「やめておきなよ」
そう言ったのは、黒猫の横に立つ猫耳の青年だ。落ち着いた雰囲気を思わせる眼鏡の向こうの瞳は、静かに京助を見下ろしている。
「……何者だ」
「そうだね、
「尻尾がないようだが?」
「いいじゃないか、細かいことは」
猫又と名乗った男は、京助の前に降り立つ。
「お前が、この結界を張ったのか」
「そうだよ。僕は猫が好きでね……人が猫を愛する気持ちから生まれた精霊だからね」
悪霊がネガティブな執着や思い出から生まれたものだとすれば、精霊はポジティブな側面から生じるものだ。
「なら、交渉をさせてくれ。この結界に迷い込んだ人間がいるはずだ。それを解放してほしい」
「ん? ああ……全員死んだよ。あの子が食べちゃった」
会話をしつつ、京助はヘリの照準を相手に定める。
「ここは猫のための空間だよ。人間はいらない」
「……なら、お前は悪霊だ。祓う」
「いいのかな? 友達を殺してしまうよ?」
相棒の首元に刃が突きつけられる。マチェーテを握る手に力が入る。京助は、深く息を吐いた。
「何が望みだ」
「僕は猫と暮らしていたい。人間に関わってほしくないんだよ」
「なら結界にその条件を加えればいい」
「でもねえ、僕も生まれたばかりなんだ。教えてくれないか? 結界を操作する方法を」
話していながらも、彼は虚獄を展開する算段をつけていた。恐らくこの結界は半径五十メートルに及ぶ異空間を生成している。
「何か考えているね。無駄なことだよ」
「……俺が結界術を教えれば、これ以上の被害を出さないと約束できるか」
十五人。喪われた命。
「二度と僕に関わらないのなら」
「……いいだろう」
ヴィジョンを消そうとした京助。だが、永良が叫んだ。
「俺犬派だけどさあ!」
猫又はあからさまにムッとした。
「猫だって好きだ! ここに入った時、猫がいっぱいいて嬉しかった! なんで人間を殺しちまうんだよ!」
だが、彼は、大きめの目を見開いて高揚を見せた。
「同類だ……」
口の端を吊り上げ、そう言う。すると黒猫は永良を放り投げた。数メートルの落下も何のその、彼は身軽に着地した。
「君! 名前は!」
猫又はそんな彼に駆け寄り、手を取った。
「小鳥遊永良」
「君に限って、この空間への出入りを認めようじゃないか。僕等は同じだからね」
からのハグ。何もわからない彼はされるがままだった。
「そこのいけ好かない男は出禁だ」
「でもさ、十五人殺した分の償いはしてくれよ」
下顎を出して、猫又は変顔めいて不機嫌さを表現した。
「ま、友人の言うことなら仕方ないか。いいよ、必要があれば僕の結界を使うといい」
その指が鳴らされると、場所は落ち着いた雰囲気のカフェに移った。猫又はオーナー面してコーヒーを淹れている。
「ゆっくりしていくといい。ここは時間が流れていないからね、いくら過ごしても外に出たらそのままさ」
いつの間にかカウンター席に座っていた永良と、店の外で扉を開けようと四苦八苦している京助。
「よくわかんねえけど、もしこの結界の用になる時、何か必要になったりするか?」
「そうだね……無償でやるのが君の言う『償い』になるのかな」
出されたコーヒーの不味さに声を出しそうになった永良だが、今は仲良くすることが必要だと考えて口にはしなかった。
「それで、同じってどういうことだよ」
「わからないのかい? 魂が二つあるんだよ、君も、僕も」
◆
「──報告は受理した」
小路の隊長室で、永良と京助は彼に報告書を確認してもらっていた。
「内部で時間が経過しない結界……昔読んだ漫画にそういうものがあったな。心と時間の部屋、だったか」
その口から漫画というワードが出てくることに、永良は少し驚いた。
「この結界、何かと便利に使えるだろう。よくやった」
「いやそんな……」
「強力なカードだ。存分に使うとしようか」
