戦いには勝ったが、カラスはしばし自失していた。緊張の糸が『ヴァジュラヤクシャ』の停止とともに切れて、同時にそれまで身体にかかっていた全ての負担が一挙に襲ったためだった。
止めていた呼吸を再開し、身体中から噴き出す汗の一粒々々を知覚した。全身の血管が痛いほどに脈打っている。
負担を減らす戦い方を意識していたとはいえ、本当の命のやり取りでないとはいえ、圧倒的に格上の存在と競り合うのは尋常でないプレッシャーだった。
「勝った……勝てた……?」
まだ実感が湧かない。それより呼吸を正常に戻す方を優先したい、そんな心境だった。
『勝ちましたよ、カラスさん!』
何もかも出し尽くして息も絶え絶えなカラスに対して、セレンは若干声が震えてはいるものの、彼よりずっと嬉しそうだった。
他人にそう言われて、カラスはようやくディスプレイを見ることができた。
『フェニクス』のすぐ目の前で、巨人機のツインアイが光っていた。剣を突きつけられた武将のようにのけ反っており、抵抗しようという雰囲気は微塵も見られない。
バレット・フライヤー同士の戦いで、彼我の距離がここまで縮まることなど稀有だ。これでは模擬弾頭の近接信管も作動せず、仮に働いたとしても必ずどちらかに被害が出てしまう。結果を今後の開発にフィードバックする必要がある以上、『ヴァジュラヤクシャ』は負けを認めて沈黙するしかない。
「はぁ……っ」
まだ肩で息をしている。それでも少しだけ落ち着いた。セレンが早口で何かをまくし立てているが、耳に入らない。仮にも己を兵器と称していた者がこの体たらく……と、少し自嘲する気持ちが生まれた。
ヘルメットのバイザーを開ける。コクピットの匂いは機械的だが、それでも中に籠った汗の臭いから逃げたかった。換気機能が働いているうえ、あまり自分の体臭を気にしたことはないのだが、今だけははっきりと鼻についた。
(シャワーを浴びたい)
普通のデオドラントでいいから誰かに差し入れして欲しい心境だった。
(いや、その前に、水分……)
シートの下をまさぐるために、ディスプレイから視線を外した、その時だった。
『カラス、退避しろッ!!』
兵士としての条件反射が、ギデオンの声に即座に反応した。カラスは自分でも何も意識しないまま操縦桿を倒し、『フェニクス』を飛翔させようとした。
もし、その動作があと一秒でも遅れていたら、カラスはコクピットごと叩き潰されていたかもしれない。
『ヴァジュラヤクシャ』の巨大な腕が薙ぎ払われ、小柄な『フェニクス』の機体を吹き飛ばした。衝撃で左翼コンテナスラスター及び頭部左側面が破損、ホロディスプレイが一瞬暗転する。
しかしカラスは、いきなり襲ってきた激震に耐えることしかできなかった。
『カラスさんっ、カラスさんしっかりしてください!!』
しっかりと言ってもな、と埒もない考えが頭をよぎった。
払いのけられた『フェニクス』は滞留したデブリのひとつに背中側から衝突した。翼尾のあたりから嫌な破断音が聞こえた。同時に、真後ろから襲ってきた衝撃によってカラスはシート前方に投げ出される。ベルトが身体を固定するが、同時に内出血を引き起こすほど強く締め付けられた。
「っ、何が!」
そう言いつつ、しかし即座にレールガンを構え直す。
だが、追撃がくることは無かった。
「!?」
カラスの眼前から『ヴァジュラヤクシャ』は飛び去り、青い航跡を残して飛び去っていた。レーダーにはその航路が映し出されている。
巨人機は、未だ多くの民間船舶が航行するタルシスⅣーⅤに進路を取っていた。
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A.D.2160 1/30 13:34
タルシスⅣ-Ⅱ近傍宙域
タルシス宇宙軍巡洋艦『ウィリアム・ダンピア』 管制室
キョウには、敗北を受け入れる時間も、自失する猶予も与えられなかった。
『フェニクス』によってレールガンを突きつけられ『ヴァジュラヤクシャ』は動きを止めた。まさかと思ったその直後、機体は彼女の手を離れて独自の戦術思考を開始した。
『キョウ君、一体どうしたんだ!? 今すぐヴァジュラヤクシャを止めろ!!』
通信ログに表示されたコメントからは、書凡の絶叫が聞こえてきそうだった。
そうでなくとも、管制室に詰めた開発局の人間は全員混乱しきっている。
言われるまでもなく、キョウもそうしたかった。最初は先日同様の電子妨害かと考えた。実際、この攻撃も同じようなものだ。
『課長、無理です。ヴァジュラヤクシャを止められません』
そう返すのが精いっぱいだった。
『ヴァジュラヤクシャ』を管制していたディスプレイには、停止線を思わせる黄色いシグナルが無数に表示されていた。
そして、その中心には宇宙軍の最上級指令を意味するコードが表示されていた。
『ヴァジュラヤクシャ』は暴走などしていない。
与えられた目的……タルシスⅣーⅤの再建地区に激突せよという絶対命令に機械的に従っているのである。
(とまれ……止まるんだ、ヴァジュラヤクシャ! わたしの言葉が見えないのか!?)
キョウは口から出せる言葉が欲しいと心の底から思った。
だが、仮に口話が使えても、いまは叫ぶことしかできなかっただろう。