ドクターコートの女は、自らの名前をキョウ・アサクラと表した。
両手の人差し指と親指を伸ばし、その両人差し指を地面の方に向ける。
右拳を右側頭に当てて下に引く仕草。
両手の甲を向けて、伸ばした五指を交差させ、同時に斜め下に引く仕草。
やはり動きは速いのだが、義眼の方は慣れ始めているようで「キョウ・アサクラ」と発声された部分に対応していることは分かった。
『いやぁ、ごめんねー。あの子が早合点したせいでびっくりさせちゃったよね。本当は普通に挨拶がしたかったんだ』
「挨拶?」
カラスが聞き返すと、キョウはちらりとドローンの方を見た。空中にホロディスプレイが現れて、画面内に映し出されたアバターが手話を振った。
『今度の模擬戦の対戦相手って君でしょ? 名前はなんて言うの?』
「カラスだ」
『ふーん、カラス。変わった名前だねえ』
キョウは右手を真っ直ぐに伸ばして髪の毛を撫で、それから両手でパタパタと小さく羽ばたくような手話を振った。どうやらそれが「カラス」らしい。パタパタの部分が鳥を意味していることは何となく分かった。
自分の名前を手話に変換するとこんなに間の抜けた感じになるのかと、少しショックだった。
「挨拶とはどういうことだ。砲口を向けてロックする行為は敵対行動にあたる。こちらに武装があれば相応の対処をしていた」
カラスはやや表情を険しくしながら言った。機体性能差はあるにしても、そう易々とやられるつもりはない。これぐらいは言ってやらないと気が済まなかった。
もし脅かす目的であんなことをした挙句、慌てふためいたこちらの姿を嘲笑いに来たのなら、こんなに腹立たしいことはない。
だが、キョウからはそういった邪気
『違う違う! 本当にわざとじゃなかったんだってば! ヴァジュラヤクシャの対人コミュニケーション機能は不十分なんだよ!』
「ならそんな機体を持ち出すな。危ない」
『そうもいかないんだよ。実際に動かして体験を積ませてあげないと、AIの能力はどんどん下がっちゃうもの』
キョウはワイヤーガンを打って『フェニクス』のハッチ付近に取りついた。通訳ドローンが彼女の動きを追ってカラスの顔の近くを飛び回った。
『DED境界って聞いたことない? AIの自立思考能力の限界点。閉じられたネットワーク内では、AIの学習能力はその広さに応じた力しか発揮できない』
カラスは首を横に振った。
『じゃあカルナバル・イヴのことは? 歴史の授業で習ったでしょ?』
「それならある」
学校の記憶など消え失せているが、不思議と知識だけは消去されずに残っていた。兵器として扱うには、最低限のことは知っておいた方が役立つからだろう、とカラスは思った。
その残された知識のなかに、カルナバル・イヴという単語が残っていた。
今から遡ること115年の、西暦2045年に起こった事件。第三次産業革命から止まることなく続いていた人工知能の開発は、ついに予言されたシンギュラリティの年を迎えた。
それまでの地球社会は、様々な問題を内包しつつも概ね高度情報化社会としての基盤を固めていた。シンギュラリティ到達による超越知性の誕生はその金字塔であり、近代以降の人類が過剰なほどに期待してきた現象でもあった。
事実、2000年以降の人類はAIへの依存と信頼を過剰なほどに積み重ねており、その結果として自分たち以上の素晴らしい知性が生まれることを信じて疑わなかった。
『じゃあ分かるよね。閉じられたネットワーク内で進化し続けたAIが、最後にどうなるか』
カラスは頷いた。そこから先は有名な話だ。
結論から言うと、確かに人類の技術は人を超越する一歩手前まで迫っていた。量子コンピュータの実用化や普及によっていくつものブレイクスルーが発生した。この時期の技術的蓄積が無ければ、コロニーの建造など不可能だっただろう。
だが、軌道エレベーターというバベルの塔の建造には成功しても、アダムの創造にはついに至らなかった。
『人間だってそうだけど、外からの刺激が無いと成長できないし、身体は自分の食べたものでしか作れない。AIにもそれと同じことが起こった。
どれだけ人間にとってネットワークが広大に感じられたとしても、進化したAIたちにとって箱庭でしかない。結論、AIを超越知性たらしめる学習ソースはどこにもなく、いつまで経ってもシンギュラリティは訪れなかった』
「……歴史のことについて興味は無い。それとあの機体と、何の関係がある?」
『せっかちだなあ。まあ要するに、私のヴァジュラヤクシャは今までのDFとは全くの別物だってこと。バイキャメラル・システムが想定通りに動いたら、あの子は人間とAIを揃って超えることになる。
