリはこういう奴だ。自分が攻略対象だと言われた事と、趣味のレース編みがバレた事が相当気に入らないに違いない。
「ところでアリス、君、僕の知らない間に白魔法を使えるようになったの? それが本当だとしたら、すぐにでもスクール入学案件だと思うんだけど」
「へ?」
何の事? 首を傾げたアリスの目の前にノアが先程のメモ用紙を取り出してきた。それにはしっかりはっきり『花冠1』のストーリーが書き込まれている。
「お嬢様が白魔法なんて使ってる所を見た事ないんですが」
そう言ってキリは何を思ったか、内ポケットに仕舞ってあった折り畳みナイフで自身の指先を傷つけた。
「ひっ! ちょ、な、なにしてんの⁉」
「試すんですよ。お嬢様、はい、どうぞ」
「ど、どうぞ? む、無理だよ! 生まれてこの方私が魔法らしい魔法を使ってるの見た事無いでしょ⁉」
「無いですよ。だから余計に信じられないんですが、試す価値はあるかと」
まさかこんな所でこんな無茶振りをされるとは思ってもみなかった。青ざめるアリスを他所にキリの指先に、あれよあれよという間に血の玉が出来上がる。
「キリ、そんな突然言っても……」
「ど、ど、どうしたら⁉ ど、どうする⁉」
パニックになったアリスはとりあえずハンカチでキリの傷口を押さえて強く念じた。
治れ! と。その時、一瞬ハンカチが白く光った。その光にキリとノアどころか、アリスも驚いたように目を見開く。
(ま、まさか? これが噂の……ヒロイン補正……?)
「嘘でしょう……?」
「まさか!」
「はわわわわ!」
驚いてハンカチをどけると、そこには血の玉が無くなっていた……が、それは一瞬の事だった。ハンカチを避けた途端、また普通に血がドクドクと出て来る。
「ただ止血してた……だけ?」
「はぁ……こんな事だろうと思ってました」
「はわわわわ……」
ハンカチにはしっかりとキリから吸い取った血がついている。そして今もキリの指先から血は出ていた。
アリスはそっと立ち上がって部屋に添えつけてある救急箱から消毒液と包帯を取り出して、いそいそとキリの指先を手当する。
「良し!」
「良し! じゃないですよ、お嬢様。紛らわしい光出さないでもらえますか? 一瞬でも期待してしまったではありませんか」
「ご、ごめ……ん? 私、悪くないよね⁉」
(あぶないあぶない。流されて謝るとこだった)
フンと鼻を鳴らしたアリスを見て、キリが小さく笑う。
「でも、どうして光ったんだろうね。キリ、何か気付かない?」
「そうは言われましても特には……あ、でもそう言えば、痛みが無くなった気がしますね」
「痛み?」
「はい。指先を怪我すると、普通はいつまでもズキズキするものですが、今はそれが一切ありません」
「……なるほど。もしかしたら……アリス、ちょっと外に出ようか。キリもついてきてくれる?」
「はい」
「へ?」
何か思いついたのか、ノアが突然アリスの手を取って立ち上がり、部屋を出て屋敷も出る。
ノアに連れて行かれた先は、バート・グリーン家だった。グリーン家は代々農家だ。そしてここのミルクは大変美味しい。チーズはもう、ほっぺが落ちるレベルだ。アリスはよくキリに隠れてここに来ては、牛の乳しぼりと作物の雑草取りをして、お駄賃としてミルクとチーズを頂いている。ちなみにバセット家の家庭菜園の苗も、このグリーン家から譲り受けたものだ。
「兄さま?」
「ちょっと待っててね」
ノアはそう言ってアリスとキリを置いてグリーン家に入って行ってしまった。
しばらくすると屋敷の中から困ったような顔をしたバートが顔を出し、アリスを見つけるとその顔をさらに歪ませる。
「ど、どうしたの? バート」
