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第12話:悪夢 下

 カラスはキッチンに立っていた。


 目の前には目玉焼きとソーセージが乗ったフライパンがあって、じゅうじゅうと油が爆ぜている。そこにフライ返しを突っ込んで、手慣れた動作で卵を浮かせると、そのまま隣の皿にするりと移し替えた。皿に朝日が差し込んでいた。


 部屋のなかはところどころ靄が張っていて見えない。見えないことを彼自信不思議に思わなかった。


 ただ、テーブルの上に塩や胡椒の小瓶を乱暴に突っ込んだ籠があったり、開封済みのコーンフレークやパンの袋がざっと固めて置いてあるのは分かった。片付けないと、と思いながらなかなかそこまで手が回らない。


 そして、テーブルの反対側に座った少女の顔も、削ぎ落とされたように空白になっていた。


「できたぞ」


 カラスが言うと少女が身体を揺らした。学生服の胸元についた小さなリボンが合わせて揺れる。何か声を発したことは分かるが、内容が分からない。だが、記憶のなかのカラスにはしっかりと届いていた。


(……そうか、夢か)


 ふと気づいた。


 気づいただけで、茫漠とした意識は何も干渉しようとしなかった。


 ただ、眠っている頭のどこかで、懐かしいと思う気持ちが湧き水のように滲み出るのを感じた。


 カラス自身もテーブルについてさっさと食事を進める。濃縮野菜のジュースはすっかり味に慣れてしまったが、それでも好きで毎朝飲んでいた。他のコロニーではこういう物さえ手に入りにくくなっている。


 少女は目玉焼きとソーセージに目いっぱいケチャップをかけて食べていた。そろそろハイスクールの受験が迫っているというのに落ち着きが無い。カラスはそれを穏やかな表情で見つめていた。記憶はそう告げている。


 ひとつ思い出した。毎朝こうして朝食を準備するのは自分の役目だったのだと。


 両親とも朝から家にいることは少なかったはずだ。どういう仕事をしていたかは覚えていないが、少なくともほったらかしにされていたわけではない。昼食は好きなように買って食べるよう言われていた。夕食は遅くなりがちで、カラスが作ることも多かったが、どこかで何とか出来合いのものを買って帰ってきてくれた。


 だが、顔だけは思い出せなかった。


「俺、今日も部活で遅くなるから、配給所でうちの分貰っといてくれ」


「またぁ? 機械いじりばっかり夜遅くまで……」


「半分は教練みたいなものだよ。好きでやってるわけじゃない」


「ウソ。本当は好きなくせに」


「ほっとけ」


 記憶のなかのカラスはぶっきらぼうにそう言った。いつも通りのことだったからだ。学校を出るのはいつも19時を過ぎるくらいで、それまでは部活に熱中していた。


 学校で何をやっていたのかは忘れていた。



「戦争、いつまで続くかな」



 少女が不意にそうたずねた。記憶のなかのカラスも、それを見ているカラスも、共に胸を突かれたような気がした。


(俺が聞きたいよ)


 今もその時も、思ったことは同じだった。


 だが、記憶のなかのカラスは無理に笑顔を作って見せた。我ながら偉いな、と思った。


「大丈夫だよ。2年前はヤバかったけど、今はだいぶ押し返してるだろ? それに、軍が最新兵器を開発中だってニュースでも言ってたじゃないか。そいつが完成したら地球軍なんてまとめて倒せるよ」


 少女に向かってそう言ったのは、内心では自分自身が安心したかったからだ。この時点ですら自分はそのことを自覚していた。だが、実際に言葉にしてしまえば、少しは気持ちが楽になるような気がしたのだ。最強の兵器が自分たちを守ってくれるのだという考えを強化したかった。


 最強かどうかは分からないが、確かにバレット・フライヤーは戦争の趨勢を決定的に変えた。


 しかしこの時の自分は、まさか自分がその最新兵器に乗ることになるとは思っていなかった。どんな兵器なのかも知らなかった。何を捨てなければならないのかも知らされていなかった。



