A.D.2160 1/22 12:01
タルシスⅣ-Ⅱ 宇宙港
「メシの時間だァァァァァァ!!!!」
10隻以上の船が停泊しているタルシスⅣ-Ⅱ宇宙港Dブロックに、『天燕』副長兼甲板長ペティ・バスケットの咆哮が轟いた。
姿勢制御スラスターの掃除をしていたカラスはノズルからひょいと頭を出した。セクレタリー・バンドを見ると、いつの間にか昼を過ぎていた。カラスは額に浮いた汗を作業服のごわごわとしたグローブで拭った。
前回の仕事を終えてから、カラスは『天燕』専属のバウンサーとしてBF-03Vもとい『フェニクス』を駆って戦うことになった。
とはいえ、バレット・フライヤーを持ち出すほどの争いなど頻繁に起きたりはしない。そもそもこの一月の間、『天燕』は地球低軌道侵入で受けたダメージを癒すためドック入りとなっている。
つまりバウンサーとしての仕事などあるはずがないので、ペティ・バスケットの下で甲板員見習いとして働くことになったのだ。
甲板員の仕事は忙しかった。専門的な修理作業はギデオン贔屓の業者に任せてあるが、船そのものの維持管理は甲板部の職域である。全長200メートルの船となると、いくら機械化されているとはいえ掃除や各種メンテナンスは大変だった。
「やあ、もうそんな時間かぁ」
隣のノズルから、茶色い癖っ毛の青年がのっそりと這い出した。
「お腹減ったねえ」
樽のように膨らんだ腹を叩いて青年は言う。カラスはすこし呆れた。
「ルスラン、先ほどマーマイトバーを食べていただろう。見ていたぞ」
「あれは午前のおやつだよお」
「不合理的だ。300キロカロリーも補充したから、これ以上の喫食は肥満に繋がる」
「こんな時代だもん。食べれる時に食べておかないと」
「分からん……」
喋り方ものんびりしているかと思えば、考え方は輪をかけておっとりしている青年である。しかしいざ作業を始めると、いつの間にか全て片付けてしまう妙な身のこなしの良さがあった。
実際、カラスのノズル清掃は午前いっぱい使って5基だが、ルスランはその倍を片付けていた。しかも丁寧さの面でもカラスの上を行っている。
なんだか釈然としない気もするが、ギデオンの言う通り『天燕』に無能は乗っていないということなのだろうと思う。
本格的な仕事をしたのは一ヵ月前の一度だけだが、日ごろの作業や訓練を見ていても彼らが非常に練度の高い乗組員であることが分かった。今は左右に他の船が停泊しているのでなおさら比較しやすくなっている。一人ひとりの動きに張りがあり、コミュニケーションも活発だった。
物資の搬入ひとつとっても、事前に担当者をしっかりと割り振ったうえで情報共有しているので業者との間でごたついたことが無い。他の船が搬入ハッチ付近でもたついている場面を何度か目撃したが、およそ『天燕』クルーの間では起きなさそうな出来事だった。
そんな人間たちの間で一体自分は何ができるのだろう、とカラスは少し心配になった。
もちろん『フェニクス』で戦うのは大事な役目だ。しかしいくら宇宙が物騒とはいえ、戦闘は非日常の出来事である。そう何度も出番があるわけではない。
加えて、当の『フェニクス』が修理のため手元を離れている。
元々は宇宙軍の切り札であり、一応は民間船である『天燕』が所有しているのは本来許されない。しかしカラスも『フェニクス』もすでに
無論、言い訳としては厳しいが、そこはクェーカーが手を回したのだろう。宇宙軍から追及されることはなかった。
しかし大っぴらに持っていることを誇示するわけにもいかないので、こちらもギデオン贔屓の
カラス自身あとになってから聞いた話だが、宇宙軍はバレット・フライヤーを撤廃したと主張しているという。無人機であるDFシリーズの配備が進んでいることもあるが、それ以上にパイロットの人権を無視している点が問題視されたらしい。
彼にとっては、今更どうでも良いことだった。だが権利云々を語れるようになったということは、社会自体が少しずつまともな方に向かった証拠だと思う。
それにしても、すぐそばに『フェニクス』がいないのは、やはりどこか落ち着かない感じがした。
「早く帰ってこないかな……」
溜息とともにカラスは呟き、「ごっはん、ごっはん」と小躍りしているルスランの後を追った。
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二人が船内の食堂に向かうと、すでに他の部署のクルーたちも集まってきていた。マヌエラ指揮下の機関部員たちは顔やつなぎ服に油を張りつけており、汚れ具合ならば甲板員たちに負けていない。その全員が空腹で目をぎらつかせていた。
人材難の昨今、クルーの性別など選んでいられないとはいえ、やはり『天燕』も男所帯だった。マヌエラやセレンの他にも数名女性が乗りこんでいるが、ほとんどは働き盛りの男たちである。
必然的に、食堂は戦場と化した。