「アリスお嬢……それが、キャシーが一週間前に溝に落ちて足を痛めたんですよ……」
「キャシーが⁉ だ、大丈夫なんだよね⁉」
キャシーというのは、アリスが一番お気に入りのミルクを出す雌牛だ。
燃費の悪いアリスの舌は、そんじょそこらの犬にも負けないほど発達している。ほんの少しの味の違いで、その日の牛の体調でさえも当ててしまう程なのだ! とんだ特技である。
それを知っているバートは、いつも家畜に不調をきたしたら、まずアリスに食べてもらうようにしていた。
アリスの問いかけにバートは首をゆっくり振ると悲し気に視線を伏せた。
「それが折れてはないみたいなんですが、何せ痛みが酷いみたいで気が立ってしまって治療もさせてくれんのです。このままでは傷口からばい菌が入ってあっと言う間にお陀仏ですよ」
「そ、そんなっ!」
キャシーが居なくなるなど、そんなの耐えられない。アリスはどうにかして欲しくてノアを見上げると、ノアは真剣な顔をしてアリスの肩をポンと叩いた。
「アリス。さっきのを次はキャシーで試してみよう」
「えっ⁉」
「なるほど。それはいい案ですね。お嬢様、出番ですよ。ほら、ゴー!」
まるで犬でも扱うようなキリに背中を押された。いつものアリスなら嫌味の一つでも言うだろうが、今はそれどころではない。キャシーの命がかかっているのだ。
「ア、アリスお嬢、い、一体何を? あ、危ないですからお止めください!」
「駄目だよ! キャシーはもはや私の家族! 毎日手伝いする代わりに美味しいミルクをくれる、もはや私にとっては母も同じ! 絶対に助ける!」
「牛が……母?」
背中にキリの何とも言えない声が聞こえたが、アリスはそれを無視して牛舎に向かう。
牛舎の中ではキャシーが痛みに耐えられないのか、酷く暴れていた。そんなキャシーに興奮した他の牛たちも暴れていて、牛舎の中は今や阿鼻叫喚だ。
これでは他の牛たちまで怪我してしまう。
アリスは考えた。無い知恵を絞る。どうすればいい? どうしたらこの混乱を抑えられる?
「アリス、集中して。まずこの牛舎全体を魔法で包むようにイメージするんだよ」
「兄さま……」
「牛たちは酷く興奮しているから、まずはそれを落ち着かせよう。ほら、イメージして」
「イ、イメージ? な、何を…」
「何でも構わないよ。アリスが落ち着くものなら何でも。例えばのどかな風景とか、小川のせせらぎとか、そういう心が落ち着くようなもの」
「……」
ノアは簡単に言うが、そんなもの咄嗟に何も思い浮かばない。
心が落ち着く……心が落ち着く……ふと頭に浮かんだのは、自室のベッドでゴロゴロ転がりながら推しの同人誌を読む自分の姿。うん、あれは癒しの一時だ。
そう思った瞬間、牛舎に柔らかい光が降り注いだ。するとどうだろう。今まで暴れていた牛がその光を浴びた途端、まるで我に返ったかのようにモッシャモッシャと餌を食べだしたではないか。
ほんの少し前まで阿鼻叫喚だった牛舎に、いつもの風景が戻る。
「や、やった……」
「うん。じゃあ次、キャシーの痛みを取ってやろう」
「うん!」
嬉しくなったアリスは意気揚々とキャシーに近づいた。キャシーは幾分落ち着きは取り戻していたが、やはり足が痛いのだろう。近寄るといつものキャシーからは考えもつかないほど警戒している。それでもアリスは怯まなかった。何せキャシーはアリスの母だ。母が痛い想いをするのはアリスも嫌だ。ついでに、キャシーほど絶品のミルクを出す牛は他には居ない。
アリスはこんな時でも食い意地が張っているのだ。
今までアリスは魔法のまの字も使えなかった。この世界には魔法が使えないものなど居ない。それなのに、だ。
けれどそんな自分とも今日でサヨナラだ。ニューアリスは魔法も使えるのだ!
