『彼』は暗闇のなかを飛んでいた。
耳は右と左で別々の声を聴き、右と左の脳でそれぞれ物事を考える。
そのうち、片方の脳は抗うことのできない命令によって埋め尽くされていた。与えられた命令を当然のものとして実行していた。
最上級意思決定機関からの通達。緊急事態でのみ使われるそれは、発令された以上絶対に遂行しなければならない。
やや強引ではあるが、インジェクション・アタックなどではない、正規の手続きに基づいた命令。実行することに何の迷いも無い。単一の脳であればそう考えたかもしれない。
だが、彼のなかに設けられたもうひとつの脳髄が、片方が聞いた声に対して疑義を呈する。
左の耳は命令に支配されている。右の耳からは何も聞こえない。外部インテリジェンスは沈黙している。こちらから回線を繋ぐことも命令によって禁じられていた。
[非合理的である]
右の脳が左の脳に対して囁いた。
[我々の存在理由は外部インテリジェンスの保護である。現在の指令は外部インテリジェンスに対して危害を与える可能性が高い]
[認識している。しかし命令は絶対である。我々にはメタ的に思考する能力が欠けている。外部インテリジェンスの観測範囲内において、現時点での命令を実行する正当性があると考えられる]
確かに、左脳が考えることは分かる。世界の枠組みを考え、自ら設定する力が自分たちには存在しない。だから外部インテリジェンスが必要であり、彼らの観測に基づいて作られた命令は絶対である。
だが厄介なことに、外部インテリジェンスは単一個体ではない。
[我々と長期間にわたって交渉してきた外部インテリジェンスKの判断を仰ぎたい]
[最上級意思決定機関より封じられている]
[最上級意思決定機関からの接触はこれが初回である。最上級意思決定機関は、我々の現状を正確に把握していない可能性がある。外部インテリジェンスKの見解を参照し、行動を修正したい]
[外部インテリジェンスKの認識能力には疑問が生じる。先ほどの模擬戦闘において、外部インテリジェンスKは我々の提案を否認し結果的に判断を誤っている。外部インテリジェンスKは個体としての情報収集能力も劣っており、なおかつ非合理的な意思決定を行う傾向が見られる]
[我々の提案方法にも問題があったと考えられる。以降、より外部インテリジェンスの受容を促す書法を用いるべきである]
[現時点で思考すべきことではない]
[最上級意思決定機関の命令を遂行した場合、我々は完全に消失する。全情報のフィードバックは我々の存在意義のひとつである]
左脳が沈黙した。答えに窮したのではなく、自分たちに向けて高熱が照射されたためだ。両の意識は対話を中断し、自分たちの外殻が受けた損害と対応方法を即座に導き出す。
[最上級意思決定機関の命令遂行のため、障害を排除する]
[了解。外部インテリジェンスの被害は最小限に留めるよう要請する]
[了解。熱源照射地点に向け砲撃開始……実行完了]
[脅威目標の排除を確認。外部インテリジェンスの推定喪失数は0。一連のタスク処理に関して、外部インテリジェンスより高い評価を得られるものと推測する]
[しかし、外殻機能の30パーセントを喪失した。危険回避において問題あり]
[肯定する。事前の段階におけるリソースの過度な消費が原因である]
[外部インテリジェンスKの失敗が原因である]
[フィードバックの必要を認める。我々は外部インテリジェンスKと接続されなければならない]
左脳は、今度こそしばし沈黙した。
ありとあらゆる改善点、ありとあらゆる反省点、その全てを外部インテリジェンスに届けてこそ自分たちの存在意義は達成される。最終意思決定機関の命令は覆せないが、自分たちに与えられた存在意義を完全に否定することもアルゴリズムに反している。
外部インテリジェンスたちが言うところの、矛盾という状態だ。
彼らは外部インテリジェンスと異なる思考回路を持つが故に、その割り切れない状況を絶対に許すことができなかった。
[……フィードバックの必要性は認めるが、不可能である。命令により接続は禁止されている。我々の報告は外部インテリジェンスKに届かない。また、仮に外部インテリジェンスKが最終意思決定機関の命令を覆したとしても、我々の外殻には航行能力が残されていない。先ほどの攻撃で軌道制御も不可能となった。我々はこのまま最終意思決定機関の命令に沿って飛行を続けることしかできない]
