「昔、兄貴と一緒に通ってた児童センターに耳の聞こえないおばちゃんがいてな。その人に教えてもらったんだよ。何とか喋れるってぐらいで、通訳なんてできないけどな」
帰りの車内で、カラスは気になっていたことを素直にぶつけてみた。それに対してギデオンは、ハンドルを握りながらどこかしんみりとした口調でそう言った。
タルシスⅣ-Ⅱはもうすぐ夕方を迎えようとしていた。行きに使った道路を照らす光が赤く変わりつつある。それに合わせるように、車内にも穏やかなカントリーが流れていた。対向車線を車が通り過ぎていくたびに、カメラのシャッターが切られるように二人の顔を影が覆った。
あの後、ギデオンが彼女に向かって言ったのはごく簡単なことだけだった。新型機の開発は良いが、運用にはしっかりと気を遣えという正論である。キョウからは何の反論も出なかった。
カラスとしてはいきなり金色の巨人機に追いかけられ、その開発者に突撃された挙句、船長が見知らぬ言語を操る場面に遭遇させられた、まさに「唐突」の二文字で表現されるような一日だった。
「兄弟がいたのか」
それもまた、意外な新事実だった。
「もう死んじまったけどな。生まれつき身体が弱かった……その児童センターにも付き添いで行ってたようなものさ。よくある話だよ」
それより、とギデオンは話題を切り替えようとした。口調も表情も柔らかいが、もうこの話をする気はないという拒絶感のようなものも同時に感じた。
だが、カラスはもう少し聞いてみたいと思っていた。
「どんな人だった?」
「嫌な兄貴だったよ」
「嫌って、どんな」
「やけに知りたがるじゃないか。あまり思い出したくないんだがな」
「すまない……」
少ししおらしくなったカラスを横目に見て、ギデオンは曲のボリュームを下げた。左手を口元に当てて息を吐いた。
思い出すほどに苦い記憶が蘇ってくる。兄からは好かれていなかった。彼も兄のことが嫌いだった。物心つくまでは険悪というほどではなかったが、それでも壁のようなものは毎日感じていたし、思春期手前の頃にはほとんど嫌悪感に近い感情すら抱いていた。
兄について話すことは、自分の暗部について話すのと同じだ。
「……俺の兄貴はな」
それでも、ギデオンは話してやろうと思った。
何か確証があったわけではない。しかし今の短いやり取りのなかで、これがカラスにとって必要なものだと直感したからだ。
自分には、彼を人に戻す責務がある。
そしてカラスもまた、手探りで人に戻る手段を探そうとしている。その意思に応えてやりたかった。
小さく絞ったカントリーが、別の曲に切り替わった。『カントリー・ロード』。出来過ぎていて、思わず口のなかで「マジかよ」と呟いた。
Almost heaven……という歌いだしを聞きながら、ギデオンは話し始めた。
「一言で言えば、身の丈に合わない自意識にずっと振り回されてる人だった」
カラスがこちらを向いた。気づかないふりをしながら、しかし少しだけ苦笑を浮かべてギデオンは続けた。
「やりたいことや、なりたい自分ってのが数えきれないほどたくさんあった。だが、そのどれひとつとして実現できなかった。意思や能力や適正の問題もあるが、それ以前にまあ、身体が足を引っ張ってな。走り出そうとしたらいつも石に躓いて転ぶような……そんな人生だったと思う。17歳ぐらいまでは、それでもあの人なりに前向きにやろうとしていたよ。ただ……」
思い出すと今でも、腹の底に埋めたはずの石炭が熱を帯びる。
(それまでだって俺は、石を呑み続けていたようなものか)
カラスに言わなくても良いことがいくつもある。
宇宙船の技師だった父親は事故で早くに亡くなった。遺族年金だけでは持病だらけの兄を支えていけないので母は仕事漬けだった。戦争前夜のタルシスという社会に余裕などあるはずもなく、公的な補助は雀の涙だったらしい。
小さい頃は母親に振り向いてもらえないことに寂しさを覚えた。何とかして視線を向けようと、勉強も運動も人並み以上に頑張った。
だがギデオンの育った家庭において、人並み以上に優れた資質を示すことは何の意味も持たなかった。
「どうしてギドだけ、何でもできるようになったんだろうねぇ」
