「ルイスは……ルイスルートだけは嫌――――!」
ハッと息を飲んで飛び起きたアリスは、急いで手紙でルイスとの婚約を辞退しようと机に駆け寄ってふと気づいた。
「あ、あれ? あれ⁉」
小さな自分の手を見たアリスはその手で顔をぺたぺたと触って何かに気付き、急いで鏡の中の自分を見るなり、そのまま後ろにパタリと倒れて意識を失った。
「……嬢さま、お嬢さま」
「んん?」
アリスは誰かに揺さぶられてうっすらと目を開けた。
目の前にはバセット家の執事見習いのキリがこちらを怪訝な顔で見下ろしている。
呆れたようにこちらを覗き込む彼はせいぜい十五歳かそこらだが、その顔は幼くてもハッキリとイケメンだ。さらさらストレートの黒髪と口元の黒子がこの歳で既にセクシーさを醸し出している。
(こ、ここにも攻略対象が……)
また気が遠くなりそうになるのをグッと堪え、アリスは差し伸べられた手に捕まって起き上がると、今までの失態を忘れたかのようにニカッと笑う。
「おはよ! キリ」
「……おはよ! じゃありません。床で白目向いて寝てるなんて、一体どんな寝相ですか」
「ご、ごめんなさい」
「早く支度してください。朝食食べてないの、お嬢様だけですよ」
「うん! すぐ着替える!」
そう言って手早くキリを部屋から追い出したアリスは、もう一度恐る恐る鏡を覗き込んでゴクリと唾を飲み込んだ。
「も、戻ってる……私、戻ってる!」
この餅のようなほっぺ、この小鹿のような足! これはどう見ても子供だ! 恐怖のルイスルートは回避したのだ! そこまで考えたアリスは重大な事に気付いた。
違う。回避したのではない。始まってすら居ないのだという事に!
「ど、ど、ど、ど」
(どういう事⁉)
言葉にならないアリスは一旦落ち着く為に大きく深呼吸をして、とりあえず琴子の記憶を忘れないようにゲームの詳細を書き留めようと机の鍵がかかった引き出しを開け、日記帳を取り出そうとして引き出しの中の違和感に気付いた。
「?」
引き出しを下から覗き込むと、歪に作りつけられた二重棚が見える。
「なんだろ?」
こんなもの、棚の中にあったっけ? そう思いながら引き出しを引くと、中から禍々しいほど真っ黒な装丁の一冊の本が姿を現した。
恐る恐るそれに手を伸ばして本をめくるアリスの背中に冷たいものが流れ落ちていく。
「ひっ……ひぃぃぃぃ!」
パサリと本が足元に落ちた。真っ黒な装丁からしてロクなものではないだろうと思ってはいたが、中を見て想像以上だったと思い知る。
(こ、これは……こ、攻略本……しかも手書き……)
真っ黒な本の正体はアリスによる、アリスの為の『花冠』の攻略本だった。
何よりもっと恐ろしいのは、一つのエンドが終わるとまた始まるのだ。新しいルートが。
「て、転生してる上にループしている……⁉」
急いでページをめくると、最後のページには、
『二十二回目、カイントゥルーエンド完了。次に託す。最後まであがけ! 妥協を許すな! シャルに辿り着け、アリス! お前なら出来る!』
などと書かれていて、過去のアリスがどれほどまでに苦労してカインルートを攻略したのかが伺えた。こんな熱いメッセージを送るほどだ。よほど難しかったのだろう。
本を持つ手が震える。アリスが呆然とその場に立ち尽くしていると、ドンドン! と乱暴にドアが叩かれた。
キリだ。怒っている。相当怒っている。
「お嬢様! 朝食です! まさか十四歳にもなってドレスが一人で着られませんか⁉」
「き、着られる! 着られます!」
そのままドアを突き破ってきそうな勢いのキリに慌てて返事をしたアリスは、本を二重棚に仕舞い込んでしっかりと鍵をかけ、急いで着替えた。廊下に飛び出すとキリが目を吊り上げてこちらを睨んでくる。
「ご、ごめんなさい」
「全く、今日はどうしたんです? 白目向いて床で寝てるわ、ドレスは着れないわ、髪はボサボサだわ、散々ですよ」
「はい、ごめんなさい……」