 何より、最強の兵器が自分たちを守ってくれるその前に、戦争が自分たちの元へとやってきたのだ。



 警報と共に記憶が切り替わった。時計の針が進み、自分は少女と共に人混みのなかを走っていた。


 コロニーの夕暮れを、警告灯の赤い不気味な光が塗り潰した。海を見たことはないが、血潮が津波となって襲ってくる時はきっとこんな風に見えるに違いない。


 自分たちの生まれ育った筒状の世界が赤い光で満たされていた。真上に顔をあげると、反対側の地面にも無数の閃光が生まれていた。それが世界の果てまで続いている。


 地面と地面の狭間にある広大なガラス面の向こうで戦争の光が瞬いていた。コロニーを守る巨艦が沈められ、一際大きな花となって宇宙に飛び散った。その破片の一部が外壁を貫き、反対側の街まで隕石となって降り注ぐ。斜め上の大地が炸裂し、灰色の煙が濛々と立ち上った。大気濃度の急激な変化を受けて警報が一層強く鳴り響く。


 避難シェルターの近くまで来た時だった。不意に身体が軽くなった。気持ちの問題ではない、物理的に軽くなっている。周りを見渡すと、大の大人までもがトランポリンに乗ったような跳ね方をしていた。


 それが意味する危機を、カラスは直感的に感じ取った。


 コロニーの自転が狂いつつあるのだ。


 軽くなった世界は、しかし質量が消えるわけではない。地面を離れた車がビルの二階に飛び込み、何かのはずみで飛ばされた人は反対側の大地へと落ちていく。


 二人のすぐ近くで、電動バイクで逃げようとしていた人間が投げ出され、顔面から地面に叩きつけられた。嫌な水音と共に血液が飛び散り、それきり全く動かなくなった。


 カラスは咄嗟に少女の頭を抱き寄せ、その光景が見えないようにした。しかし自分たちがこうならないという保証はどこにも無い。


 幸い、彼の手元には非常用の吸着ガンがあった。万一の時に備えて、コロニーの各家には非常キットが配られている。しかしそれを上手く使える者ばかりではない。見当違いのところを狙ってしまい、慌てて巻き戻そうとしている間に別の避難者にぶつかって、まとめて地面から離れてしまう者が多かった。


一度地面から離れると、元居た場所に戻るのは難しい。反対側の地面に落下すれば、それまでの加速度のせいで自由落下同然のダメージが加わる。無事に反対側までたどり着けたとしても絶対に助からない。


身体を保持するものが何もないという状況は人間を脅えさせる。周囲の全ての人間がパニックになっていると、たとえ己に理性が残っていたとしても意味をなさなくなる。


 カラスは吸着ガンを巻いて自分と少女の身体をシェルターの壁に引き寄せた。その間、彼女は目を固く閉じてカラスにしがみついていた。どちらも正しい避難姿勢だ。無重力状態ではあらゆるものが飛び込んでくる可能性がある。最も小さいものは砂であり、それが目に入ると、一時を争う避難という状況下では命取りになりかねない。


 正しい逃げ方、生き延び方は、知ったうえで訓練しなければ絶対に身につかない。自分たちの両親はそれを仕込んでくれる人たちだった。



 その人たちが、崩れていく世界のどこかで圧し潰されているかもしれない。



 シェルターに入る直前、カラスはコロニーの背骨にあたるセントラルシリンダーが折れるのを目撃した。コロニー全体にかかった異常なトルクに構造が耐えきれなかったのだ。


雷に打たれた巨木のように、裂けた巨大な鋼鉄柱が反対側の大地を突き破った。大地にいくつもの地割れが走り、それまで人と人が行き交っていた地平が分断されていく。取り残された人間は暗黒の宇宙に吸い出され、破片に潰されたり、氷漬けになって死んでいった。


 聴覚を失いそうなほどに鳴り響く警報を貫いて、死んでいく人々の絶叫がカラスの鼓膜に焼きついた。それは生身の人間の悲鳴であると同時に、これまでこのコロニーで営まれてきた日常の断末魔でもあった。毎日乗っていたトラムが、通っていた学校が、歩き慣れた道が、音を立てて崩れていく。その一つ一つに、知っているかもしれない人々の血が塗りたくられていく。そして何一つ手元に残ることなく、反対側の大地に開いたブラックホールへと飲み込まれていく。人間は天国になど行けないと言うかのように。


 まだ少年の年ごろのカラスにとってそのひとつひとつがあまりに圧倒的で、精神の器すらも粉砕するほどの体験だった。宇宙の物理法則、戦争という出来事の無慈悲さ、人という生き物の脆弱さと命の軽さ。剝き出しになった現実が少年の未成熟の精神を震撼させた。


