A.D.2161 2/23 17:34
地球近傍宙域
封鎖突破船『
愛機に『フェニクス』という名前がついてから、どれくらい経っただろう。メインエンジンの火を落としながら、青年はふと思った。
(考えていられなかったな。そんなこと)
兵器は兵器でさえあれば良かった。敵を倒すための性能以外に何もいらない。
自分のなかに宿っていた、燃え上がるような憎悪を表現するためのマシンでいてくれたら、それ以外に何も望まなかった。
だから名前が付いた今はもう、この機体は兵器ではないのだろうと青年は思う。
コクピット前面のモニターには機外の様子が映し出されている。顔馴染みの甲板員たちが、無重力の格納庫内を文字通り縦横無尽に飛び回っている。
封鎖突破船『天燕』に無能は乗り込んでいないが、それでも青年はひやりとした。主機の火を落としているとはいえ、機体の表面は肉を黒焦げにできるくらいに熱くなっているのだ。怪我だけはしないで欲しいが。
ヘルメットを外し、汗で額に張りついた黒い髪をかきあげる。人種の混合が進んだ現代にしては珍しい、日系人の特徴が強く残った顔立ち。だが、両目の光彩はどちらも赤い。ピントを調整する際、かすかに機械音が鳴る。義眼なのだ。
左目に違和感があった。視界が微かにざらつく。青年はこめかみに埋め込まれたスイッチを押して義眼を抜き出した。視野の半分がぷつりと消える。右目がすぐにピントを調整し、視界の半分を補正して表示する。
無重力のなかで回転しながら浮かぶ眼球をそっと手に取り、コクピット正面から引き出したケーブルと接続する。プログラム上の問題はたいてい機体が解決してくれるが、恐らく機械的な不具合だろう。両目を義眼に替えてから、もう3、4年は同じものを使い続けている。それも酷使に次ぐ酷使だ。壊れたとて仕方がない。
(正気じゃなかったな。あの頃は……)
目を抉り出す判断は、自分で下した。
体内の内臓はほとんど機械に置き換えた。
そうでなければこの機体を飛ばせなかった。何の変哲もない少年が兵士になるためには、自分自身の肉体を兵器に改造しなければならなかった。憎悪ゆえにそれを望んだことだけは覚えているが、なぜそこまで憎んだのか、何を失ったから憎むようになったのか、その過去は全て消去された。
憎しみだけを理由に戦う、空虚な兵士ができあがった。
だから、戦場から遠ざかった今は、少しでもがらんどうの内面を埋めていかなければならない。
パイロットスーツの首元を開けた時、モニターの一部が点滅した。船長からの通信。青年は回線を開いた。
正面に四角いウィンドウが現れる。灰色の髪の男が映し出された。
『無事か、カラス』
「問題無い」
カラスと呼ばれた青年は無表情のまま、かつ素っ気なく返す。男は特に気を悪くした様子もない。これが普段通りのやりとりだからだ。
「でも、『フェニクス』の尾羽が焦げついた」
男がクックッと喉を鳴らした。
『尾羽どころか全身真っ黒になってるぞ。不死鳥どころか、これじゃ焼き鳥だ。帰港するまでに洗浄が終わるかどうか』
「ギドの無理を聞いたからだ。自分のせいじゃない」
カラスはすこし首を傾げて言う。表情は少しも変わらない。人の仕草というより、鳥類の動きに似ているといつも言われる。
『確かに荷物を拾ってこいと命令したが、何も機体もろとも大気圏に飛びこめとは言っちゃいない。よく機体がもったものだ』
「自分の腕でなければ墜ちていた」
『黙れ糞ガキ。毎度壊して帰ってくるお前はまだまだ半人前だ』
彼から糞ガキ呼ばわりされるのはいつものことだ。
カラスはシートの下のホルダーから水筒を引っぱりだした。中身はブドウ糖注射液の水割り。平時なら甘すぎて飲めたものではないが、帰投後に飲むとしわしわになった脳味噌に水と糖の染み込んでいく感覚が楽しめる。