「俺に謝られてもね! 困るんですよ!」
「仰る通りです……」
「後でしっかりハンナとロイに謝っておいてくださいね!」
それだけ言ってキリはさっさと歩き去ってしまった。
ちなみにハンナとは、この家の唯一のメイドでロイはコックだ。後は庭番のジョージである。
最低限の使用人しか居ないのは、ここが辺境にあるちっぽけな男爵家だから。
当主でありアリスの父、アーサーはお人よしが過ぎてすぐに人に騙されてしまう。そんなだからいつまで経ってもバセット家は貧乏なままだった。そんな父に呆れて母はアリスと兄のノアを置いて家を出て行ってしまった。アリスが2歳の時だ。
それでもアリスが擦れる事なく素直に(少々お花畑に)育ったのは、偏に家族や使用人達、領地の人達の惜しみない愛情のおかげだろう。皆にはいくら感謝してもしきれない。
アリスは一旦さっきの本の事やループの事などもすっかり忘れてルンルンと廊下をスキップしていた。
「ごっはん~ごっはん~」
腹が減っては戦など出来ないのだ! 育ち盛りのアリスにとって重要なのは、何よりも食事である。
早々に食事を終えたアリスは、部屋に戻りまたあの本を取り出した。
(読みたくないなぁ~めくりたくないな~)
そうは思っても読まねばなるまい。せっかく先人のアリスが残してくれた攻略本だ。
嫌々ながら人差し指と親指で抓むようにページをめくると、一回目のループについての攻略が書かれていた。
いや、この時点ではまだループだという事も知らぬまま、誰ともくっつかない、いわゆる大団円エンドを迎えている。これはノーマルエンドだ。どうにか誰かとのトゥルーエンドを迎えようとしたようだが、八方美人が過ぎて誰ともトゥルーエンドを迎えられなかったらしい。
(乙ゲー初心者か!)
思わず心の中で突っ込んだアリスは、そのまま二回目の攻略に目を通した。
二回目はどうやらこの本を見つけて早々にループしている事に気付いたようで、果敢にも真っ先に隠しキャラであるキリに挑戦している。その後も何度もループを繰り返し、『花冠1』ヒロインアリスの全てのエンドをクリアしていた。
「おかしい……よね、これ……」
アリスの手はまだ震えている。読み進める内にどんどん恐ろしくなってくる。
全てクリアしているにも関わらず本は終わらず何故かその後もループは続き、それ以降のエンドは攻略対象は増えないものの、本家のゲームには無かったはずのアリス断罪エンドや、処刑エンドまであった。とてもここでは言えないようなエグいエンドまである。
どうやらそれには他のアリス(ややこしいので以降は過去アリスと呼ぶ)も気づいたようで、正規エンドを全て終えたにも関わらずループしている事に気付いた過去アリスのページは、絶叫から始まっていた。
全て読み終えたアリスは、紙を取り出して気付いた事をまとめていく。
「ずっとループしてる。しかも記憶を思い出す時期は皆バラバラ……。前回の私が『花冠』を思い出したのはキャロライン様断罪イベントの真っ最中で、何も書けてない。その前はフォスタースクールに入学した時でカインエンド……。これはどういう事?」
その他にも不思議な事がある。どの過去アリスも、肝心のシャルルに会えていないのだ。
『花冠』一番の推しだと言うのに! なんたる不幸! なんたる不運!
ゲームのシャルルの登場シーンはゲーム中盤辺り、魔法の授業でアリスのクラスはフォルス公国に向かう事になる。ここでシャルルはこの世界では珍しい白の魔法を使うアリスに気付き興味を持つ、というものだったのだが、どのループを見ても過去アリスはそのルートを辿っていない。
なので、過去アリスが白魔法を使う事を誰も知らない状態でエンディングを迎えていたのだ。
それはつまり、この『花冠』には聖女が誕生しないという事になる。聖女が誕生していないにも関わらず、過去アリス達が全てのエンディングを迎えているのは、一体どういう事なのだ?