小路が立つ。
「下がっていい」
京助は部屋を去るが、もう片方は残った。
「どうした、何かあるのか?」
「……猫又──結界の持ち主と話したんすよ」
「そうだな、そう書いてある」
「そいつが、俺に魂が二つある、って」
幾らかの間、沈黙が横たわった。その中で、小路は少し隈ができた目で少年を眺めていた。待って、待って、漸く出た言葉は
「よくわからんな」
というものだった。
「わからない、って……」
「魂を認識する、と言っても全てが見通せるわけじゃない。輪郭をぼんやりと認識していると、勝手にダメージが魂に響くだけだ」
わからん、と永良は言ってしまいたくなる。
「だから、もし魂が二つあったとして、それが密接に組み合わさっていれば、俺からは一つに見える。二つの魂の切れ目が見えるわけではないんだ」
少しずつ飲み込めてくる。
「つまり、わからない、と」
「そういうことだ。しかし、魂と肉体は、精神回路の起点となる魂の座と呼ばれるパーツで繋がっているとされている。この座は一人に一つだ。よって、複数の魂が一つの器に入り込んだとして、定着できる魂も一つ。かなり高い次元で融合しているのかもしれないな」
「えっと……」
「一つに見えるほどくっついている、ということだ。精霊や悪霊は人間とは違う視界を持つと言うが……面白い」
何やら楽し気な素振りを見せる小路。何が楽しいのかと訝る永良。
「しかし、だ。魂が二つある人間というのは俺も見たことがない。できることなら暫く観察としたいが……そうも言っていられん」
神出鬼没なテロリストと埒外悪霊の存在が、常に頭の中で一定の領域を占めている。それは、二人に共通していた。
「もし違和感を覚えたらすぐに言え。お前は死ぬには若すぎる」
「うっす」
「護衛に戻っていい。よくやったな」
自分の価値というものを認めてもらった気がした永良は、笑顔を隠しながら部屋を出た。
小路は机の上の霊話機を取る。
「郭、話がある」
呼ばれた郭は、魔力で動く車椅子に乗ってやってきた。
「どのような御用ですか? この完全無欠美女、手稀郭の頭脳が必要ということは、それはそれは重要なことなのでしょうが──」
「複数の魂を持った人間の事例を集めてくれ」
「……なるほど?」
白い肌の彼女は、僅かに表情を歪めた。
「永良が何者かの魂を宿している。任務に支障が出る以前に、命の危機になる可能性がないか調べておきたい」
「わたくしの知る限り、殆ど例がありません。時間がかかるかもしれませんよ」
「その僅かな情報でいい。あいつを早死にさせたくないんだ」
その必死さに驚いた彼女の眼が、数度瞬きをする。
「そこまでご執心とは思いませんでした。わかりました、魂を研究している知り合いがいますから、頼ってみることといたします」
「助かる」
深く頭を下げた小路に、もう少し攻められないかと思い立った彼女は、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もちろん、タダで、とはいきませんよ」
「手当は出させる」
「いえいえ、お金ではないのです。若草を買ってきてくださいな」
「現物支給か?」
それを聞いた彼女の口から、ケラケラとした笑いが出る。
「何がおかしい」
「いえいえ、真面目くさって言うものですから。お願い、しかと引き受けました。三日以内に結果をご覧に入れましょう」
「ありがとう。無理をさせるな」
「無理? わたくしに限ってそんなことはありません。銃を撃ったり刀を振るったりしない分は、幾らでも働きますよ」
郭も去った部屋で、彼は手元に視線を落とす。一人で全てを救うことはできない。だから仲間が必要だ。人への頼り方を練習してきたつもりだが、生来の硬さのようなものは抜けなかった。
そんな彼を置いて、事態は動き出していた。