我がリーズベルト王国と、敵であるミスガルズ帝国の境に広がる『闇の大森林』。
闇の大森林は名前の通り、あまりにも鬱蒼と木々が生い茂っているため、外からの日光が入らない場所となっている。だから、昼間であってもランプを使わない限り足元を見ることも出来ない。
そんな場所に、私はたった一人で挑んでいた。
いや、正確に言えば、私が一個隊を率いていたわけだけれど。
「……急いで、向かわねば」
そう思わず呟いたが、その刹那、私はそれについて思い返した。
どこへ向かうのか?
どこに向かう必要があるのか?
……まずい。気をしっかりと持たねば。
さっきの部下たちもそういう理由で、次々と心を病み――仲間同士を傷つけていったのだから。
闇の大森林。
その名前が示すもう一つの意味――それは、人間の闇が垣間見える場所だということ。別に人間だけではない。もっと言うならば、いろんな種族の闇が見えてしまう場所だった。
その理由ははっきりとしていないが――この森林に立ち込める闇の魔力が原因であるといわれている。光が入らない場所だからこそ、浄化されることのない闇の魔力が立ち込めているのだと――。あくまでもそれは、仮説に過ぎないのだが。
しかし、いま実際それを体感していることを考えると――学者が机上の空論で述べていたこともあながち間違いでは無いのだと、思った。
「このままだと……」
私も持たない。
さて、どうするべきか。私はそう考えた。ランプの灯もそろそろ危うい。ランプの灯が消えてしまうと、完全なる闇が広がってしまうこととなる。それは正直言ってとても厄介なことだった。
ふと前を見ると、すぐそばに廃屋があった。かつてここにも文明があり、誰かが住んでいたことを示す象徴にも見えるが、当然ながら今は誰も住んでいない。
しかし、休憩をすることは出来るだろう。
窓――ガラスが割れてしまっていてその意味を殆ど為していないけれど――から中を見ることが出来るが椅子にテーブルもある。ここで少し休憩をして、それから森林の脱出を目指してもいいだろう。そう思って私はその扉を開けた。
「おや、いらっしゃいませ」
そこは喫茶店だった。どこか高級そうな雰囲気を放っているが、カウンターの向こうにいるマスターは普通の人間に見える。
とにかく、私はどうすればいいか――すぐに考えたのは敵の罠だった。おおよそ幻覚魔法でも使っているのだろう。
「……どうされましたか? お好きな席へどうぞ。大丈夫です、ここはあなたが思っているような危険な場所ではありません」
ほう……。このマスター、心を読んだな?
どうやらただの人間ではないようだ――そう思って私はそれに乗った。そして、私はカウンターの席、正確に言えばマスターの前に座った。
「メニューは無いのか?」
そう言ったところ、マスターが陳謝した。
「ここは、メニューは無いんですよ。代わりに、あなたが一番食べたいものを提供することが出来ます。それが唯一のメニューとも言えますね」
食べたいメニューが?
いったい何を言っているのかさっぱり解らないが――とにかく待つしかない。どうやらこの部屋には優しい雰囲気があふれているように見える。ここに入ったばかりの時には気づかなかったが、どうやら結界のようなものを張っているらしい。
「少々お待ちください。たぶん、直ぐにやってくると思いますから」
そう言ってマスターはカウンターの裏にある――厨房へと顔を向けた。
◇◇◇
少しして、確かにそのマスターの言ったとおりに料理は運ばれてきた。しかも運んできたのは、赤髪のメイド――肌にドラゴンの皮膚のようなものがあるから、おそらくドラゴンメイドになるのだろうか――だった。
「お待たせしました、料理になります」
コトリ、とカウンターに置いた料理から湯気が立ち込めていた。僅かの時間でこれほど暖かい料理を作ることが出来るのだろうか? 答えは否、だろう。少なくとも、私が知っている技術ではこのような時間で作ることは不可能だ。
ならば、どうやって作っているのか? そんなことを考えてしまうが――少ししてそれは野暮だと結論付けた私は、両手を顔の前に合わせた。
イタダキマス。これは確か命を頂く挨拶であると小さいころに教育された。
我々は生きていくうえでエネルギーを摂取する必要がある。そのエネルギーを摂取するために一番効率がいいのは、肉を食べることだ。もちろん、肉を食べるということはその命を食らうことに等しい。だから、感謝の気持ちを示すのだ。そのために、『イタダキマス』という言葉を使う。
それにしても――この料理は何だろうか? 食べたい料理、とは言っていたがあまりそのようには思えない。やはり、食べたい料理を出すのはうそだったのか? そう思いながら、私は銀のスプーンを手に取って、スープを掬い上げる。少しだけとろみのあるスープだったが、あまりそういうことは気にならなかった。たぶん野菜を煮込んでいるのだろう。
それを口に運び、啜る。
すると口の中に野菜の深み、甘味、旨味が口の中に広がった。
「……これは……!」
これは、今までに食べたことがない!