「うぅ~~~~~~わかんなぁぁい!」
途端にお腹がグゥと鳴った。アリスは男爵令嬢とは思えない程食い意地が張っている。言い方を変えれば、アリスは非常には燃費が悪いのだ。
本を一旦机に戻して意気揚々と庭に出ると、ジョージが今日も汗を流しながら庭仕事をしていた。
「ジョージ、おはよ~」
「ん? お嬢、おはようございます。今日は何採りにきたんですか?」
ニヤリと意地悪な笑みを浮かべたジョージはアリスにハサミを手渡してくれる。
「トマトとキュウリ採ってもいい?」
「構いませんよ。でもあんまり採りすぎないでくださいよ? またロイに怒られるから」
「は~い!」
アリスはハサミを持ってジョージの育てる家庭菜園をグルリと見て周って真っ赤に熟れたトマトとピカピカツヤツヤのキュウリを二本採ると、そのまま屋敷の裏に流れる小川に向かう。
アリスは川に石垣を作ってそこに野菜をつけると、自分も靴を脱いで足を川に浸した。
「つめた~い! 天国~」
まだ初夏とは言え暑い。足を川につけたままゴロリと寝転んで目を閉じると、サワサワと風が木々を揺らす音や小鳥達の囁き声、虫の大合唱が聞こえてくる。
「夏とは言え、こんな所で寝ていたら風邪引きますよ」
どこかで聞いた事のあるような声にアリスがハッと目を開けると、見事な銀の髪と月のような金色の瞳の少年が視界に飛び込んできた。
「シャ、シャルル⁉」
まさかの推しの姿にアリスが勢いよく起き上がると、シャルルは驚いたように目をぱちくりさせている。
(何で⁉ ずっと、ずっと会えなかったのに!)
さっき読んだばかりの過去アリスの苦労を思い出して思わず涙ぐんだアリスを見て、シャルルは柔らかい笑みを浮かべた。
「私、どこかであなたに会いましたか?」
丁寧だけれど威圧感のあるシャルルの言葉にアリスはしまった! と頬を引きつらせる。
「えっと、あの……」
どう言い訳しても怪しい気がしてオロオロするアリスを見て、シャルルは声を出して笑う。
「冗談ですよ、アリス。あなたアリスでしょう? 蜂蜜色の髪に緑の瞳。うん、ノアに聞いていた通り」
「兄さまに?」
「ええ。フォスタースクールが今日から夏休みなので、ノアに誘われたんです。良かったら遊びに来ないか? って。それを聞いていたんでしょう?」
「そ、そう! 兄さまからの手紙で、あなたの事聞いてて、それで……」
とんだ嘘っぱちである。思わぬ所からの助け船に瞬時に乗り込んだアリスは、引きつった笑みをシャルルに向けた。そんなアリスを見てシャルルは口の端だけを上げて意味深に微笑むと、アリスに向かって手を差し出してくる。
恐る恐るシャルルの手に自分の手を重ねると、グッと掴まれてそのまま引っ張り上げられた。
「ひやぁ!」
「ふふ、すみません。で、ここで何をしていたんですか? アリスは」
驚いて目を丸くしたアリスにシャルルが問いかけてくる。
けれどアリスの脳内はそれどころではない。長年夢にまで見た推しが今! 目の前にいるのだから!
