『天燕』の望遠カメラが、青い惑星の地平から昇りくる白亜の城塞を捉えた。
防衛衛星『熾天使』は、蝶の胴体を思わせるコントロールブロックに三対六基の巨大なウェポンブロックを組み合わせて構成されている。
ウェポンブロックは、その一つ一つが丸い葉のような形状をしており、中央部に大量の武装を内蔵している。
翼端から反対の翼端まで、最も遠い箇所で約3キロメートル。葉の縁にあたる箇所にはラジエータープレートや太陽光発電パネルが無数に取りつけられ、恒星の光が当たるたびにきらりと瞬く。
人間が造ったとは思えない、異様な美しさと威厳を漂わせる機械の天使。
ギデオンはそれを見るたびに、地球人たちの激しい拒絶意識を感じさせられる。あれこそまさに地球と宇宙を隔てる象徴なのだ。
その壁を潜り抜け、地球という楽園の恵みをほんの少しでも掠めていくことに、言いようのない痛快さを覚える。
ギデオンは左腕のセクレタリー・バンドに視線を落とした。時計の内部機構は、いつも通り健気に時を刻み続けている。現在、21:07。間もなく08になろうとしている。静止衛星軌道に侵入してから約13分。
まだ『熾天使』に動きは無い。現在、彼我の距離はおよそ27000キロメートル。ディスプレイ上に表示されたメーターが慌ただしく回転している。低軌道防衛ラインを超えるまで、予定通りにいけば40分。
普段ならばそろそろ動きが出るはずだ。しかし、太陽嵐のためにレーダーや内部機構が麻痺しているのか、さしもの『熾天使』の監視システムも接近する船団を捉えられていない。
『船長、左舷方向より軌道エレベーターケーブルが接近しています』
「ああ、見えている」
セレンの報告通り、『天燕』左舷より、長大なケーブルが接近してくるのが見えた。かつて地球と宇宙を結ぶ懸け橋だった軌道エレベーターは、港湾区が戦争によって破壊されたため完全に操業を停止している。
ケーブル周辺には数100キロごとに保守整備のためのミニリングが取りつけられているが、それらも全て無人である。
つまり、接近のための盾として使っても良いということだ。
ギデオンは操縦桿を傾け、『天燕』をケーブル付近へと接近させた。間違って接触でもしたら、次の瞬間に船は真っ二つに切り裂かれ、残骸を地球へ降らせることになるだろう。
ギデオンは己の操船技術に自信をもっていたが、決して絶対視はしていない。慎重に距離をとりつつ、しかし『熾天使』の攻撃を躊躇わせるようなポジションを維持し続ける。その様子を見た他の封鎖突破船も、彼の真似をするべく周囲に集まってきた。珊瑚の影に身を寄せる小魚のように、船団はエレベーターに沿って地球へと降り続ける。セレンに『ヴァルチャー』がついてきていないか確認させるが、姿は見えない。
明確な敵意を持った相手がどこにいるか分からないのは薄気味悪い。しかしこのタイミングでアクションを起こすことはありえない。
ギデオンはダリウスの仕事ぶりを知っている。元は軍の特殊部隊を率い、敵拠点への潜入や破壊工作を専門的に行っていた男だ。特に、月面に建設された地球軍ミサイル基地に強行着陸を敢行した際の手際は、今後も軍学校で参考として使えるレベルだった。
空挺部隊の戦術で最も重要なのは、その投入タイミングである。戦場は常に流動的であり、どこに楔を打ち込むかでその後の戦局を大きく覆す可能性がある。ダリウスは勘所をしっかりと押さえた男だった。時が来るまで身を潜め、敵の致命的な隙を見つけ次第、即座に仕掛ける。基本的なことだが、それを完璧にこなす相手ほど厄介なものはない。
だからこそ、ギデオンは首を捻った。
(……何だったんだ、あれ?)
