「そう、墜ちない!! これくらいでヴァジュラヤクシャは墜ちませんよ!!」
書凡は思わず椅子から立ち上がって叫んでいた。磁気靴でさて勢いを止めきれず身体が少し宙に浮いた。
熱くなっていた自分を省みてすぐに席に座ったが、額には汗が浮かんでいる。正直、かなり危なかった。よもや旧型機相手にここまで苦戦するとは思わなかった。
「失礼しました、つい」
「まさに手に汗握る展開ですわね?」
クェーカーも白磁のような頬を微かに紅潮させていた。
「心臓に悪いですよ。しかしヴァジュラヤクシャは背後をとりました。これで……」
興奮と緊張に突き動かされて、知らず知らず書凡はマーマイトサンドにかぶりついていた。
一瞬で口のなかに広がった独特の風味と、猛烈な塩辛さに襲われて、盛大に咽る羽目になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「おいおいどーすんだよ、後ろ取られちまったぞ!!」
ビールサーバーのレバーを引きながら見ていたペティが怒鳴った。同時に食堂全体でも「あー……!」と落胆の声が上がっていた。
いつもはブリーフィングのために使っている大型ホロディスプレイが、今はまるでスポーツの試合を映すパブリックビューイングと化している。船員の多くがビール片手に見ていることも手伝って、いよいよ船というより居酒屋の様相を呈していた。
バレット・フライヤーの戦闘とは、実質的に交差するまでの間しか成り立たない。最初にカラスが子機を振り切った時のように、十分加速した宇宙機を旋回させるのは困難なのだ。ここからカラスが再攻撃をしようとするなら、まずは前方に進もうとするエネルギーを全て殺さなければならず、そのためにここまで消費したのと同じ量の推進剤を燃やすことになる。
タルシスのレールガンが後ろ向きに撃てるように作られているのも、この辺りの事情による。それでも、機体の最も高性能なセンサーは前方を向いているので、後方への射撃はどうしても命中精度が低くなる。
つまり後ろを取られる状況とは、こちらからは攻撃できず、減速のために貴重なエネルギーを消費し、なおかつ後ろから撃たれ続ける状況に他ならない。
「なに、それなら尻尾巻いて逃げりゃ良いだけさ」
そう言ったのは、自分専用のマーマイトサンドを切り分けていたギデオンだった。ちらりとディスプレイを見て、ついでにレバーを引いたままのペティに「泡止めろよ」と言う。気づいていなかったのか、サーバーから溢れた泡が宙を舞った。
大口を開いてぱくりと泡を飲み込むペティを見て、漁師というより魚そのものだな、とギデオンは思った。
「逃げるっていうけどな、一体どこに逃げるんだよ?」
ギデオンは軽く顎を振った。
『フェニクス』の進路上にデブリ群が広がっていた。
「さぁて、ここからが正真正銘の勝負だぞ……カラス」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――
時同じくして、巡洋艦の管制室にいたキョウ・アサクラも『フェニクス』の目的地を察していた。
崩壊したタルシスⅣーⅤのデブリのうち、大型のものが集められたエリア。『フェニクス』はそこに向かって飛んでいる。
(ぶつかってきたかと思えば、今度は鬼ごっこ……?)
優位に立っているのは明らかにこちらだが、キョウは面白くなかった。どうにも主導権を握り切れていない。
先ほどの一撃は危なかった。『ヴァジュラヤクシャ』のコーティングは実際にレーザー斬撃を弾き飛ばすほどの防御力を誇っているが、この結果になったのはあくまでコンピューターの出した計算に従ったからだ。
これが実戦であれば、もしかしたら燃料タンクや関節部のようなウィークポイントを切断されて、いかな巨人機といえど破壊されていたかもしれない。
(そうだ、負けるわけにはいかない……ヴァジュラヤクシャは、タルシスの全ての弱者の剣になるんだ。こんなところで躓いていられない!!)
状況の激変に振り回されて『ヴァジュラヤクシャ』の戦術AIは混乱の極みに達していた。様々な戦術や過去の戦況を瞬時に参照した結果、内部で劣化コピーを繰り返し生み出してはそれを摂取し続ける悪循環、すなわちDED境界に近づきつつある。
放っておけば明らかに合理性に欠けた戦術を導き出したり、悪くすると動作不良まで起こすことがあるのだが、それを解消するのがバイキャメラル・システムとそのオペレーターである。
銃を取れない者は、たとえ社会の御題目が擁護してくれても、危機的状況下では必ず虐げられる。戦時下では倫理も性善説も光を失う。
だから弱者こそ、戦場に居場所が必要なのだ。
それが危うさと背中合わせの考え方であることは理解している。しかし現にタルシスの社会は自分たちを守ってくれなかった。弱者は弱者のまま捨て置かれ、顧みられることもないままただ戦争という巨大な状況に振り回される。
(彼は……強化人間だったな)
機体の態勢を整えながら、キョウは先日出会った『フェニクス』のパイロットを思い出していた。自分とてまだまだ若いが、彼は少年と言って差し支えないほどだ。戦場に出た時は今より幼かっただろう。
強化手術も、強化人間として戦うことも、簡単なことではない。易々と下せる決断でもない。それはキョウも分かっている。
それでもなお、こう思わずにはいられなかった。
たとえどれほど身体を裂こうと、それでも戦争に行けた君が羨ましい、と。
(そうだ、私は私の戦いを完遂する! それを妨げるなら……!)
キョウは『ヴァジュラヤクシャ』に全速力で敵機を追うよう命令した。戦力差は明白、しかも形勢もこちらに有利に動いている。畳みかけるなら今しかない。
だが、バイキャメラル・システムが返してきたのは予想外の返答だった。
[追撃の必要を認めず。距離をとっての砲戦を推奨]
思わず首を傾げた。どう考えてもこちらに有利な状況であるのに、機体のAIは「止まれ」と言ってきている。
だが、戦術AIは先ほどまで『フェニクス』の動きに振り回されてオーバーヒート寸前だったのだ。まだ思考が混乱しているのかもしれない。キョウはそう判断した。
その自分の見立てに、多分に感情的なものが混ざっていることは、全く自覚できていなかった。
オペレーターからの命令は絶対である。『ヴァジュラヤクシャ』は提案を取り下げ、全推力を一方向に集中させると、人間には到底耐えられない速度で急加速した。