そんないかにも挙動不審なアリスに流石のシャルルも不審に思ったようで、突然アリスの目の前で指をパチンと鳴らした。その途端、アリスはハッと我に返る。
「目が覚めました?」
「は、はい。ご、ごめんなさい」
「じゃあもう一度。ここで何をしていたんですか?」
一言一言、何かを確認するかのようなシャルルの言葉に、アリスは首を傾げて川に視線を落とした。そこにはさっき採ったトマトとキュウリがプカプカ浮いている。
「こ、これ! これを冷やしてたんです! そうだ! シャルルも食べる?」
「ここで? 食べるんですか?」
「うん! うちの野菜、美味しいんだよ! 半分こしよ!」
アリスは川に手を突っ込んでトマトとキュウリを取ると、キュウリを一本シャルルに手渡した。トマトはどうしようか考えていると、シャルルがポケットから折り畳み式のナイフを取り出す。
「貸してください。私が切ります」
「うん、ありがとう」
言われるがままトマトを差し出したアリスは、怖いぐらいの平常心に自分自身が一番驚いた。さっきはあれほど荒れ狂った波のようだった心が、今は穏やかな波のようだ。
綺麗に二つになったトマトを半分受け取り、河原の石にシャルルと並んで腰かけて片手にキュウリ、もう片手にトマトを持って大きな声で挨拶をする。
「いっただきま~す!」
もはや食い意地の権化である。そんなアリスの様子にシャルルは不思議そうに首を傾げた。
「イタダキマス?」
「うん! ご飯食べる時の挨拶だよ!」
「へえ……」
ポツリと呟いたシャルルの声は目の前のトマトとキュウリに夢中のアリスには届かなかった。
二人で並んで食べた野菜は最高に美味しかったけれど、果汁たっぷりのジューシーなトマトはアリスのドレスを汚すのに一役かってくれた。ついでにアリスの顔も。
「アリス、トマトで口元が汚れてますよ」
「へ?」
キョトンとするアリスの口をシャルルが笑いを堪えながら丁寧に拭いてくれた。あまりにも一瞬の事にアリスは驚きすぎて呼吸が一瞬止まりそうになる。
ゲームではシャルルはハンカチをアリスに手渡してそのまま立ち去ってしまうが、目の前にいる推しはハンカチであろうことかアリスの口を拭いたのだ!
これが興奮せずにいられるか⁉ 答えは否! 思い切りニヤけるアリスを見てシャルルがまた目の前で指をパチンと鳴らした。
「はっ! 私、一体何を……?」
我に返ったアリスが隣のシャルルを見ると、シャルルは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「すみません。私はまだ自分の魔法が制御出来ないみたいなんです」
「魔法?」
「ええ。魅了、という魔法なんですが、聞いた事ありませんか?」
「魅了! 知ってる! ぽわわ~んってなっちゃう奴だよね⁉」
「ぽわ? ええ、多分そうです」
「凄いね! 魔法使えるのかっこいい!」
「かっこいい……ですか?」
「うん! 私、何にも使えないもん」
言ってからふと思う。あれ? アリスは確か白魔法が使えるはずだ。それなのに口は勝手に魔法を使えないと言う。
アリスの答えにシャルルは優しく微笑んで唐突にアリスの頭を撫でてくれた。
「いずれあなたにもきっと、魔法が使えるようになりますよ。あなたの体の中には素敵な魔力が流れているので」
「ほんと?」
「ええ。きっと」
あまりにも優しい笑みに先程の小さな違和感はすぐに消え去ってしまう。心穏やかとは言え推しは推し。アリス・イン・琴子はまさにシャルルの魅了にすっかり堕ちていた。
楽しい時間というのは過ぎる時はあっという間だ。今日、この事を部屋に戻ったらしっかり書き記さなければなるまい。過去アリスの為にも!
「そろそろ戻る?」
「そうですね。ノアも待っているでしょうし、アリスもノアに会うのは久しぶりでしょう?」
「うん!」
大好きな兄に会うのは半年ぶりだ。アリスはシャルルに手を引かれて立ち上がった。子供のシャルルの視線はまだアリスと変わらない。
ふ、とシャルルの金色の目が細められた。薄く笑った口元は、とてもさっきまでのシャルルとは思えないほど酷薄だ。
「……シャルル?」
どうしてそんな顔をするのか尋ねようとしたアリスの目を塞ぐようにシャルルが手の平で覆ってきた。同時に耳元で囁くようなシャルルの声。
「ダメですよ、アリス。好奇心は猫を殺す、ですよ」
「なんでそんな言葉……今……?」
そこでアリスの記憶は途切れた。