ダリウスは奇襲作戦のプロ。そんな男が「今からお邪魔します」と言ってくるなど、不可解でしかない。
しかしギデオンとしても、敵の出方が分からない以上、警戒するしか選択肢は無かった。
ダリウスには死神の鳥が憑いている。死の気配と全く無縁な者などいないが、彼からは格別に濃い瘴気を感じた。
だがあるいは、鳥の眼差しが捉えているのは自分かもしれない。ギデオンはふとそう思った。
その思考を切り裂くように、仮想艦橋にアラートが鳴り響く。セレンが『熾天使』からレーダー照射を受けていることを報告する。実質的な警告。これ以上侵入を続ければ撃つという意思表示。少し前までは美麗でかつ冷たい声のアナウンスがついていたのだが、最近はもうやってくれない。
ギデオンは『天燕』の火器管制システムを立ち上げる。正面ディスプレイに使用可能な火器が表示される。
しかしこれらは、まだ使わない。
ここから待っているのは、文字通りのチキンレースだ。
地球の自転に合わせて軌道エレベーターのケーブルは徐々に右方向へと流れていく。じきに身を守ってくれていた盾がなくなる。
ギデオンは『天燕』をエレベーター近傍より離脱させた。他の船たちが後に続く。別に彼が音頭を取っているわけではない。だが『天燕』の操船は他の船よりもひときわ大胆で、だからこそ死の恐怖に曝されている者たちを引き寄せる。
(恨まないでくれ)
事実、突入コースから逸れ過ぎてしまうため、軌道エレベーターから離れる必要はあった。
だが、どのように動けば周囲が反応するか、ギデオンは嫌というほど知り尽くしている。
強化ガラスの向こうには、数十キロ以上の距離を開けて無数の宇宙船が航行している。それらのエンジンから吐き出される炎は、背景の星々が霞むほどに明るい。
一隻の船が加速をかけた。『天燕』だけでなく、他の封鎖突破船の先頭に躍り出る。他の船を出し抜いて余分に物資を回収するつもりだと、ギデオンは読んだ。それはとてつもなく危険な行為だ。
現にその船は、死神の鳥の群れに取り巻かれている。
第二宇宙速度で飛ぶ宇宙船に平気で追いつき、獲物が死に絶えるのを待つかのようにぐるぐると船の周囲を飛び回る。先頭の船は、自分たちが死の一歩手前にあることに気づいていない。鳥に教えてもらうまでもない。危険な立ち回り。素人集団なのだろう。操船に無駄が多すぎる。小刻みにスラスターを噴かせて進路を調整しているが、推進剤の無駄だ。
ギデオンは逆噴射をかけて『天燕』の船足をわずかに落とした。真似をしたのか察しが良いのか、数隻の船が彼の真似をして距離をとる。
再びアラートが鳴った。
『っ、防衛衛星の出力、急激に増大……!』
「大丈夫だ。この船には当たらない」
セレンの顔色がさっと蒼くなった。ギデオンは平静そのものの声で返す。饒舌なペティは押し黙り、マヌエラは右手の指を全て伸ばして十字を切った。
アラートは先頭の船にも鳴り響いていたのだろう。わずかに回避行動をとろうとしたが、あまりに遅すぎ、かつ目立ちすぎた。
『熾天使』の中枢ブロックに装備された大型対艦レーザーに、衛星内の30基の核融合炉から膨大な電力が送り込まれ、その熱量を爆発的に増大させていく。あたかも地球上空にもう一つ太陽が現れたかのようだった。
そして、解き放たれた光の矢にとって、24000キロ足らずの虚空など無いも同然である。
先頭の船に残された回避猶予時間は、わずか0・08秒だった。
その計算を船のコンピュータが弾き出す前に、船体は光の刃によって両断され、爆散した。
やられたのは一隻だけではない。射線上にいた別の船や、うっかり通り過ぎてしまった船までも容赦なく斬り裂いていく。弾け飛んだ船の残骸はキュー・ボールとなって、後続の封鎖突破船を巻き込み、さらなる破壊の連鎖を作り出す。
現代の宇宙船の基本的な動力源は核融合炉であり、したがって機関部そのものが爆発の発生源となることは滅多にない。しかし推進剤に引火すれば話が違ってくる。
一瞬で爆沈するのは幸せな方だ。最悪の場合、発生した高熱が船の内部を満たし、逃げ場も無いまま蒸し焼きになる。これを防ぐ最も効率の良いダメージコントロールは、損傷個所を即座にパージすることだ。たとえそこに何人の人間が残っていたとしても。
『天燕』のレーダーでは、そうして切り離されたモジュールをいくつも確認していた。
ギデオンも認知していた。しかし止まることも助けることも、この状況下では決して選択肢に上がらない。船長として上げてはならないとさえギデオンは思う。まずは自分の部下を無事に帰さねばならないのだから。
『宇宙の民の窮状を招いたのは貴様だ、ブランチャード』
ダリウスの声が、耳の奥で蘇った。
(黙れ、この糞忙しい時に……!)