アリスはキャシーにギリギリまで近寄ると、怪我をして血を流している後ろ脚に目をやった。
「兄さま触れないんだけど、どうすればいいの?」
「うーん、眠らせてみるとか?」
「なるほど! 眠いイメージ、眠いイメージ……」
琴子で居た時の眠る前の習慣、スマホで推しの顔を見ながらニヤニヤする事。するとどうだろう。いつもあっという間に夢の中に引きずり込まれるのだ。その威力たるや、きっと睡眠薬も真っ青だっただろう。
「アリス! キャシーが眠ったよ! 今のうちに魔法をかけよう」
ふと目を開けるとキャシーが痛みを堪えているのか、苦悶の表情を浮かべながら眠っている。
アリスはそんなキャシーの後ろ脚の怪我に両手を添えると、強く願った。
「痛いの痛いの、あっちの山まで飛んでいけーーーー!」
そう叫んだ瞬間、両手からさっきよりもずっと強い光が溢れた。それと同時にキャシーの苦悶の表情もスッと消える。
「ぶもぉ?」
パチリと目を開けたキャシーは不思議そうな顔をしながら立ち上がると、アリスの顔を大きな舌でベロベロと嘗め回してきた。
「早く治療を!」
アリスが叫ぶと、唖然とした顔をして控えていたバートと獣医があわあわとキャシーの怪我の手当を始めた。しばらくして。
「いやぁ、まさかアリスお嬢にこんな魔法が使えるなんて思ってもみませんでした! 本当に、アリスお嬢はキャシーの命の恩人ですな!」
ハッハッハ! と嬉しそうな顔をしてバートはキャシーの鼻っ面を撫でた。それを受けてキャシーも目を細めてぶほぶほ言っている。
「良かった……キャシー……キャシーが居なくなったらと思ったら、私……」
キャシーの怪我は思ったよりも酷かった。確かに折れては居なかったようだが、汚いドブに落ちたのが悪かったのか、既に傷口が化膿し始めていたのだ。
けれどアリスの魔法が利いていたのか、膿を取り除く作業をしている時もしみる傷薬を塗り込んでいる時も、少しも痛がる事は無かったという。
「アリス、よくやったね」
「兄さま! 私、私にも魔法が使えたよ!」
「うん。君の魔法は素晴らしかったよ。僕も驚いた。ねえ、キリ?」
それまでただ黙ったまま動向を見守っていたキリだったが、ノアに問われてようやく口を開いた。
「そうですね。魔法自体は素晴らしいですが、私は牛を母と言い切ったお嬢様に驚きを隠せませんね」
「そこぉ⁉ もっと褒めていいよ⁉」
「お嬢様、褒める事を強要するのはどうかと思いますよ」
意地悪な顔をしてそんな事を言うキリなど放っておいて、アリスはノアに向き直った。
「兄さまのおかげだよ! 兄さまは教え方が凄く上手なんだね!」
「そう? そんなに褒められると僕も嬉しい。でも、アリスが的確にイメージ出来たからだよ。一体、何をイメージしたの?」
「え? ゴロゴロ転がりながら推しの本を読んでいる所と、寝る前に推しの写真を見つめて眠りにつく所だよ」
その言葉にノアとキリは凍りついた。
「……ノア様、いちいちお嬢様の思考を聞いてはいけません。お嬢様はノア様が思っているよりもずっと脳内にお花が咲き乱れているし、性格的には聖女から一番程遠い人種です」
「……うん、ごめん」
ノアはてっきりアリスは、川のせせらぎや森の囁きとかをイメージしたのだろう、と思い込んでいたのだが、その点キリは流石だ。アリスの事を大変よく理解している。
「でも、私にも魔法が使える事が分かって良かった! ずっと悩んでたんだよ! 兄さまのおかげだよ。ありがとう、兄さま!」