まさに究極の料理ではないか!
スープの海に浮かぶ肉の塊。これを今度はスプーンで掬って口に運ぶ。噛むたびに肉の旨味が肉汁として口の中に広がっていき、こちらもスープの味と合わさって最高のフレーバーを生み出している。
「それにしてもこのスープの酸味と甘味は……」
「それはトマトという野菜ですよ。こちらではあまり馴染みがないかもしれませんが」
マスターがそう言って、私は首を傾げる。
トマト。確かにそのような野菜は聞いたことがない。酸味と甘味を生み出す野菜――きっと私の国にそれがあれば、料理の幅が広がるのだろうな。
半分ほど食べたところで、私はあるものに目が行った。
皿の上に載っている、数個のパンだ。小さいパンで、手に余るほどの大きさ。持つとカリカリしていて、よく焼きあがっているようだった。
「パンは……普通に食べていいのか?」
私の国では、パンはパンだけで食べる。スープとパン、という組み合わせはあり得ないことだった。
マスターは私の質問を聞いて笑顔で頷いた。
「ええ、それを適当な大きさに千切って、スープに付けるんです。それもまた、美味しいですよ」
「ふむ。そうか。では、試してみることにしよう」
私はマスターのいうことを試してみることにした。まあ、こういうことは試してみないと解らないからな。百聞は一見に如かず、という言葉もあるくらいだ。
そうしてパンを千切り、それをスープに浸す。パンは吸収性が良く、直ぐにスープの色に染めあがる。まるで服に染料を使い着色しているかのように。
おお、見ただけで美味しそうだ。そう思って私はそのまま口にそのパンを放り込んだ。
結果は、火を見るよりも明らかだった。
口の中に広がるパンとスープの味、それはまさに今まで私が食べてきたものの中で一番の味だった。しみ込んだパンがいいアクセントになっている。まだしみ込んでいない部分のパンの食感も心地よい。
つけては食べ、つけては食べ、を繰り返していたらあっという間にパンが無くなってしまった。まだスープは残っている。くそう、まだパンをつけて食べたいというのに!
「パンのお代わりをご用意しましょうか?」
マスターからの言葉はまさに助け舟だった。
「おお、お代わりができるのか! ……追加料金とか、発生するのだろうか?」
「いえ、無料でお代わりが出来ますよ」
「ならば、お願いしよう」
きっと私の表情はとてつもなく綻んでいるに違いない。部下にも見せたことのない表情になっていると思う。
しかし、美味いものを食べているのだ。ならば、こういう時くらいこんな表情をしたって構わないはずだ。
そう自分に言い聞かせながら、私はパンのお代わりを待つのだった。
◇◇◇
結局お代わりしたパンも平らげたが、まだスープは残っていた。それでもパンをお代わりして食べきれる程胃の容量が無かったので、そのままスープを飲み干した。
「ご馳走様でした」
再度、両手を合わせ一礼。それを見たマスターは笑顔で私の空になったカップにコーヒーを注いでくれた。
「ありがとう。とても美味しかったよ。それにしても……この料理を作ったのは、あの赤髪のメイドか?」
私が訊ねると、マスターはゆっくりと頷いた。
「ええ、そうなりますね。ここの料理はあの人が一人で作っていますから」
一人で作っている――か。だとすれば凄いことだ。これほどの料理を一人で作り上げるとは。私も見習わないといけないな。……見習っていれば、今もこのような生活はしていないのかもしれないが。
立ち上がり、マスターに訊ねる。
「……美味しかったよ。ところで、お金は?」
「銅貨二十五枚になります」
それを聞いた私は目を丸くしてしまった。
銀貨二十五枚と言えば、私がたまに行く居酒屋で使うお金とあまり変わらないくらい。正確に言えば、ちょっと高級なお店くらいだった。お店の雰囲気からして銀貨一枚くらいかかるのではないか、と思ったが……この満足度でこれならば素晴らしいお店だ。
私は麻袋に入っていた銀貨一枚を差し出し、
「それじゃ、これで」
マスターに手渡した。
「かしこまりました」
マスターはそれを受け取ると、店の奥に消えていく。それから少しして銅貨五枚をもってやってくる。こういうお店だから本物の銅貨かどうか怪しかったが(洒落では無いぞ)、見た感じ本物だった。
そして私はドアを開けて、
「御馳走様でした」
その一言を残し――お店を後にするのだった。
◇◇◇
それから。
リーズベルト王国の兵士の間である噂が飛び交うようになった。
それは首都の城下町にあるドラゴンメイドが営む喫茶店が出来たのだということ。自分が望む料理であれば何でも作ることが出来るのだという。
私はその噂をすっかり信じ込んで、城下町を探しまわるのだったが、それはまた別の話。