現に、彼の手元は忙しかった。脳髄はそれ以上に激しく活動している。
操縦桿を操り、前方から飛来する鉄塊を最小限の動きで回避していく。余計なベクトル変更は無意味だ。一度スラスターを噴かしたら、そこで発生した慣性を最大限に活用する。ダンサーのように激しく尻を振る必要は無い。鳥と魚の中間の生き物のように飛ぶことを心掛ける。それがギデオンの操船哲学だった。
それゆえ古代魚のような『天燕』は、今や地上のあらゆる鳥よりも軽快に舞い踊っていた。
四方八方に飛散した残骸は、爆発によって吹き飛ばされた際の熱を未だ抱え込んでいる。もし船の脆弱部に当たれば、そのまま反対側まで貫通しかねない。現に、連鎖して破壊された船の大半は、残骸の嵐に突っ込んだためそうなったのだ。
ギデオンは操縦桿を操り、『天燕』を縦横無尽に飛行させる。高揚も感動も無い。彼にとってはいつも通りの仕事だ。
視界の端を黒い鳥たちが飛び去って行く。その流れから離れるように動けば、沈みゆく船の断末魔に巻き込まれずに済む。
なぜその船は沈んだのか。何が危険なのか。そうした思考は後からついてくる。燃料タンクの配置が悪かっただの、操舵手の反応が鈍いだの、回避運動を終えてからようやく言語化されるのだ。
死神の鳥たちは、危機が言葉になるより速く宇宙を飛ぶ。
ギデオンの目に見える宇宙は、鳥たちが撒き散らした黒い羽と、火花と化した宇宙船の断末魔でいっぱいになった。
そこに美しさを感じる余地など無い。
視界の果ての『熾天使』が、差し出された供物に満足したかのように、冷却機構から夥しい量の白煙を吐き出した。
『……船舶の反応……32、消滅……』
仮想艦橋に浮かぶセレンは、モニターから顔を背けていた。声も震えている。むしろよく報告できたものだと思うのは、やや甘い評価だろうか。ここが鉄火場だと知って乗り込んできたのは彼女自身の意思だ。
だが、1隻に『天燕』と同じ30名程度が乗り込んでいたとして、今の一撃で1000人近く死んでいる。
戦争での死が上等とはギデオンも思わないが、今の一発は地球人たちにとって羽虫を追い払う程度の意味合いしかない。殺しても良いし殺さなくても良い。しかもそのトリガーを引いたのは人ですらない。適当に撃てと命じられたAI、が目立つ奴を撃った。それで1000人。聖域に立ち入る者に容赦の無い裁きを下すというメッセージのための人柱。
まだ人間は狂ったままだとギデオンは思う。
「セレン・メルシエ! 損傷個所を報告しろ!!」
フルネームで呼びつけられ、オペレーターがびくりと身体を震わせた。
「損傷は。本船はやられたかと聞いている!」
『っ、損傷軽微! 航行に支障ありません……!』
「そうだ。俺たちはやられていない。
しっかり身構えていろ。自分の役目を果たせ。身の振り方は生きて帰ってから考えれば良い……さて、このまま地球まで駆け下りるぞ!!」
『……了解!』
セレンは再び前を向いた。ギデオンは小さく頷いた。
彼女の感じ方はまともだ。人間の死はそう軽々しいものではない。
ふと、昔読んだ小説のことを思いだした。遥か彼方から攻めてきた宇宙人によって、地球人の宇宙艦隊が木端微塵に粉砕されるシーンがあった。迫真の筆致だったと記憶している。
その宇宙人たちによる攻撃も、確かメッセージだったはずだ。お前たちは羽虫に過ぎないと分からせるための虐殺。だが宇宙人に言われたのなら、腹を立てれば良いだけだ。攻めてきた時にぶちのめしてやれば良い。しかし地球人に対してはそうはいかない。
地球人が全て宇宙人だったら良かったのにな、とギデオンは思った。
そして余計なことに思考を割いたとかぶりを振った。