 世界が滅びる時の風は、カラスにまで容赦なく吹きつけ、吸い上げようとした。死にゆく人々の絶叫や意思が、少年をその列に加えようとしていた。カラスは魅入られたかのように広がりつつある破砕箇所を見上げていたが、背後から聞こえた声によって我に返った。



「兄さん、コロニーが!!」



 まだ、守るべきものが残っていることを思いだした。


 カラスは少女をシェルターに押しこみ、自分自身も入ってロックをかけた。そして、一瞬後には死ぬかもしれないと思っている人々に囲まれて、彼自らも死を覚悟しながら、少女を両手で抱きしめてその時を待った。




 そこでもう一度、場面が切り替わった。




 カラスと少女は、抱き合ったままどこか暗い場所にいた。不自然な場面だった。舞台袖の無い舞台に立たされ、自分たちの真上にだけスポットライトが配されている。円形の光のなかで恐怖と怒りに震えながら、しかしカラスはゆっくりと顔をあげた。誰かが近づいてくる気配を感じたからだ。



 暗闇のなかから、一人の男が姿を現した。



 男はタルシス宇宙軍の軍服を身に纏っていた。セレストブルーの優美な意匠の服は、新興の軍隊としてせめて軍服だけでも体裁を整えたいという政府の意向だと言われている。


 しかし、男にはそれを無理に着せられているような違和感が全くなかった。それどころかこの上なく調和しているようにさえ見えた。仰々しいと言われている金色の肩章でさえ見事なワンポイントとなっている。襟元には大佐の階級章が、その権威と能力を誇示するかのように仄暗く光っていた。


 背の高い男だった。痩身だが貧弱さは感じさせない。軍人として理想的な体型をしている。


 だが、顔が見えない。少しうつむいているせいか、軍帽の庇の下に目元が隠れている。わずかにのぞいている顎や鼻の形は女性的でさえあった。


 軍服の男は吊り上げていた口から、優しい声音で二人に呼びかけた。




「立派なお兄さんだね。私の友人が聞いたら、きっと羨ましく思うだろう」




 音楽的な声とはこういうのを指すのか、とカラスは思った。今でもその印象は変わらない。男の声には、聞く者を無条件で安心させる魔力のようなものが宿っていた。


 ましてや、世界が丸ごと崩れていく様を見せつけられ、呆然自失となっていたカラスたちにはより覿面てきめんに作用した。


 空っぽになっていた頭蓋のなかに、その声によってもう一度脳髄が組みなおされていくかのようだった。今でもカラスはその感覚を大袈裟だとは思わない。世界が滅びる時という、人間が目撃してはならないものを見た二人は、そのショックから逃れるために精神を閉ざしていた。二人の脳は、現実を受け入れるにはあまりに幼過ぎたのだ。



「聞いたよ、   君。シェルターに避難してからずっと妹さんを守っていたそうだね」



 カラスは何も答えられなかった。だが、妹を抱きしめていた腕からわずかに力が抜けた。自分が彼女を守っているという事実を誰かに認識してもらえたことが、厳戒態勢にあった少年の精神をわずかに解したのだ。



「タルシス宇宙軍は君たちの身柄を保証する。何も心配はいらないよ。


 私が、君たちの行き先を教えてあげよう」



 男が手を差し出した。


 腕のなかで妹が顔を上げた。カラスは隠すかのように彼女の頭を押して腕の下に潜り込ませたが、当の彼自身が男の差し出した手を凝視していた。


 男はそれ以上何も言わなかった。ただ黙って手を伸ばしているだけだ。


 だが同時に、手を取らないという選択肢を許さないかのような強制力も感じた。


 そして現実として、二人を受け入れてくれる行き先もどこにも無かった。


 カラスは手を伸ばした。手首に男の指が巻きつく。咄嗟に顔を上げると、軍帽の下が見えた。



(ああ、これは悪夢だ)



 カラスはそう思った。


 その時見た男の顔は、普通の人間のものだったはずだ。


 だが、夢のなかの軍服の男は、人間の顔をしていなかった。


 頬から上は全て宇宙のような暗闇だった。目が無い。代わりに、光る恒星のようなものが無数に浮かんでいて、三体運動のように自在に蠢いている。


 顔のなかの星空に吸い込まれるように、カラスは視線を外せなくなった。妹も同じだった。


 魅入られたように固まる二人に、星空の顔を持つ怪物は微笑を浮かべて言った。




「私の名前はマリア・アステリア。君たちの行き先を示す者だ」




 そして、カラスは毛布を跳ね飛ばして起き上がった。


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