悪いけど……絶対に勝たせてもらうよ』
謝罪に来たと言いつつ、キョウの
(よくもぬけぬけと)
怒りよりも呆れ、さらにはそれらを通り越して面白いとさえ思ってしまった。
「なぜそこまで勝利にこだわる」
『なぜ?』
キョウが首を傾げた。
「これは模擬戦だ。生死が懸かった戦いではない。ましてや、貴女が直接機体に乗って戦うわけでもない」
『……遊びで戦うつもりは無いよ』
翻訳機のトーンは変わらなかった。
だが、実際に彼女が振った手話にはより強い語気が表れているように見えた。何より表情からはそれめでの気やすさが消えていた。
(この目……)
彼女の表情はカラスの記憶を刺激した。つい先ほどもこんな目で見られたばかりだ。『天燕』の食堂でイム・シウが自分に向けてきたのと、今しがたキョウ・アサクラに向けられている目線は全く同質のものだ。
『パイロットの君には分からないかもしれないけど、技術者の戦いにだって生死が懸かってる。私たち技術者が戦場に出ないとしても、私たちの戦いの結果で運命が左右される人たちがいる』
「兵士のことを言っているのか?」
『もちろん。でも、それだけじゃないよ』
唐突にキョウは通訳ドローンのスイッチを切った。
宙に浮かんでいたホロディスプレイが消える。意図がつかめず困惑するカラスに向けて、キョウはいくつもの手話の単語を投げかけた。そのどれひとつとしてカラスには分からなかった。
キョウは、もう一度ドローンを起動させた。
『分からなかったでしょ?』
「……ああ」
『この子はね、私が自分で作った試作機なんだ。無重力空間だとこうやってジャイロで姿勢を維持するだけでいいけど、有重力区画だと浮かせ続けるのに電気を使いすぎちゃって、通訳できる時間はほんの少しの間だけなの。でも、この子が無いと、君と私は満足に話もできない。
そしてコロニーには、私と同じように耳が聞こえない人間だって大勢いる。
そういう人たちが戦争の間、どういう扱いを受けたか分かる?』
強化処置を受けて以来、カラスのイマジネーション能力は大幅に落ちていた。他人の痛みに共感する機能など兵士には必要無いからだ。だが、『天燕』の感情過多な乗組員たちと接するうちに、彼の情緒は急速な勢いで回復しつつあった。
だからキョウが何を言わんとしているのか想像できたし、どのように返答すれば良いか分からなかった。自分の中途半端な理解が追いつかないほど厳しい何かが、
沈黙することが必ずしも不誠実になるわけではない。何も答えられないカラスに対して、キョウは言葉を振り過ぎたと少し気まずい心地になったようだった。
『……ごめんね。こういう言い方、良くなかったな。
でも覚えておいてね。私たちの戦争はまだ終わってない。どんな障碍を持っているとしても、戦争している国のなかに住んでいる以上、無関係ではいられない。どんな形であれ私たちは戦争に関わって生きている。
そして戦いに貢献できなかったら、社会から相応の配慮を受け取ることもできない。
だから、私とヴァジュラヤクシャは負けないよ』
カラスにもプライドがある。バレット・フライヤーに関することについて、そう簡単に勝ちを譲る気にはなれない。
だが彼女の話を聞いた後では、すぐに「絶対に勝つ」とは言えなくなってしまった。
「カラス、何をしている」
ハッチの下からギデオンの声が聞こえた。カラスは我に返った。
一方ギデオンも、『フェニクス』の前に浮かぶドクターコート姿の女を認めていた。
「その人は?」
「キョウ・アサクラ。あの金色の機体のオペレーターだ」
「あんたがそうか。さっき上司が謝りに来たぞ」
ドローンがギデオンの姿を認識するまでに一拍の間があった。それはそのままコミュニケーションのずれや違和感として現れた。ああ、とギデオンは軽く頷いて両手を胸の前に出した。
『俺 こいつ 船長 ギデオン』
いきなりギデオンが手話を使い出したのでカラスは面食らった。キョウも同じだったようで、唐突に現れた強面の大男が自分たちと同じ言葉を使ったことに、あるいはカラス以上に驚いていたかもしれない。通訳機はカラスの方に向けたまま自分の名前を名乗る。
『古い 手話 俺 使えない』
キョウがぽんと手を打った。
いよいよもってカラスには訳が分からない。
「このお嬢さん、古い手話を使ってるんだよ。タルシスの公用手話じゃないんだ」
「というか船長、手話が使えたのか」
「昔ちょっと縁があってな」
手話というものの存在を考えたこともなければ、そのなかでさらに種類が分かれていることも知らなかった。カラスは両者の間で高速で交わされる言葉のやりとりを見ていることしかできなかった。