決して良い食材を使っているわけではないが、それでも『天燕』の食事は美味い。これだけを目当てに日ごろの厳しい仕事や訓練を乗りこえていると豪語する者もいるほどだ。
そのたびに、厨房担当のギデオンは苦笑するのだった。
ギデオンは微妙な材料でそこそこ美味い料理を作ることに関しては、操船技術と同程度に熟達している。
今日もまた、使い古した紺色のエプロンをつけてカウンターの前に構えていた。
昼食のメニューはランチョンミートと酢漬けキャベツのホットサンド。味付けにトマトケチャップを使っているのはギデオンのこだわりである。これさえ入れればたいていのものは食えるようになると信じていた。
メインの具であるランチョンミートは、宇宙船専用のグリルでしっかりと焼き目がつけられている。入口以外が完全に密閉された筒のなかに金属製の金網ごと投入して、全方位から火で炙るのだ。
「肉はしっかり焼いたヤツが良い!」
と言ってきかなかったペティのために、福利厚生の名目でギデオンが特注した調理器だった。こうでもしなければ、宇宙空間では油が飛び散ってしまうため焼肉など作れないのである。
「肉はひとり4枚まで! 足りなきゃキャベツかマーマイトでも挟んで食ってろ!」
カウンターで目を光らせるギデオンの隙をついて、ペティがランチョンミートを8枚持っていこうとしたが、すかさず叱り飛ばされていた。
そんな光景も『天燕』に乗りこんでからすっかりお馴染みになったな、と列に並びつつカラスは思った。
戦時中、どんな風に食事の時間を過ごしていただろうと、ふとカラスは思い返した。
そしてすぐに、思い出すほどの出来事もなかったと結論づけた。
食べていたものといえば最低限の味つけがされたレーションや栄養飲料ばかりで、およそ人間らしい食事とは無縁だったと思う。酷い時には注射器で直接腕から栄養剤を打ちこんで作戦に望んでいた。
戦場という空間は必然的に人間を無機質にしていくが、食事がそれをより一層強めていたと今なら分かる。
「よおカラス、ちゃんと食ってるか?」
自分の分を確保して席を探そうとした時、カウンターから身を乗り出したギデオンに声をかけられた。
「ああ。食べている」
「そりゃ良かった。どうだ、うちのメシは美味いだろ?」
「概ね同意する。だが」
「何だよ、ケチつけようってのか?」
「味に問題は無いが、マーマイトだけは理解できない。あれは何だ?」
「マーマイトだよ」
ギデオンはそれだけで十分説明になると思って言っていた。カラスには何も分からなかった。
『天燕』の食堂では、必ず塩と胡椒に並んでマーマイトが配置されている。船乗りならばビタミン摂取に気を遣うのは当然という、ギデオンの食卓哲学の具現化である。
グレートブリテン島にルーツを持つブランチャード家は、宇宙に上がる際にマーマイトを持ってきた。ビール造りの際に出てくる粕を使った、黒く粘っこい調味料である。一見すると溶けたチョコレートのようだが匂いは非常に独特で、『天燕』に乗りこんで日の浅いカラスにはいまひとつ受けつけない風味だった。
「自分には使い方がよく分からない」
「適当に塗るだけでも美味いぞ」
そう言うギデオンは、すでに右手にマーマイト・サンドを握っていた。パンの縁から飛び出すほどに黒いタール状の調味料が塗りたくられている。
風のうわさでは、かつて『天燕』の食堂では食事のたびに何らかの形でマーマイトを使用した料理が出ていたらしい。基本的には不評だったのだが、性質の悪いことに時々マーマイトととんでもなく好相性な料理が出てくることがあり、船員たちのシュプレヒコールは統一を欠いたという。
決して不味い料理が出てくるわけではない。
しかしギデオンのマーマイトに対するこだわりは非常に強固で、いい加減そればかり食べさせられて皆うんざりした。
最終的に、マヌエラの八歳の娘が船長の眼前で「マーマイト嫌いッ!」と宣言したことで、マーマイト偏重の日々は終わりを告げた。
今でも食堂の各机にマーマイトの壜が置かれているのは、ギデオンによる最後の抵抗である。
「お前の御先祖様だってソイビーン・ペーストを毎日食ってたんだろ? それと同じようなもんだろうが」
「味噌か」
日系人のような見た目だと言われたので、自分なりにかつての日本食について調べてみた。
だが、醤油や味噌を口にした経験があるのか、言葉や文字だけではどうしても思い出せなかった。
(食べてみたら、何か思い出すのかな)
食糧難のタルシスでは、極東の伝統的な調味料など手に入るはずもない。大豆の生産は徐々に拡大しているが、それをわざわざ醤油や味噌に変える余裕など無いのだ。
そんなことを考えていたら、ギデオンが「ところで」と話題を切り替えた。
「メシが終わったら、午後から来てもらいたい場所がある。予定を開けておいてくれ」
フェニクス絡みだと彼が言い終える前に、カラスは「了解した」と返していた。