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第3話 ヤマアラシのジレンマ (メニュー:カレーライス)

「ヤマアラシのジレンマ?」


 営業時間も半分が過ぎた午後三時過ぎ。俺は暇になったので同じくカウンターに出ていたメリューさんと話をしていた。


「そうですよ、ヤマアラシのジレンマ。哲学用語だったと思ったのですけれど、『自己の自立』と『相手との一体感』という二つの欲求によるジレンマらしいですよ」


「ヤマアラシとは、どのような生き物なのかな?」


 メリューさんの言葉を聞いて、俺はスマートフォンを操作する。この空間、なぜか知らないが電波が通る。ケーブルを引いているとかそういうわけではない。何故かはあまり考えないほうがいいだろう。魔法的何かが働いているのだろう。

 スマートフォンブラウザでヤマアラシを検索して、メリューさんにそれを見せる。


「ふうん……思ったよりかわいい生き物じゃないか。これがいったいそのジレンマに合致するというのかな?」


「ヤマアラシは針が体中にあるでしょう? だから二匹のヤマアラシが身体を温め合おうとしても針が刺さってしまうかもしれない。だから、相手と一体になれない。もしなろうとするならば針を抜去せねばならない。けれどそれは『ヤマアラシにとって自己の否定』と成り得ます。……たぶんきっと、そう言うことなんだと思いますよ」


 カランコロン、とドアに付けられた鈴の音が聞こえて、俺とメリューさんは立ち上がる。

 休憩モードから一転、仕事モードへと変更になる。


「いらっしゃいませ、お好きな席へどうぞ」


 入ってきた男はどこか俯いていた。なんというか、やる気が見られない感じ。見ているだけで危なっかしいというか。

 そのままカウンターの席に腰掛ける男。

 男は溜息を吐いて、ふとメニューを探す素振りを見せる。

 俺は男の前に水の入ったコップとおしぼりを置いて、言った。


「ああ、ごめんなさい。このお店は『あなたが一番食べたいもの』を出すお店になっています。ですから、もう調理は始まっているんですよ」


「ふうん、そうですか」


 まるで心そこにあらず――そんな雰囲気を感じ取った。

 けれど客は客だ。冷静に対応せねばならない。

 そう思って俺は、いつものようにメリューさんのいる厨房へと向かった。

 厨房に向かうと、メリューさんは云々と何か考え事をしているようだった。火をつけていないところを見ると、まだ調理は始まっていないらしい。……メリューさんにしては珍しい。


「メリューさん、どうなさったんですか?」


 俺の声を聞いて踵を返すメリューさん。


「……ああ、ケイタか。いや、ちょっとな……」


「料理が思いつかないとか?」


「そんなことは無い。既にいくつかのパターンは完成している。あとは調理すればいいだけだ」


「それなら、料理を作ってくださいよ。そう時間もかけられないでしょう」


「解っている……。解っているのだが、ちょっとな。あの少年、何かおかしいとは思わないか?」


 それを聞いて俺は首を傾げる。

 まあ、おかしいというか――ちょっと暗いかな、って感じはあるが。


「おかしいんだよ。どう見ても。他人を嫌っている感じがする」


「そうか?」


「そうだよ。入った時の俯いた表情、席に座ってからの溜息、メニューを探す動作、恐る恐る君に声をかけたこと……どれも当てはまる。『他人を嫌っている』というのは少々言い過ぎかもしれないが、少なくともそれに近い何かはあると思う」


「それに近い何か……ね」


 俺はよく解らなかった。まあ、同じ人間だと解らないことが多いのかもしれない。ドラゴンと人間という異なる種族同士だからこそ、見えてくるものもあるのだろう。たぶん、きっと。適当なことを言っただけだが。

 さて。

 それじゃ、どうすればいいだろうか。

 メリューさんが停滞期に入っているとのことだから、僕としてもどうにかする必要があるだろう。

 実際問題、メリューさんが料理を作らなくては何も始まらない。なぜならここは料理を提供する場所だからだ。


「決めた」


 メリューさんは目を瞑っていたが――そう言って、目を開けた。


「どうしました?」


 俺はメリューさんに問いかける。


「ケイタ、あなた時間を稼いでもらっていい? 出来れば、十分程度。コーヒーをサービスで出していいから」


「もし、コーヒーを嫌いだといったら?」


「それ以外でも構わない。とにかく、彼の行動をもう少し吟味したいのよ。彼には何かある。私の勘が、そう囁くのよ」


 そう言って俺の後をついていくメリューさん。……まさかほんとうに見に行くというのか? とはいえ、飲み物なんて希望を聞かないと解らない気がするけれど。年齢が若く見えることもあるし、コーヒーを一概に好きだとは言えなさそうだし。


