「あ、起きた」
病院に運び込まれた永良が聞いた最初の声は、それだった。個室のベッドの横には風花が座っている。窓の外では夕立。
「……杉林は?」
「外」
特に痛みもない肉体を起こして、自分の弱さを恨む。
「白鳥が治してくれたのか?」
「うん。間さんには怒られちゃったけど」
「助けてもらって図々しいかもしれねえけど……なんかデメリットあったりする?」
彼女が首を横に振るので、永良は安堵の一息を吐く。
「実はさ」
と風花が俯きながら口を開いた。
「怖かったんだ。あんなに血を流して、意識までなくなって……間に合わなかったかも、って。でも、生きてた。ありがとう」
「ありがとう、って……感謝するのはこっちだよ。白鳥がいなきゃ死んでた」
風花のヴィジョンは、飽くまで肉体の時間を巻き戻すのみ。魂が抜けた肉体に能力を行使しても、綺麗な死体が出来上がるだけだ。
「白鳥ってさ、そのヴィジョンで金儲けようとか、考えたことある? みんな欲しがるだろ、そんな力」
「私が戻せるのは一日二時間分だけ。魔力が多いわけじゃないから。おじいさんを高校生にするのは、無理だよ」
「なんか安心したよ」
「安心?」
彼は夕立から目を逸らしながら、後頭部を掻く。
「なんつーか、人を不老不死にできるのかと思ってたからさ。でも、そうじゃなくて……ちょっと便利なだけだ。だから安心した。遠くない、って思えた」
空いていた左手を、風花はそっと掴む。
「私、みんなの力になりたい。守られてるだけじゃなくて、私もみんなを守りたい」
「……ホントにデメリットないんだよな?」
「ないってば。小鳥遊くんも、杉林くんも、他のみんなも、絶対に死なせない」
死、というものを彼は初めて意識した。常に自分が傷つき斃れる以上に、約束を破ってしまうことを恐れていた。『頼む』の一言に乗せられた思いが、彼を動かしている。
「杉林にもお礼しねえとな。とはいえ、あいつ馬鹿みたいに食うんだよな……」
柔らかい微笑みを風花が見せる。
「んだよ」
「もう明日のこと考えてるの、おかしいなって。死ぬかどうかのところにいたのに」
「昨日ばっかり見ててもしょうがねえしな」
彼はサイドテーブルの上にある携帯電話を触る──も、魔力が切れていた。
携帯電話も魔力で動く。赫天石という魔力を蓄積する鉱石を動力として、そこから魔力を取り出す抽出器、魔導式を刻み込んだコアから成る。動力を内側に持つ、所謂内蔵型だ。
「チャージしなきゃね」
風花は鞄から黒色の四角い物体を取り出す。魔力を充填したチャージャーだ。
「サンキュ」
と言って永良はその上に電話を置く。ポン、という音と共に魔力の転送が始まった。だが、すぐに扉がノックされる。
「白鳥さん、お時間です」
顔を出した看護婦がそう言った。
「これ、今度返してね」
「オッケー。んじゃ」
引き戸が閉じる直前、小さく手が振られるのを彼は見た。返すこともできず、少しばかり、京助に嫉妬する。
それから医者が来るまで、然したる時間はなかった。スキャン機に通され、全身を透視される。その結果を見て、医者は頷いた。
「明日にでも退院できます。しかし、SMTというのは凄いですね。これほどの精度の医療魔術……治療された痕跡すら残っていない。まるで時間を巻き戻したようだ」
知らず知らずのうちに核心に触れていたその男に対し、永良は苦笑いで応じる。
「どうしました?」
「いや、何も」
相手が得心したかどうかは置いておいて、彼は病室に戻る。軽く体を動かして関節を伸ばすと、その痛みのないことに驚く。
(ホントに時間が戻ったんだな……)
血が足りない感覚もない。数分間とはいえ寿命が延びたその得体の知れない恐ろしさのようなものに、僅かだが震える。雨が降っている。もっと晴れ晴れしい気持ちになりたかった。
横になるには活力が漲っていてどうしよう、という彼の意識に答えるようにスマートフォンが振動した。
「起きたってな」
「リョウさん」
「……今からでも、SMTから離れるって選択肢はないのかい? 入院なんかしてしまって……」
「大丈夫だって。俺……いや、なんでもない」
頭の中を過ぎていく、『殺さなければならない奴がいる』という言葉。そんなことを言ってしまえば──つまり、殺しの世界にリョウを引きずり込んでしまえば、それだけで自分は大きな足場を喪うように思えたのだ。
