地球に向かって徐々に高度を下げていくBF-03Vの機内で、カラスは操縦桿を握ったまま、しかし全く力を込めず呆然としていた。
義眼には生き残ったセンサーの伝える情報が絶え間なく送られてくる。身体にどれほどの負荷や疲労が蓄積されても、脳に直接流しこまれる視覚情報はクリアなままだ。もし死の間際まで目を開いていられたならば、朦朧と段階を飛ばして、急に電源を切ったように全てが見えなくなるのだろう。
(見えないと思ったときには、死んでいるか……)
電源を入れたように起き、切ったように眠る。ロボットと何も変わらない。情緒も感情もとうに置き去りにしてしまった。かつて自分がどんな人間だったかさえ定かではない。
睡眠時間が終わって目が覚める。目の前に出てくるタスクを淡々と片づける。食事は栄養補給以上の意味を持たない。そしてまた、一日が終われば電源を落としたかのように眠る。そんな機械そのものの生活に慣れ切っていた。
ただ、記憶の残滓のようなものだけは、弄り回された頭蓋の裏に張りついて残っていた。
それは自分が全てを失う前の記憶。
口元をケチャップでベタベタにして笑う女の子の姿。
散らかった子供部屋。
肩に担いだ望遠鏡の重み。
そして最後は全てが火に呑まれて消えていった。
残ったものといえばその程度。それが嫌でたまらなかった。過去の自分と今の自分を切り離され、世界にただひとりぽつんと放り出された少年は、喪失の痛みを怒りに変えて戦うしかなかった。
眼前に現れる敵機や敵艦が、まるで失われた過去や想いを奪い去った海賊船であるかのように、それらを粉砕して回った。叩いて砕けば全てが元通りになると、どこかで思っていたのかもしれない。
だがレールガンの直撃でばら撒かれるのは、ただの残骸と人間の死骸だけだった。機体の装甲板にそれらがごつごつとぶつかり、コクピットに振動が響くたびに、虚ろになった自分の内側でも鈍い金属音のようなものが轟いた。
お前はもはや、どうしようもなく空虚なのだと言われているようだった。
だが、失ったことに対する怒りは湧いても、奪った者を憎むことはできなかった。
何を憎めば良いのかカラスには分からなかった。戦争という事象はひとりの少年が受け止めるにはあまりに大き過ぎた。憎んだところでどうすれば無くせるのか、その答えを形にできた者は歴史上存在しない。
憎む相手がいるならば、その者が存在する限り追い続ければ良い。だが憎む対象の無い怒りは、哀絶の叫びと変わらない。理不尽とは、憎んだところで答えが出ないから理不尽なのだ。
どこにどうやって向ければ良いのか分からないエネルギーが少年のなかで溶融して、ただでさえ危うい精神の安定を崩そうとしていた。
機能停止と高度低下を受けて、機体はけたたましくアラートを鳴らし続けている。機体の損傷も決して軽くない。そもそもバレット・フライヤーは大気圏内での飛行を想定していない。コンテナ・スラスターの推力で無理矢理機体を飛ばすことはできるが、燃料が切れれば墜落する。その燃料にしても、加熱・点火するための電力が無いのでは足掻きようもない。
自分は兵士であり武器だ。だから『天燕』に帰還することも考えなかったわけではない。
しかし足止めとして出撃した以上、船は必ず前方にいる。Uターンして引き換えしてくるなどありえない。船の推進剤だけでは止まり切れないし、もし止まれたとしても今度は『熾天使』を振り切って脱出するだけの速度が得られない。ギデオンの選択肢は速度を殺さず地球の反対側のコロニーに駆け込むことだけだ。
それにもう、『天燕』の姿は地球の裏側に隠れてしまっている。通信も届かない。
モニターに映し出された地球の姿が徐々に大きくなる。母なる星と呼ばれるそれが、今は大口を開けて迫る怪物に見えた。機体に伝わる振動が徐々に激しくなる。
これで全てが終わる。
カラスの手から力が抜けた、その時。
『……こちら天え……! カラスさ……聞こ……!』
砂嵐のようなノイズの向こうから、声が聞こえた。
失いかけた力が、指先に戻った。
咄嗟に通信装置の感度を上げ、情報を取り込もうとする。連鎖機雷にやられて頭部センサーはほとんど壊れているが、それでもセレンの声は確かに耳に届いた。
「そんな……船はもう」
地球の反対側、と口に出かけた時、センサーが前方に打ち上げられた物体をキャッチした。『天燕』から放たれた中継モジュールが浮かんでいる。直接連絡をとることはできないが、この方法ならば確かに地球の反対側に情報を送ることができる。
『カラスさん、無事ですか!? 応答してください!』
「っ……こちらBF-03V、聞こえている! だが……どうして戻ってきた!」
カラスはマイクに向かって怒鳴ったが、返ってきたのはより大きな怒鳴り声だった。
『助けるために決まってるじゃないですか!! 分かり切ったこと聞かないでくださいッ!!』
後半、ビリビリとスピーカーが震えたのは、通信状況の悪さだけではないだろう。実際、遠く離れた『天燕』の仮想艦橋上では、大人しげなセレンの出した大声に大人3人が驚いて目を丸くしていた。
「あ、ああ……その、すまない」
『分かれば良いんです! それに、天燕は戻ってきたわけじゃないですよ』
レーダーに反応。ディスプレイ上に味方船舶の識別が表示されている。前に行ったはずの『天燕』に間違いない。