「どうぞ」


 取りあえず先ずはコーヒーで様子を見ることにした。

 少年の前にコーヒーを差し出すと、少年はそんなもの注文していないと言いたげな表情を浮かべて――正確に言えば疑問を浮かべているように見える――目を丸くさせていた。

 俺はその質問を予測していたので、すらすらと用意してあった答えを述べていく。


「サービスですよ、お気になさらず。……もしかして、コーヒーが苦手でしたか? でしたら、別の飲み物に変更することも可能ですが」

「いえ。大丈夫です」


 必要最低限のことしか言わなかった。

 そして少年は目の前にあるミルクとシュガースティックをそれぞれ一個(シュガースティックの場合は一本と数えるので、一概に一個とは言えないが)取って、それをコーヒーに入れる。スプーンも目の前に置かれているのでそれを取って混ぜ合わせる。一面の黒に垂らされる一筋の白と結晶の堆積物がスプーンによって黒と混ざり合っていく。

 そう時間もかからないうちに、コーヒーは濃い茶色へと変化を遂げる。


「いただきます」


 静かに、聞こえるか聞こえないか解らないくらい微かな声で彼は言った。

 そしてコーヒーを一口啜った。

 ふと、厨房を眺めるとメリューさんの姿は無い。……まさか、さっきのやり取りだけで何かを見出したというのか?

 まあ、メリューさんの問題が解決したのならばそれでいい。あとは料理が出来上がるのを待つだけだ。そう思って、俺は先程洗っていた皿を拭き始めた。





 メリューさんが食事を持ってきたのはそれから十分後のことだった。因みにその間少年は一言も発さず店の中を散策するでもなく俺に料理が来ない旨文句を言うでもなくただじっと待っていた。時折水を飲んでいたので定期的に水を注いでいたくらいで、俺も何もしていない。実に手間のかからない客――と言うと非常に言い過ぎかもしれないが、まさにそうだった。

 メリューさんが持ってきた料理はカレーライスだった。十分で充分おいしいカレーライスを作ることが出来るのだから、メリューさんはやはりすごい。というか、あの厨房の場所だけ時間軸が違うんだと思う。そうじゃないと説明がつかないくらい、メリューさんは調理が早い。異常に早い。

 メリューさんは少年の前にカレーライスを置いた。


「あの」


 少年は言った。

 それを見て、メリューさんはニコリ、と笑みを浮かべる。


「どうぞ、それがきっと、あなたの食べたかったものだと思うから」


 そう言われて何も言えなくなった少年。

 ぱくり、と少年はカレーライスを一口頬張った。

 最初は無表情だった少年だが、そのまま二口、三口と食べ進めていく。

 そして徐々に少年の顔に笑みが生まれてくる。

 そのまま少年は最後まで食べ終えると、笑顔を浮かべて、メリューさんの方を向いた。


「あの……とても美味しかったです」


「そうでしょう? なにせ何十年も煮込んでいるからね」


 それって鰻屋のタレか?

 少なくともカレーに使う表現じゃないと思うのだが……。


「ああ、そうだ。おせっかいかもしれないけれど、一言言わせてもらうわね」


 メリューさんが少年の食べ終わった皿を回収して、言った。


「何でしょう」


 少年はご満悦、といった様子だった。このまま帰ってしまえばもう満足だろう。


「今、あなたはヤマアラシのジレンマになっているのよ。自分と他人、どちらを取ればいいのか困っているのだと思う。けれど、自分の道を進めばいいの。自分の信じた道を進みなさい。そしてその先に答えがあるわ」


「……ありがとうございます」


 どうやらそれだけで状況を理解したらしく――少年は小さく頭を下げた。


「また何かあったらここにいらっしゃい。なんどでも美味しいものを作ってあげる」


「ええ、また来ます」


 そして少年は笑顔で店を後にした。



 ◇◇◇



「それにしてもよくあの子がヤマアラシのジレンマを抱えている、って解りましたね?」


「細かい仕草を見ていれば、何となく解るものよ。それに、あの子、きっと他人を理解したくなかったのだと思う」


 他人の理解を拒否した?


「自己の境界を定めることを優先して、自己の境界を保護することを優先して、他人の理解を拒否したのよ。あの結果がそれ。きっとうまくいって無かったのだと思う。だから私が一言言ってあげた。美味しいごはんを食べれば、そういう付き合いもうまくいく、ってこと」


「魔法でも込めたんですか」


「強ち間違っちゃいないかもね」


 そう言ってメリューさんは厨房の奥に消えた。

 残された俺はカレーを作るために使われた調理器具を見て、少しだけげんなりするのだった。

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