A.D.2160 1/23 00:03
タルシスⅣ-Ⅱ
港湾労働者組合集合住宅
イム・シウは、いつの間にか自分が机に突っ伏して寝ていたことに気づき、起き抜けと同時に舌打ちした。最後に時計を見た時は23時だったが、今は0時を過ぎている。
(寝過ぎた……)
仕事が終わり帰宅してから諸々のルーティンをこなした上で、15分仮眠ののち机に向かった。最初は調子良く進んだが、どうやら思った以上に疲れが身体の奥深くまで染み込んでいたらしい。複雑な医学書を読んでいるうちに文字に意識が吸われてしまった。
イムの部屋も組合の寮のなかにある。従って、狭い部屋のなかは大量の本やノートで埋め尽くされていた。寝る場所以外はほとんど勉強のためのスペースと化している。
学びたい意欲自体は本物だが、一方でがむしゃらに頭に知識を詰め込むことで、時折フラッシュバックする戦争の記憶を薄めようとしていた。そういう心理が自分のなかにあることを、イムは正確に把握している。
そのうえでこんな無茶な生活をしていることに、思わず自嘲が浮かんだ。仮にも医師を目指すものとして精神的にも肉体的にも不健康極まりない。まだ免許を取得したわけではないが、まさしく医者の不養生というやつだ。
「いま、一時間は寝たからな」
そう自分に言い聞かせて席を立った。机の引き出しからスパイスヌードルの小袋とお椀を取り出し、部屋を出た。給湯器は部屋にもあるのだが、一度流れをリセットするためにも場所を変えたかった。単純に小腹も空いている。
共用厨房までの道中にはシャワールームがあり、ピーク時にはむさくるしい男たちでごった返しているのだが、さすがに夜遅くにもなると静まり帰っている。いつもはそうだった。
だが、脱衣所の扉に嵌められたガラスからはまだ光が漏れ出ている。人の気配もあった。珍しいなと思いつつ通り過ぎようとした時、顔見知りの少年が唐突にその扉から姿を現した。
カラスが、本物の鴉を思わせる黒い髪に水滴を張りつけたまま立っていた。
「うおぉっ?!」
イムはたじろいだ。時間が時間だけに幽霊と鉢合わせたように錯覚してしまった。医師を目指そうという人間がなんと非科学的な、と恥ずかしくなった。
しかし、彼が同じ寮に入れられていることは知っていたが、まさかこんな時間にこんな場所で顔を合わせるとは思わなかった。そのうえイム自身、強化人間に対して苦手意識がある。
(五体満足の有り難さを知らないで、兵器になった大馬鹿野郎だ)
医療を志す者として、何より戦場で実際に何人も手足を切ってきた身として、自ら身体を裂くことを選んだ強化人間が嫌いだった。生身の身体の値打ちは何をもってしても変えられない。再生医療というものも存在はしているが、復元できる部位は限定的だ。何よりコストは莫大なものとなるため一般人がおいそれと手を出せない。事実上、一度失った手足は二度と元には戻らない。
肉体の価値を理解するからこそ、彼らの価値観が理解できなかった。
だが、言葉だけが人間を知る手掛かりではない。
水滴を顔に貼りつけたまま出てきたカラスの目尻から、はっきりと涙が流れていた。
「お前……」
イムが呼びかけると、カラスが顔を向けた。そのままぐらりと上体が揺れ、頭をドア枠にぶつけた。
「っ、おい!」
カラスは何とか倒れずに踏み止まったが、咄嗟にイムが抱えなければそのまま頭から突っ伏していただろう。右腕で支えている少年の身体はぐったりとしている。力が抜けた上体は重たく、イムがもう少し踏ん張りをきかせていなければ、そのまま二人まとめて転倒していたかもしれない。
(副長のシゴキが活きたな)
学生時代の細腕ではまず支えきれなかっただろう。イムの頭のなかでペティ・バスケットがウィンクしながら親指を立てた。
「馬鹿が、酒でも飲んだのか?」
「……」
一瞬、本当にアルコール中毒を疑った。今の虚脱ぶりは確かにそれと似ている。何より戦場から帰った人間が酒に逃げるのはよくあることだ。タルシスで出回っている粗悪な酒は、飲み過ぎれば簡単に人間の臓器を壊す。
だが口元からアルコール臭はしなかった。ならば薬物のオーバードーズかと考えたが、そちらはこんな生優しいものではない。シャワールームどころか廊下まで血まみれになってもおかしくない。
第一、薬物中毒ともなれば顔を見ただけで分かる。ギデオンが病院に叩き込むだろう。強化人間なので過去には大量に精神系の薬剤も投与されているだろうが、少なくとも現時点で依存症は見られなかった。
