目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

第12話:悪夢 上

A.D.2160 1/22 22:59

タルシスⅣ-Ⅱ

港湾労働者組合集合住宅



 ギデオンの助言を受けて作った「こねないハンバーグ」のロコモコは美味かった。


「本物のミンチが手に入れば一番なんだがな」


 合挽ミンチの代わりに潰したランチョンミートを玉ねぎと混ぜて炒め、ソースやケチャップで味付けしたものをライスに乗せる。フライパンが空いたらすぐに目玉焼きを作り、片手間に市販のビーンズソテーを温めて添える。最後に焼きあがった卵を乗せれば完成だ。


 いつものギデオンの料理と同じように、簡単でチープな味付けながらしっかり腹が膨れた。彼の言う通り、本物のミンチ肉ならばもっと美味しいものができるのだろうが、カラスにはこれで十分だった。


 先ほど食料品店で買っていたルートビアの缶を隣に置いて、男二人で夕食を摂った。決して広くない食堂に食器の音を響かせながら、カラスはギデオンからヴァジュラヤクシャの倒し方についてのレクチャーを受けた。


「本番は一週間後だ。それまでにシミュレーションしておけば、お前なら何とかなるだろう。俺の方でも仕込みを進めておくよ」


 帰り際にそう言い残して、ギデオンは食堂を出ていった。


 残されたカラスは二人分の食器と調理器具を洗うと、一度自室に戻って着替えやタオルを回収し、シャワールームに向かった。ちょうど混雑する時間に差し掛かっていたためゆっくりはできなかった。芋洗いよろしく大ざっぱに髪と身体を洗い、次の入居者にせっつかれて場所を明け渡す。確かにギデオンの言う通り、風呂ぐらいゆっくり入れる部屋を借りるべきかもしれないと思った。


 入浴が済むと、あとはやることは何もない。


 歯ブラシを咥えながら部屋に戻り、ラジオをつける。もっと刺激的なメディアはいくらでもあるが、カラスはラジオが好きだった。特に夜に流れてくるチルサウンドの番組が気に入っていて、それを低めの音量で流しながら部屋を片付けるのが日課となっていた。


 もっとも、気合いを入れて片付けるほど、彼の部屋は散らかっていない。そもそも物が少なかった。横に2メートル、縦に5メートル程度の文字通り巣穴のように細長い部屋で、そんな空間に置けるものなどたかがしれている。


 それでもなぜかルスランなどは部屋を散らかすらしい。一度入ったことがあるが、食料品の備品が山のように積まれていて、一瞬倉庫かと思ったほどだった。


 今のカラスの部屋にあるものといえば、ベッドが一台、学生が使うような狭い机と椅子がワンセット、そしてマヌエラからもらった衣類を詰めたボックスに簡単な掃除用具。


 枕元には、先日ギデオンから渡されたメルヴィルの『白鯨』が置かれている。大気圏脱出時にペティから「イシュメール」と呼ばれて、その由来が何なのか気になり訊ねたところ、もっと教養をつけろと言われて押しつけられた。


 睡魔と戦いながらなんとか半分は読み進めたが「偉いな、じゃあ今度下巻も貸してやるよ」と全く悪気無く言われて軽く絶望した。それでも他に自主的に読みたいような本も無いので、睡眠導入剤代わりにぺらぺらとめくっている。


 歯を磨きながら、少しだけ窓を開けた。特別部屋が埃っぽいわけではないが、定期的に空気を入れ替えるのは宇宙で生きる人間にとって癖のようなものだ。工業区画のなかにある建物なのであまり良い風は吹かないのだが、昼間よりは喧騒が減っていくらか爽やかだった。


 ベッドを整え、溜まったゴミを捨てに行ったり服を畳んでいる間に少しずつ身体が寝る準備を整えていった。ゆったりと流れるサウンドが心地良い。ただ、こういう種類の音楽が気に入りだしたのは最近のことで、もともとは違うジャンルの曲が好きだったのではないかと漠然と考えている。チルサウンドはBGMには向いているが、自分の感覚にぴたりと嵌っているわけではない。


 色々やることを済ませて、最後に窓を閉めた。一瞬吹き込んできた風が前髪を揺らした。


 枕元にセクレタリー・バンドを置いて充電してから、しばらくギデオンの本をぺらぺらとめくった。4ページほど読み進めてから義眼を取り出し、バンドの充電器の隣に置いた専用の充電器兼簡易メンテナンス容器に入れた。そしてさらにその隣の定位置にあるリモコンを操作して、部屋の照明を落とした。目を外したら暗闇一色なのだが、身体に染みついた習性はなかなか抜けない。


 カラスにとって良い夜だった。色々なことがあったが、一日を通して何か有意義だったような気がする。布団を身体の上まで引っ張り上げた時はそう思っていた。眠気が身体のあちこちからじわりと湧いてきて、ほどなくカラスは眠りに落ちた。


 そんな穏やかな夜にこそ、悪い夢は浮かんでくる。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?