「まあ、なんだ。元気ならそれでいいんだ」
落ち込む性癖を持った人間ではないが、死にかけたことは彼の心に小さくない影を落としている。
「待ってるよ。帰るときは適当に肉を買ってきてくれ」
「自分で行きなよ。どうせカプヌーばっかりなんでしょ」
「こりゃ痛い。わかった、適当に買っておくから、帰って来たら焼肉にしよう」
「最高」
彼が病室を出たのは、次の朝のことだった。
◆
「つまらない報告だね」
御出間夫妻の報告を電話越しに受けた慈我は、冷たい声でそう言った。
「子供一人殺しきれないのかい? 失望させないでくれ」
「大変申し訳ございません。次こそは……」
新狼は深く頭を下げながら言う。
「次、か」
そこで慈我はブランデーを一杯飲み干した。
「次があると思っていたのかい? 僕が君に情けをかけると確信していたと?」
「い、いえ! そういうわけでは……」
「フフ、まあいいよ。でも、虹川が持ってる『アレ』だって限りがある。だから、虹川に送るよ。二週間分だ。それで決着をつけるんだ」
「誠に申し訳ございません。この失態、小鳥遊の首を以て取り戻させていただきます」
「よく休むんだよ。おやすみ」
「おやすみなさいませ」
電話を置いた慈我は、深く溜息。
「全く、ままならないね……」
上質な黒革の椅子に沈み込みながら、赤く染まった東京を眺めてそう零す。
(永良、か。大した紋は持っていないみたいだけど、タフネスには興味がある。引き抜けないかな)
決して折れない精神は、容易く得られるものではない。そういう環境に産まれてこなければ、決して手に入らない。故に、彼はそこに興味を抱いた。
(魔導式の抽出も、日変簑が慣れてきたから廃人になる可能性が低下している。いい紋を刻み込んで、利用できればそれがいいんだが)
そこまで考えて、彼は立ち上がり、再び電話を取った。
「もしもし、聖マリア病院だね?
強引な面会のねじ込みだ。それを、彼は金で実現している。
「ありがとう。今から行くよ」
オフィスを出れば、一人の女が扉の前に立っていた。
「行くよ、
腰まで届くプラチナブロンドに、病的に白い肌の彼女はこくりと頷いて彼の後ろを歩く。
「今度食事に行かないかい?」
「御意のままに」
「君はいつもそうだ。感情を発散したくなることはないのかい?」
「私は影です。影が意思を持つことはないでしょう」
師叉の顔は冷たいものだ。心など斬り捨てたような冷えた脳味噌で、眼鏡の奥にあるブラウンの瞳を動かしている。
スタイルとしては、モデル体型と言ったところだろうか。身長は百八十センチ近い。すれ違った男性社員に対し、露骨な蔑視を投げつけた。
エントランスから出れば、リムジンが待っていた。
「
木嵌
「ありがとう」
と言って彼は黒塗りの車に乗り込む。ベージュの内装だ。後部座席に座ってから、パーテーションに内蔵された冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、グラスに注いだ。二人分。
幾ら彼と雖も、飲酒しての面会は許されない。首都高に乗った車の中で、もうすぐ夜に飲まれる街を眺めた慈我は、隣の美女に視線の先を変えた。
二十分後、二人は積み木で遊ぶ少女を前にしていた。
「あー」
見た目としては小学生卒業間近、と言ったところ。その通りに十二歳だった。だが、その口から出るのは喃語のようなもの。三角の上に球を乗せようとして、何度も失敗していた。
「メプ」
慈我が孫を前にした爺めいた声で呼びかけると、その名前を辛うじて認識できる彼女は彼を見上げた。
「元気かい?」
「うー」
彼はしゃがんでその頭を撫でる。
「いつか君を治す方法を見つけるからね」
犬のような笑顔を見せた彼女は、
「あうー」
とだけ言って笑った。
他愛のない会話を続けた。しかし返ってくるのは呻いているのか喋っているのかわからない声だ。
「帰るとしようか。また会いに来るよ」
「だー」
車に戻った彼は、手早く電話を始める。
「日変簑かい? ……そう、抽出についてだ。メプのように廃人には……わかった。安定したんだね。なら、幸音を確保しても使い道があると。ありがとう。君のおかげで鴉達は危機を脱することができるようになった……気持ちばかりだが、振り込んでおいた。確認してくれ」
そうやって、夜が訪れた。