つまりこの症状は突発的に現れたということだ。
(フラッシュバックか)
それもまた、戦争から帰ってきた者の典型的な症例である。
好意的とは到底言えない感情を抱いていたが、さすがにイムも複雑な心地になった。
強化人間の情緒は精神操作や投薬で鈍化しており、たとえ目の前で自分の手足が吹き飛んでも動揺しないと言われている。現に彼は、戦場でそういう典型的な強化人間を見てきた。自身の生死にさえ全く無頓着な彼らは不気味に見え、また哀れだった。そしてそれ以上に、彼らの鈍り切った顔を見るたびに言いようのない苛立ちを覚えた。
だがカラスには、そうした典型的な強化人間的症状が無かった。
正確には『天燕』に乗り込んだ当初こそ顕著だったのが、急速に回復しつつある。傍目に見ているイムでさえそう感じるほどだった。口数は少なく、表情は輪をかけて少ないが、ちゃんと会話が成り立つ。そもそも今日の昼間も、彼は自分に対して怒りを露わにしていた。
戦場で見た連中は、こんな風ではなかった。
より機械的で、無機質で、自他の傷についてまったく無頓着だった。一度、治療した強化人間が「持ち場に戻る」と言って、病院船の床に横たわった別の患者の腕を踏みつけていくのを見た。その患者の腕は骨が露出するほど傷ついており、踏まれた瞬間に割れるような悲鳴を上げたが、兵器と化した強化人間の耳には届かなかった。イムにとっては、それが強化人間のスタンダードだった。
だから、こんな風に人並みに苦しんでいるカラスの姿が信じられなかった。
「……おいっ、動けるか」
カラスはぐったりとしたまま、それでも僅かに頷いた。首を振るのと合わせて、水滴がぽたぽたと滴った。
だが、到底階段を上がれそうにない。結局イムは、元々の行き先であった厨房までカラスを引きずっていくことにした。
深夜の共用厨房は当然人気がなく、バイオプラスチック製の冷え冷えとした味気ない椅子が乱雑に並んでいた。そのうちのひとつにカラスを座らせ、自分も向かい側の椅子を引いた。
椅子に座るなり、カラスはテーブルに両腕を投げ出して、荒い息を吐いた。ゼヒ、ゼヒ、と呼吸器系の病を患っているような吐息だった。イムはそんな彼の様子を横目に見ながら、給湯器で湯を沸かせた。
「呼吸を整えろ」
ぐつぐつと音を立てるポットを見下ろしながらイムは言った。カラスの呼吸は依然荒いままだった。
湯気を立てる白湯をコップに入れ、カラスの目の前に置く。今度はイム自身も椅子を引いて彼の正面に座った。
「俺を見ろ。ゆっくりと呼吸しろ。落ち着いたら白湯を飲め」
それでもなお、カラスが安定するまでに時間を要した。その間もイムはじっと彼を見守っていた。
少し呼吸の間隔が空いた。イムは自分でも意識しないまま肩から力を抜いた。カラスが泡を吹いて倒れる可能性は十二分に高かったのだ。これ以上厄介ごとを引き受けてたまるか、と心のなかで毒づいた。
第一、こんなことはカウンセラーや精神科医の仕事だ。自分は心理学方面を専攻するつもりはないし、そもそも免許すら持っていない。半端な知識でこういうケースの人間に関わるのは危険だ。
そう思う割に、イムは席を離れようという気になれなかった。
カラスがまだ震える手で白湯の注がれたコップを手に取った。熱さに顔を顰めながら、それでもごくりと喉を鳴らして飲み込む。
「落ち着いたか」
「……ああ……」
まだ息は荒かったが、声で返事をするだけの余裕は生まれたようだった。
「何か思い出したのか」
「夢を」
「夢?」
「昔の……まだ、平和だったころのコロニーが……自分には、俺には妹がいて……」
「そうか」
「世界が壊れるのを見て、それで、俺たちの前に、星の顔をした男が……」
「……そうか」
イムには、せいぜい相槌を打つぐらいしかできなかった。
自分で自分の身体を裂いた人間は愚かだと思っていた。
だが、目の前で震える少年の傷は、より深いところで未だ治りきっていないのだ。そのことにようやく気付いた。
「ふう……」
イムは深く溜息をついた。それから自分も、持ってきたスパイスヌードルにお湯を注いで、ほどなく食べ始めた。
深夜の食堂に突き刺すような辛い香りと麺を啜る音が響き渡った。イムは時々カラスの口から洩れる言葉に適当に頷きながら食べ続け、スープまで全部飲み干した後も、やはりまだ座って適当に少年の相手をし続けた。
翌日の仕事には、二人揃って遅刻した。