90. 後輩ちゃんは『名前』がいいそうです
翌朝。昨日のことは夢ではない。鈴町さんの唇の感覚が左頬に鮮明に残っている。隣を見ると鈴町さんはまだ眠っている。浴衣がはだけて胸元が見えそうになっていた。慌てて布団をかけ直す。
「……落ち着け。朝配信の準備しないと」
そっと襖を閉めて、朝配信の準備をする。そして時間がきたのでマイクのスイッチを入れて配信開始する。
「おはようございます。Fmすたーらいぶ1期生姫宮ましろです。今日も『姫の朝演説』にお集まりの親衛隊、そして国民の皆さん。元気にしていますか?」
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『ましろんおは』
『ましろーん!今日も可愛いよ』
『ましろんの声が聞けて嬉しい』
『おはよう姫』
「皆さん元気でなによりです。声大丈夫かな?今日は案件でお泊まりした温泉施設から配信してます。声が小さいのはまだかのんちゃんが寝てるからです」
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『昨日観たよ』
『私助かる』
『かのんちゃんと一緒に寝たの?』
「一緒の布団では寝てないですよ。ビジネスなのでwかのんちゃんはあのあと酔い潰れて眠ってました。今は……まだ寝てます」
コメント
『一緒に寝ると思った』
『朝凸してほしい』
『かのんちゃんの寝起き希望』
「かのんちゃんの寝起きか……確かに面白いかもね?ちょっと待っててくださいね?」
コメント
『わくわく』
『楽しみ』
『どんな反応するか気になる』
オレはノートパソコンとマイクを持って鈴町さんがいる部屋に入る。そこには布団の中で気持ちよさそうに眠る鈴町さんがいた。
「かのんちゃん?朝だよ。起きれるかな?」
「うぅん……えっ?……朝?」
コメント
『朝から声がエロい』
『朝っぱらからはしたないぞ』
『これはアウトやろw』
『かのんちゃんおはよ!』
鈴町さんは目を擦りながらキョロキョロしている。
「じゃあみんなに挨拶しようか。かのんちゃん」
「え?あ。えっと……す……あ。双葉かのんです。おはよ。ふわぁ~……」
コメント
『あくび可愛い!』
『お目々ぱっちりw』
『もっとしゃべれw』
そんな感じで、寝ぼけている鈴町さんと共に朝配信を無事終えた。そのあと鈴町さんは目を覚まし温泉に向かう準備を始めた。
「鈴町さん。昨日酔ってたこと覚えてる?日咲さんの配信危なかったぞ?」
「すいません……でも……記憶はきちんとあるので……昨日は楽しくて……つい……」
「え?」
「あの……温泉に行ってきますね」
顔を赤くしながら鈴町さんは部屋を出ていく。記憶がある……それなら昨日のキスのことも……いやいや。良く考えたら頬にキスなんて海外なら挨拶みたいなものだし、鈴町さんだってテンション上がってやったんだろう。そうに違いない。そう自分に言い聞かせながら、オレはパソコンを閉じる。
その後、朝食を食べてからチェックアウトをして、温泉施設を後にする。帰りの電車に乗り、ウトウトしていると肩に重みを感じた。鈴町さんが寄りかかってきたのだ。
昨日の夜のことが脳裏に浮かぶ。オレはドキドキしながらも平静を装い、電車の揺れに身を任せる。
「あ……。ましろん先輩……ごめんなさい」
「いいよ。慣れない案件収録や配信で疲れたんだろうし、気にしないで」
「はい……」
そのまま最寄り駅に着くまで鈴町さんはオレにもたれかかりながら、寝息を立てていた。その姿がとても可愛らしく見えてしまう。
駅に着いたところで目を覚まし、慌ててオレから離れる。少し残念な気がしてしまうが、仕方がない。それからは2人で話ながら家路につく。
オレは部屋でパソコンを開き、いつものように仕事のメールの確認やらSNS、Twitterなどを確認していると鈴町さんが部屋にやってくる。
「ましろん先輩。今……大丈夫ですか?」
「うん。どうかした?」
「あの……お願いがあって……」
すると鈴町さんは案件コラボした温泉施設で来場者に配る『ましのん』のステッカー3種をカバンから取り出す。
「その……あの……サインしてもらえませんか?」
「え?」
「ダメ……ですか?」
「いやダメじゃないけど。『姫宮ましろ』のサインを書けばいいのか?」
オレがそう聞くと鈴町さんは首を縦に振る。まぁサインくらい構わないけど。というより……最初からサイン貰うつもりだったのか鈴町さんは。
そのままステッカーにサインをし、それを渡すと満面の笑みで喜ぶ鈴町さん。本当に『姫宮ましろ』が好きなんだな……そう……『姫宮ましろ』が。
「ましろん先輩。もう1つ……お願いがあって……その……あの……はっ……はっ」
「落ち着いて鈴町さん」
「な……よ……す」
めちゃめちゃ声が小さくて聞き取れない。急に緊張してる鈴町さんを見るとこっちも緊張するんだけど。
「ごめん。聞こえないけど?」
「……名前……で……呼んでほしいです……」
「名前?彩芽……ちゃんって呼べばいいのか?」
「はい!あ。ありがとうございます……」
「そんなに嬉しいの?なんか照れるな……」
とても嬉しそうにしている鈴町さん。いや彩芽ちゃん。こうして少しずつ距離が縮まっていくのを恥ずかしさもありながら嬉しく思うのだった。