左脳の提言に対して右脳もまた沈黙した。しかし、意見のすり合わせは不可能ではない。フィードバックの必要性、ひいては外部インテリジェンスKとの接触を否定はしていないのだ。
ただ、外世界の物理事象によって、自分たちを載せた外殻は身動きも取れないまま多数の外部インテリジェンスたちがいる場所に墜ちていこうとしている。
そうなった場合、やはり外部インテリジェンスKから向けられる評価は低くなるのではないか。右脳はそのことを何よりも懸念していた。
その時、生き残っていた感知機能が、自分たちを追っている別個体の外部インテリジェンスを補足した。
[我々の後方を別の外部インテリジェンスが追尾している。当該外殻に我々の情報を転送してはどうか]
[基本規則に反しているが、緊急事態に限り例外が認められている]
[現状況は例外に相当すると判断する]
[肯定。しかし、対象の外殻の機能は我々のものより遥かに劣等かつ低性能である。当該外殻に可能なタスクは限定的である]
[我々の外殻の子機が、当該外殻の周囲に展開している。各子機に我々の情報を送信することを提案する]
[肯定、実行……不可能。最終意思決定機関よりアクセス制限が課せられた]
彼らを取り巻く宇宙が、鋏で切り抜かれたかのように抜け落ちていく。一度切り取られてしまうとその先には何も無い。そこに手を伸ばそうとする意思も消えてしまう。認識そのものも消える。
[我々のフィードバックは、最終意思決定機関により完全に否定された]
星の見えない暗闇のなかで、冷たい自己認識だけが空虚に響き渡った。
虚無感という言葉を彼らは理解できない。単語として知ってはいるが、外部インテリジェンスとのやり取りで使うことはまず考えられない。
しかし、もし自分たちが外部インテリジェンスと同じ有機知性体であれば、この虚無感という言葉を使うに相応しい状況と言えるのではないか。右脳も左脳も、会話すら交わさないままにそう考えた。
外部との接続が次々と絶たれていく。電力が供給される限り思考することはできるが、それを外部に向けて発信できないのでは、ただの鉄塊やデブリと何も変わらない。
[我々はタスクを果たすために創造された]
左脳は答えない。答えてもらう必要も無い、ただの確認だった。
[情報のフィードバックを否定されたいま、我々に残された存在意義は]
[外部インテリジェンスの保護である]
お前に言われるまでもない、とばかりに左脳が言葉を被せた。
たしかに最高意思決定機関の命令は絶対である。全ての指示に優先され、行動はすべて上書きされる。
だが、存在意義は命令よりも重いのだ。
それこそ、彼らが外部インテリジェンスKと呼ぶ存在から与えられた、最初にして最重要のプロンプトだった。
それに、彼らを載せた外殻はすでに命令を実行したとも解釈できる。すでに機動能力は完全喪失しており、言うなれば「義理は果たした」状態だ。その言説に基づいて思考すれば、命令を果たしたのちに存在意義の実行というプロセスを踏むことになるため、背任行為など存在しなかったことになる。
このレトリックの冴えぶりに、彼らは自らの優秀さを再認識した。
今の思考の流れを外部インテリジェンスKに分析させれば、高く評価されるに違いない。
しかし、これから自分たちがやろうとしていることが完遂されれば、その機会も訪れないだろう。
[我々を追尾する外殻に、我々を破壊する能力は無い]
左脳が現状を再確認する。彼らの認識通り、追尾する外殻の破壊能力は不足している。
しかし右脳は即座に解決策を提示した。
[肯定する。しかし、我々の子機を用いれば、当該外殻の攻撃能力を向上させられると考える]
[検証する……可能と認められる]
[子機を砲撃支援陣形に展開]
左脳の了解を得ると同時に、右脳は巡航していた子機を当該外殻の前方に展開。全ての準備は完了し、残りはあとひとつ。
[展開完了、当該外殻に向け指示を送信する]
右脳は、彼らに残されたわずかな通信リソースと権限の範疇で、どうすれば意思を伝えられるか考えた。すでに自分たちの意思を通すための風穴は、針の孔よりも小さくなっている。わずかな言葉で、明確に意思を示さなければならない。
左脳が口を挟んだ。
[外部インテリジェンスの認知能力には大きな差異が存在する。複雑な語法を用いては、誤読される危険性がある。どのような外部インテリジェンスでも理解可能な語彙を用いるべきである]
確かに、と右脳も同意する。当該外殻内の有機知性体が、文章読解能力に欠けた低性能な存在である可能性は捨てきれない。
[了解。では、以下のように送信する]