A.D.2160 1/30 12:44
タルシスⅣ-Ⅱ近傍宙域
タルシス宇宙軍巡洋艦『ウィリアム・ダンピア』 管制室
巡洋艦の管制室を間借りした開発局第三課メンバーは、目前に迫った模擬戦を前に最後の調整と打ち合わせに動いていた。
その一員として、キョウ・アサクラも専用の管制席に座り、『ヴァジュラヤクシャ』のメインシステムをチェックしている。長らく目を酷使し続けてきたため、若干血走っていた。モニターから少し目を離す時間すら惜しいが、それでもさすがに限界を感じて目薬を取り出した。
何度か目を瞬かせていると、開発チームの一人が心配そうな顔で彼女のモニターを覗き込んでいた。
「キョウ、今度こそプロンプトのミスは……」
『ありえません。徹底的に調べて、怪しそうなものは全て潰しましたよ』
「頼むぜ。今度の模擬戦は、タルシスの未来を占うものなんだからな?」
『分かっています』
キョウは右手で胸を二回ほど軽く叩いた。
調整は万全のはずだ。そしていざ動き出せば、『ヴァジュラヤクシャ』が型落ちのBF-03に負ける道理はない。
だが、念には念を入れて、さらに大人げないほどの仕込みを用意してある。
(オーバーキルかもしれないけど、徹底的にやらせてもらうよ)
キョウは胸のうちでカラスに両手を合わせた。
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A.D.2160 1/30 12:50
タルシスⅣ-Ⅱ近傍宙域
封鎖突破船『天燕』 仮想艦橋
いつもは船長や機関長の姿が映されている仮想艦橋に、今はセレン・メルシエの姿だけがあった。
目前に迫った戦闘を前に、セレンは誰も見ていないのを良いことに大きく溜息をついた。今回は実戦ではないので命のやり取りは発生しない。溜息が意味するのは緊張ではなく、お預けを喰らったビールのためだった。
「私もビール……飲みたかったなぁ……」
今頃『天燕』の食堂では、ペティ・バスケットが泡の弾ける金色の麦酒を次々と注いでいるのではないだろうか。
今回の模擬戦の話は、セレンたち船員の上に急に降って湧いたような案件だった。最初はあまり自分たちに関わりの無い話かと思っていたが、ギデオンは今回のエキシヴィジョン・マッチをそのまま船員慰労につなげて、秘蔵のビールまで出すという。そうなれば話は別だ。
官製の不味い酒と比べて、『天燕』のビールは地球直送である。一か月前の地球低軌道侵入後にも振る舞われたが涙が出るほど美味かった。
正直なところ、まだ二十歳になって一年経っておらず、あまり興味も強い方ではなかった。しかし命懸けの仕事のあとに一気飲みしたビールの味は、それまでに飲んだあらゆる飲み物を超越していた。シチュエーションが味を変えたのかもしれないが、ともかく、今のセレンにとってビールとは美味な飲み物である。
それを楽しみにここ数日の仕事に勤しんでいたのだが、急にギデオンに肩を叩かれて、先日同様に『フェニクス』のオペレーターをさせられることになってしまった。
「お前が出来る子だってことは前の仕事で良く分かった。今度もよろしく頼むぜ」
そう言われた時、能ある鷹が何故爪を隠すのか直感的に理解した。
「はぁ〜……」
顔いっぱいに気怠げな表情を浮かべつつセレンはコンソールを叩いた。もうすぐ模擬戦が始まる。オペレーションすべきパイロットはどうしているのかと、格納庫の方にカメラを切り替えてみた。
そして「おや?」と思った。
『分かってるなカラス! 絶対勝てよ!!』
『給料の半分お前の勝ちに賭けてるんだからな!』
コクピットに乗り込む直前のカラスを、主に甲板員の男たちが取り囲んで口々に「勝て」と言っている。少しボリュームを上げてみると、賭け事の算段をしていることが分かった。
「もぉー、男って目を離したらすぐにこれなんだから……」
もっと有意義な金の使い道は無いのかと言ってやりたい。
(大体給料の半分ってのがケチ臭いのよ。どうせやるなら全賭けしたら良いのに)
もし自分が参加するならどうするだろうと考えていると、ひとり明らかに捻くれた賭け方をしている者が現れた。
『負けて泣きベソかいて戻ってくるに100ドル』
船員たちの輪から少し離れたところで、イム・シウがにやにやと笑いながら言った。
『まぁた意地悪な……』
ルスランがやれやれと首を振ったが、カラスは別に表情を変えることは無かった。
代わりに少しだけ舌を「べっ」と出して『フェニクス』のコクピットに乗り込んだ。
(あんな顔する人だったんだ)
短いやりとりだったが、カラスが見せた反応は意外なものだった。
前の仕事の際は、無愛想という以上に無機質な印象の方が強かった。セレンにとって初めて会った強化人間であり、話に聞いていた通りの冷徹さがあった。
だが今の彼からは、それがずいぶん薄れたように思う。まだ『天燕』に乗り込んでほんの一月程度だが、かなり大きな影響があったのかもしれない。
『セレン・メルシエ、発進シークェンスに入る』
当の本人から呼ばれて、セレンは少し慌てた。
「りょ、了解しました! オペレーションを開始します!」
ホロディスプレイの向こうでカラスがこくりと頷いた。相変わらず機械仕掛けの人形のような動きだった。
だが、そんな彼が少しだけ申し訳なさげに目元を緩めた。
『急なミッションに付き合わせてすまない。よろしく頼む』
まさか「よろしく」などと言われるとは思ってもおらず、セレンは一層驚かされた。なまじ最初のミッションでのぶっきらぼうぶりを見ているだけに、そんな風にコミュニケーションをとれるのが意外だったのだ。
あるいは、さっきからのぞかせている常人らしい振る舞いこそ、強化される前の彼が元々持っていた気質なのかもしれない。
そう思うと、狭いはずのコクピットに収まっている彼の姿が、年相応の少年らしくどこか頼りなさげに見えた。
(うちの弟も、こんな感じだったかなぁ)
カラスほど鋭い眼差しをしていないが、一度「少年」というフィルターをかけて見ると、彼と自分の弟の間には何の違いも無いように思えた。
「……こちらこそ、よろしくお願いします。船長曰く必勝の作戦らしいですけど、戦いに絶対はありませんから。頑張ってサポートしますね」
『了解した』
「では……ハッチを開放します! 甲板員の皆さんは退避してください!」
画面の向こうで『天燕』の格納庫下部ハッチが開き、宇宙の暗黒が口を開けた。クレーンに牽引された『フェニクス』がゆっくりと開口部まで引き出されていく。本来ならば電磁カタパルト等で射出した方が推進剤を節約できるのだが、空母モジュールの無い『天燕』では無理な相談だ。
開口部の真上まで来た『フェニクス』が作業肢を展開した。
『BF-03V、フェニクス発進する』
「了解です。ご武運を」
そうして『フェニクス』は腕の力でゆっくりと船外に機体を押し出すと、即座にメインスラスターに点火、一筋の光となって戦場に向かい羽ばたいた。