『おくつろぎのところ申し訳ないが、あとで
「了解した。ハッチの故障が直ったら参加する」
嫌味ではない。実際、ハッチが壊れて開かないのだ。
『……ま、何はともあれ無事に終わって良かった。反省会が終わったら打ち上げだ。ちゃんと腹を空かせておけよ』
「そうする」
カラスは通信を切ろうと手を伸ばしたが、ふと思いとどまった。ひとつ聞いておきたいことがあった。
「ギド。今日の仕事は、誰の役に立つんだ?」
ウィンドウの向こうで、男が微かに瞼を震わせた。そして少しだけ嬉しげに口元を緩めた。
『……人間が一日で消費する塩の量は、最低3グラム程度だそうだ。だから、今日お前が拾ってきた塩の塊だけで、50000人がとりあえず一日乗り切れる』
「たったそれだけか」
『宇宙で塩は作れないからな。それでも……良い仕事だった』
「そうか」
『まあ、全部が全部食用になるわけじゃない。活かし方次第でより大勢の人間を救える。あとはオーナー殿の采配に任せるとしよう。ともかく、ペティがハッチを開けるまでもうしばらく待ってろ』
「了解」
通信が終了した。
腹を空かせておけと言われたが、すでに胃袋が鳴き始めている。砂糖水だけでは飽き足りない。
気分転換に始めたフライトデータの整理も、機体のAIの力を借りたらあっさり終わってしまった。それでもまだハッチが開かないので、シートの下のボックスからペーパーバックの小説を引っぱりだす。刷られた当時は安物だったが、電子書籍がメインとなった今では逆に高級品だ。
ロアルド・ダールの『飛行士たちの物語』。船長のギデオンから押し付けられた一冊だった。教養を積めと言って、やたら文学作品を押しつけられるが、『白鯨』は長すぎて飽きたし『罪と罰』は台詞が不自然に演劇臭くてうんざりした。その点、『飛行士たちの話』は一話が短くて読みやすい。
ペラペラとページをめくって3分ほど経ったころ、けたたましい音を立てて鋼鉄製のハッチが開かれた。格納庫の油臭い空気が一気に流れ込んできたが、その時になってようやくカラスは、コクピットのなかがサウナのように熱くなっていたことに気づいた。
甲板長のペティ・バスケットが、黒い肌の巨体を窮屈そうに屈めてコクピットを覗き込んだ。脚を組み、片手に本を持っているカラスを認めて、ほっと息を吐く。
「なんだよカラス、余裕そうじゃねえか」
「そうでもない」
「なんだ怪我か? 脱水か?」
「腹が減った」
「そりゃ大変だ。ギドが美味いメシを作ってくれるぜ」
常人より二回りほど大きい親指を立てて、外に出ろと合図する。
カラスは栞を本に挟むと、もう一度ボックスのなかに戻した。先ほどまとめたフライトデータを『天燕』のサーバーに移す。コクピットを出る前にチェックリストを見直し、自分の落ち度で被害が出ないかを確認する。問題無し。『フェニクス』の火は完全に消えている。
ハッチに足をかけ、格納庫にふわりと浮き上がる。確かに船長の言う通り、機体はあちこち黒く焦げついていた。だが、人間の頭部にあたる箇所にはめられたカメラアイだけは、緑色の光を明滅させている。
BF-03VC、ニックネームは『フェニクス』。
かつて戦場をともに駆け抜けた、バレット・フライヤーと呼ばれる宇宙戦闘機。
ミリタリー関連のメディアでは人型機動兵器などと言われるが、その姿はむしろ鳥に近い。かつては頭部のカメラアイも、より無機質なデザインだった。何度か無茶をして壊すたびに今の姿へと変わっていったのだ。
「ずいぶん人間臭い顔になったな、お前も」
そう言って、カラスは愛機の額を撫でた。装甲にはまだ仄かに熱が残っている。余剰電力が切れたのか、明滅していたカメラが眠るように灯を消した。
(そうか)
思い出した。
この機体が『フェニクス』になったのは、一年と三か月前。
最初の仕事を終えたあとも、やはり機体は黒焦げだった。