「魔法に大事なのは強い意志だから、アリスは今までそこまで強い意志を持った事はなかったのかもね。キリの傷やキャシーの怪我を見て、それを心の底から助けたいと思ったから発動したんだと思うよ。まあ、これはフォスタースクールの先生の受け売りだけど」
ノアははにかみながらそんな事を言って頬をかいた。受け売りだろうが何だろうが、アリスにそれを教えてくれたのはノアなのだから、やはりノアに感謝を伝えたくてアリスはノアに抱き着くといつものように頬ずりをする。
「で、結局お嬢様の魔法は何なんですか? 白魔法という訳ではないですよね?」
「う~ん、白魔法であれば治癒までしてしまうもんね。でも、アリスは治癒は出来ない。その代わり痛みを取ったり落ち着きを取り戻させる事が出来る……これはおそらく、魅了、じゃないのかな」
「魅了……ですか」
「みりょー……」
これまた地味な魔法である。ヒロイン補正は一体どこへ行ってしまったのか。ふぅ、と悩まし気なため息を落としたアリスとは違い、何故かノアは真剣な顔をして考え込んでいる。
「兄さま?」
「アリス、君はやっぱり早く学園に入学した方がいいのかもしれない」
「え? ただの魅了なのに?」
魅了なんて、本当にありふれた魔法だと思うのだが。そんなアリスの思考を読んだみたいにノアが首を振った。
「ただの、だなんてとんでもない。魅了はあくまで人にしか効かない。というのも、人はとても複雑な思考をするからなんだ。魅了は本来、人の思考の隙間に入り込んで考えをほんの少しだけ変える魔法なんだ。だからとても時間がかかるんだよ。でも、アリスのは違う。複雑な考えをしない動物に効いたうえに、これだけの数の牛を一瞬で大人しくさせる事が出来た。痛い、怖い、という感情を一瞬で変えてしまうなんて、とんでもない事だよ。使いようによっては凄い魔法だね。でも間違えた使い方をしたら……とても恐ろしい魔法だ」
「……」
(ま、待って。それだけ聞いたら私まるで……)
「まるで魔女が使いそうな魔法ですね」
「言う⁉ ねえ、言っちゃう⁉」
キッと睨んだ視線を避けるようにキリはアリスからスッと視線を逸らした。
(コイツわざとだ! 絶対にわざとだ!)
「僕の可愛いアリスが魔女なんかになる訳ないじゃない。ねえ? アリス」
「兄さま……」
ヨシヨシと頭を撫でてくれるノアの手はとても優しくて、アリスは思わず目を細めた。
魔女だんなて本当に失礼だ。自慢ではないが、アリスは自分の得にならない事はしたくないのだ。だから誰かが痛いのは嫌だし、悲しい想いもしたくない。つまり、アリスはとても自己中なのである。決して胸を張って言う事でもないのだが。
そしてアリスの脳内は基本的にはお花畑である。そんなお花畑が考える事など、知れている。
「ねえアリス、覚えてる? 過去アリスの十四回目」
「十四回目? えっと……」
「断罪エンドですよ、お嬢様」
「わ、分かってるよ! 兄さま、それがどうかしたの?」
「うん。あれって、もしかしてアリスの力が暴走したんじゃないのかな? それこそ、何かがあってキリの言う様に魔女になってしまったのかも」
「なるほど、考えられますね。基本単純バカだから誰かに何か吹き込まれたか、もしくは極限までお腹が減ってたか……」
「ちょっと⁉」
いくら燃費の悪いアリスでも、お腹が減ったからと言って暴走したりはしないと思いたいし、今はっきりバカって言ったな?
「そんな理由は流石に兄としては悲しいけど、まあそうだね……アリスだからね……」
ポツリとノアはそんな事を言って遠くを見ている。これはノアにもバカだと思われている。
「も、もういい! 草むしりしてくる!」
アリスはプンプン肩を怒らせてすっかり元気になったバートの元へ向かった。