確か10歳ぐらいだっただろうか。母からそう言われた時のショックは大きかった。子供心に、何か言ってはいけないことを母が言ったのだと気付いた。
最悪なのは、兄も同じ場所でそれを聞いていたこと。
母親は決して悪意を込めて言ったわけではなかった。仕事で疲れて帰ってきてから、子供相手にからかい半分に出てしまった言葉だったのかもしれない。
だが、兄にとっては「お前は何もできない」と言われたのと同じだっただろう。
そして自分にとっても「お前だけが運を独り占めにしている」と言われたようなものだった。
その後ろめたさを消すため、何より母から求められて、ギデオンは「兄の兄」としての役割を背負って大きくなった。「兄の兄」である以上、弟でいることも子供でいることもできなかった。
だが、背中に兄を乗せたままでも飛べるほどに、ギデオンの翼は強かった。
「……自分で言うのもなんだが、俺は結構出来が良くてな。兄貴がハイスクールに通ったり休んだりしている間に、いろんなことがとんとん拍子に進んじまった。ガールフレンドができたり、大学の推薦をもらったり、スペースボートのレースで優勝したり……」
「すごいな」
「だろ?」
だろ、と言ってからギデオンは声を出して笑った。カラスがぎょっとしたようにシートの上で身体をのけぞらせた。
「何だ。急に笑い出して」
「いや……はは、なんだかな……!」
口を閉じようとしても、くくくっ、と音が喉の奥から溢れてしまった。笑いすぎてハンドルを切ってしまい、反対車線に飛び出しかけた。車のオートドライブ機能が働いてコースを修正し、何をやっているんだ馬鹿と言わんばかりにブザーを鳴らした。
怖っ、と言いたげなカラスの顔を見ながら、ギデオンは何とか笑いをこらえようとしていた。
カラスの「すごいな」という一言は、本当に何も考えずに言ったのだろう。
だが、あの頃の自分が一番欲していたのは、そんな何も考えていない「すごいな」だったのだと今なら分かる。
まさか20年も経ってから自分の半分の年齢の、しかも強化人間の少年にそれを言われた。奇妙な運命の巡り合わせだった。
「まあ兄貴もお袋もお前ほど素直に褒めちゃくれなかったよ。特に兄貴は、それからどんどん歪んでしまった。本だけは山ほど読んでたから物を書くのは得意になったが、知識はあっても知性が無かった。はっきり言ってな」
話すごとにギデオンの笑いも静まっていった。オートドライブが解除されたが、車は真っ直ぐに走っている。
「俺がハイスクールを出る直前には、兄貴は自称ライターとやらになっていた。二束三文の駄文を書き散らすだけなら良かったんだが……その中身ってのが、地球との戦争を煽ったりタルシスの軍事力を過大評価するような似非ミリタリーレポートばかりでな。匍匐前進で5メートルも進めない男が、上っ面だけはマッチョな文章を書き散らして、それで原稿料やコメントがあるとデカい面をして……心底恥ずかしかった」
そう感じたのが、今のカラスと同い年ぐらいの頃だった。当時の彼には兄の高揚の裏にある焦燥を慮る余裕など無かった。
話のなかではあえて出さなかったが、兄とは連日殺し合い寸前の喧嘩ばかりしていた。殺し合うなどとは到底言えない。実際に殴り合ったら、兄は万に一つも自分に勝てなかっただろう。
だが、なまじ物を書いているだけあって、人を傷つける言葉選びについては抜群に上手かった。
「分かってるな、ギド。お前がそうして青春を楽しんでいられるのは全部、俺がお袋の身体から宇宙の毒を引き受けて生まれてやったからだ。お前だけ毒無しなんだよ、ギド!!」
戯言もいいところだ、と言い切ってしまえればどれほど楽になれただろう。
「家にいるのが嫌になって、俺はタルシスⅠ-Ⅲの士官学校に進むことにした。その頃はまだ保安学校って名前だったけどな」
「家を出るだけなら、別の学校でも良かったんじゃないのか?」
「保安学校は入学と同時に公務員扱いで給料が出た。少しでもお袋に楽をさせたくてな。欲しいものなんて何も無かったから、給料の半分以上は家に送ってたよ。でも……正直なところ兄貴への嫌がらせでもあったんだ。そしてたぶん、これで本当に縁が切れちまった」
「……」
「家から離れて、初めて自由になれた気がした。保安学校の規則だらけの生活なんざ大したことは無い。決められたルーティンは身体が勝手に慣れてくれる」