しかしマーカーは、BF-03Vよりもずっと後ろに現れていた。
『回ってきたのさ、地球をぐるっと一周してね』
音声通信にマヌエラの声が割り込んだ。カラスは彼女のことを機関長として認識しているだけだが、彼女の口ぶりは、まるで知り合いの男の子に声をかけるような気軽な調子だった。
「なんで、そこまでして……」
『あんたを助けたいからさ。セレンだって言ってたでしょ? 分かり切ったことだって』
胸を突かれたような気持ちになった。
そんな自分の心情を認識して、気持ちという言葉が頭に浮かんだことにカラスは戸惑った。
そんな風に感じる心が、自分の頭蓋の裏側にまだ残っていたことに。
『さって! あたしらにこれだけ骨を折らせたんだから、あんたも生き残るよう努力しな!』
「……だが、機体の電力は完全に喪失している。スラスターに点火できない」
『それはこっちでも把握してる。大丈夫、あたしに任せて。ちゃんと飛ばせてやるからさ』
『機関長、バレット・フライヤーの中枢AIにアクセスできました。そちらの画面に回します』
『りょーかいっ!』
いつの間に、とディスプレイを見ると、コントロールの一部が『天燕』の側に移譲されていると表示されていた。パイロットが操縦不能に陥った場合に備えて、母艦側で管制するためのシステムが存在することは知っていたが、実際に発動しているところを見るのは初めてだった。そのような状況に陥れば、たいてい機体の方が破壊されているからだ。
機体のシステムが外部コントロールによって走り始める。ディスプレイ上を無数の文字が走り抜けていくのを、カラスは揺れに耐えながら見つめることしかできなかった。
だが、どんな操作が行われているのかは把握できた。
BF-03Vの主な発電装置は、二基の小型核融合炉。しかしそれ以外にもうひとつだけ、非常時に限られるが電力の供給源となるものが存在する。
「……そうか、レールガンから!」
ディスプレイに映された機体の略図上で、右腰部のレールガン、その砲尾が点灯している。
バレット・フライヤーの主兵装であるレールガン『エグゼキューター』は、一射するにも莫大な電力を消費する。そのため、二基ある融合炉のうちひとつからエネルギーを吸い上げているが、状況次第では機体制御のために電力を兵装まで回せない場合がある。
そのため、どのような状況下でも最低一射はできるよう、砲自体のバッテリーに一発分の電力がチャージされる仕組みになっていた
マヌエラはその点に目をつけ、逆にスラスター点火のために使うことを思いついたのだ。
『そ、あんたがくっつけたまま戦ってくれたおかげで、バッテリーをひとつ捨てずに済んだってわけ。いま突貫工事で作業してるから、ちょっと待っててね!』
そう言いながらも、すでにコクピットには電力が戻り始めていた。電力維持のために落とされていた照明が復活し、暗がりが消える。だが、機体の高度は依然下がり続けている。姿勢制御用のスラスターは生き返ったが、これだけでは高度を上げるほどの勢いはつけられない。
『カラス、コンテナを地球側に向けろ!』
今度は、ギデオンの声が飛びこんできた。
『大気に触れてからの姿勢制御は不可能だ。今のうちに、一番頑丈な部分を下に向けておけ』
「了解、した!」
言われた通りに操縦桿を動かし、機体の左翼側を地表に向ける。
『よし……進路そのままだ。機内から天燕は見えているか?』
「まだ、いや……見える!」
背部カメラが、地平線上に浮かぶ豆粒程度の『天燕』をしっかりと捉えていた。それを見て、カラスは本当に彼らが迎えに来たのだと知った。今までもしかしたら幻覚と話しているのではないかと疑っていたのだ。
『俺の合図に合わせて武装を全て投棄、同時に最大加速だ』
「相対速度を合わせなくて良いのか?」
『ともかく機体をぶっ飛ばすのが最優先だ。お前は何も考えず、スロットルをフルに押しこんでおけば良い』
「了解」
ギデオンの言う通り、いまやBF-03Vにできることは限られている。カラスにできるのは、機体の角度を操作して地表に向かわないよう姿勢を維持し続けることだけだ。
主推進器を起動させるだけの電力がスーパーキャパシタにチャージされる。通常時に比べれば心もとないエネルギーだが、ともかく再点火するだけのパワーは得られた。
「頼むぞ」
ふと、誰に頼むのだろう、と思った。ギデオンだろうか?
(それとも、
戦争の末期、出撃直前に母艦は敵によって沈められ、自分はこの機体とともに宇宙を漂流することになった。
いつデブリにぶつかるか分からない。拾われることがなければ、凍りついた身体は宇宙の果てまで漂流していただろう。それを想像するとさすがに冷え冷えとした気持ちになる。
それほどのリスクを冒してまで、あの時咄嗟に人工冬眠という選択肢を採ったのはなぜだったのか、いまだによく分かっていない。兵士として、武器としてこの先も戦っていくためだったのか。
(そうじゃなかったな)
自分はこの機体に運命を託すことを選んだ。その時浮かんだ、己の意思に従って。
何もかもどうでもよくなった今、会ったばかりの船の乗組員たちに焚きつけられて、必死に重力の井戸から飛び立とうとしているのも、同じ理由なのかもしれない。
「……
言葉にすると、なんて浅はかな希死念慮だったのだろうと、自分で自分が可笑しくなって、口元が緩んでいた。
少しだけ、生きてみようと思った。