A.D.2159 12/16 20:55
静止衛星軌道
ガラス越しに、無数の星明りに抱かれて浮かぶ青い星が見えた。
あの星の姿を間近で見るたびに、奇妙な感慨に囚われる。かつては深く憎んだものだが、戦い続けるうちに、それが失われたら途方もない喪失感に襲われることに気づいてしまった。ギデオンは宇宙で生まれ育ち、一度も地球に降り立ったことはないが、人間としての肉体はあの星を故郷と感じている。それを止めることはできない。
ヘルメットを被り、ギデオンは船内の全回線を開いた。
「これより本船は地球軍防空圏内に侵入する! 総員、気を引き締めて掛かれ!」
ホロディスプレイの一つには全船員のバイタルデータがリアルタイムで表示されている。血圧や脈拍を見れば誰がどんなメンタルなのか一目で分かった。大きく取り乱している者はいない。だが、過度に弛緩している者もいなかった。ちょうど良い緊張感だ。
次いで、仮想艦橋を立ち上げる。球状のガラスコクピットの壁面に画像が投影される。宇宙空間を背景に、主だった艦橋要員たちの姿が現れた。実際には、機関長であるマヌエラは機関制御室におり、甲板長兼副長のペティはクレーンポッドのコクピット内にいる。
『天燕』に限らず、現代の宇宙船において仮想艦橋の設置は常識である。ダメージコントロールの観点から、船の首脳を分散した方が、万一の事態が生じた時に立て直しができるからだ。開発初期の時代、艦橋に上級船員を集めたがために、一度の事故で未帰還となった船は数えきれない。
もっとも船長自ら、強化ガラスで守られているとはいえ露天艦橋で操舵しようとする船に、ダメージコントロールも何もあったものではない。
そんなことは百も承知だが、ギデオンはこのスタイルを採ることが、結果的に乗員たちを守ることに繋がると確信していた。
何故なら、死の気配を運ぶ
ギデオンの目には、死神の鳥が見える。
オカルトなどではない。鳥の正体というのも、幽霊でもなければ悪魔でもない。言うなればそれは、可視化された死の可能性そのものである。
宇宙という極限環境下において、人間は常に死と隣り合わせに生きている。どれほど厳重に防御を固めようと絶対的な安全は存在しない。
しかしそれでも、死にやすい者とそうでない者のラインは明確に分けられている。そしてギデオンの目に映る鳥は、ラインを超えている者のすぐそばに現れる。
死という事象だけを、限定的に予知する能力。
それはすなわち、死にそうな者から離れ……自分たちを生き延びさせる能力でもある。
『君のその
人の進むべき行き先にあるものなんだよ』
かつてギデオンにそう囁いた男がいた。
今でも鼓膜の奥で蘇るその声に対して、ギデオンは心のなかで「黙れ」と毒づいた。
『船長、予想通り大規模な電波障害が発生しています。地球軍の戦術ネットワークに乱れが生じています』
セレンの落ち着いた声が、ギデオンに集中を取り戻させた。
「予定通りだが……本船のレーダーはどうか?」
『半径500キロまで探知可能です。現在、同範囲内に232の反応を感知。うち94からは核融合エンジンの反応を感知しています』
ギデオンはざっと周囲を見渡してみた。『天燕』の艦橋から見て、右斜め上方に複数の光点が認められる。光の尾を引いて走っていた。星の見間違いではない。全て同業者の船だ。
捕捉できた数は94隻だが、実際にはさらに多くの船が同宙域を航行している。大半は飢餓から逃れるために船を出した連中だが、弱者を捕食しようとする手合いはいつの時代も変わらず存在する。
「セレン、本船の後方につこうとする船がないか、厳重に警戒してくれ」
『了解しました』
セレンは平静そのものの顔で返答した。ブリーフィングの際に緊張で固まっていた娘と同一人物とは思えない。
封鎖突破船に無能を雇い入れている余裕は無い。士官学校を出たばかりの若手だが、ギデオンは彼女の特異な才能に気付いていた。平時に脅かされると緊張するくせに、土壇場に立たされると途端に冷静になるのだ。集中力も並外れている。伊達に士官学校の特進科に入れられていたわけではない。
自分自身もそうだが、宇宙で生まれ育った人間には奇妙な特質を持った者が多い。死神の鳥は行き過ぎだとしても、セレンのように集中のオン・オフが極端に得意な人間や、ずば抜けた空間把握能力を持つ者がたびたび現れる。そしてコロニー社会もまた、そういった人間をごく当たり前の存在として受容していた。
(地球の奴らからしたら、気持ち悪いのだろうな)
その時、仮想艦橋にアラートが鳴り響いた。ペティやマヌエラが身構える。前方、地球側からのロックオンではない。後方から無遠慮に投げつけられた警笛だった。
『船長、封鎖突破船『ヴァルチャー』より通信が入っています』
「……繋いでくれ」
ギデオンのコクピット正面にホロディスプレイが現れる。中心に、初老の船乗りが映し出されている。まだ50になったかどうかだったとギデオンは記憶しているが、少し見ないうちにずいぶん老けたなと思った。頬がこけているせいで、骨ばった鉤鼻が一層目立っていた。
秘匿回線に切り替え、船内へのマイクを一時的にオフにする。ギデオンはさりげなく行ったつもりだったが、男は全てお見通しだと言わんばかりに唇を吊り上げた。
『相変わらずコソコソやっているな。脛に傷持ちとあってはさぞ生き辛かろう』
「ダリウス、何の用だ。また仕事の邪魔をしに来たのか?」
クックッ、と男は肩を竦めながら笑った。特に意識してのことではない。昔から笑う時はこうなのだ。それを見て良い気分になった経験は、少なくともギデオンには無い。
『前回は残念だったな。地球のお友達から何のプレゼントかと思えば……医薬品だと? それで贖罪のつもりか』
「タルシスにとって必要な物を運んでいるだけだ。それを横から掠めていく屑どもに、嫌味を言われる筋合いは無い」
『本当にそうか?』
「何が言いたい」
『タルシスの真の敵は、大佐を殺した貴様だ』