そう言いながらもギデオンは、そんな風に感じられる自分がやはり特別だったのだろうと理解していた。実際の学校生活は、将来士官として求められる責務に耐えうるよう十分以上に厳しいものだった。
だが他人の服薬時間を気にしたり、頻繁に起きる嘔吐や発作や失禁に割いていた注意を全て自分の勉学のために振り分けられたのは、楽としか言いようがなかった。シーツの交換も服のアイロンがけも自分ひとり分だけやっていれば良かった。なぜ他の連中はできないのだろうと不思議に思ったほどだ。
宇宙機の操縦も整備も、小さい頃から興味があった。いざ実際に触って見たら想像以上にしっくり来た。初めて乗った軍用クルーザーの性能は驚くほど凄まじく、笑いながら小便を漏らしそうになった。
ペティやマヌエラと知り合ったのもその頃だ。ペティは当時からすでにタルシスⅠ-Ⅲの宇宙港で働いており、演習中の事故の際、炎上した訓練艇の消化作業を一緒にやった縁で仲良くなった。
マヌエラも同じくタルシスⅠ-Ⅲの学校に通っていたが、もっぱらバスケットコートで走り回っている姿の方が有名だった。当時から美人で通っており、最初にペティと一緒にナンパをかけたのが知り合うきっかけになった。
なおすでに婚約指輪を嵌めており、しかもその相手はギデオンの二つ上の先輩だった。彼女自身はナンパに応じることもなく、またその事実も隠してくれていたが、どこで漏れたのか先輩からはきっちり一発殴られたうえで知己を得た。
そんな出来事の数々をカラスに語りつつ、自分にとってつくづく良い時期だったとギデオンは思った。良い思い出を話すのは楽しかった。生まれてから今に至るまで、自分の人生には暗く憂鬱な出来事が無数に影を落としている。それでもあのタルシスⅠ-Ⅲでの日々だけは、星空を横切る彗星のように眩い。
だが時代は常に移り変わる。そのなかで社会と人はともに揺さぶられる運命にある。
タルシスは地球からの脱却に向け動き始めていた。ギデオンたちの属している学校も、依然名前は保安学校のままだったが、その内実が士官学校のそれと変わらないことは明白だった。若い世代に向けても、士官候補生を育てるという目的を隠さないようになっていた。
社会が徐々に緊張し、人々が強張り始めるのを感じながら、ギデオンは成人した。
そしてその年、二つ下の学年にマリア・アステリアという名前の少年が入学してきた。
(……もう、いいか)
ちょうど公営食料品店の看板が見えたので、ギデオンはその駐車場に車を寄せた。
「ちょっと買い物していくぞ」
「分かった」
シートベルトを外してドアを開けようとした時、ふとギデオンは思った。
「なあ、カラス。どうして他人の過去が気になったんだ?」
同じくドアに手を掛けていたカラスが顔を上げた。少し戸惑ったように眉根を寄せている。言いたくないというより、どう言葉にして良いのか分からないようだった。
「あのキョウって技師に何か言われたのか」
「……あの人、自分には戦う理由がある。だから負けない。そう言っていた」
「誰だってそうさ」
「自分はもう憶えてない」
「なるほどな。それで他人の過去が気になったわけか。だが俺の過去は俺だけのもので、お前には何の関係も無いんだぞ?」
「分かっている……」
カラスは嘘をつかない。強化されたからか、あるいは元から生真面目なのか、自分のことを誤魔化す姿を見せたことがない。
他人の過去を聞いたところで、自分の内面が埋められるわけではない。そんなことは彼自身が一番良く理解しているだろう。
だが、何もかも投げ捨てて戦うことを選んだのは自分自身だ。
「戦時中、自分は確かに怒っていた。それだけは憶えている。バレット・フライヤーに乗ることを選んだのは自分の意思だ。その選択も間違いではなかったと……思う。ただ」
ギデオンは促しもせず、言葉を借すこともしなかった。
一度言葉を区切ってから、再び話し出すまでにやや時間を要した。それでもカラスは、口調に僅かに後悔を滲ませながら言った。
「自分が捨てたのは……俺の過去は、すごく大事なものだったってことを、少しだけ認識させられた」
「それは今からだって積んでいけるさ。ともかく、まずは飯だ。腹が減った」