小路も、この長いキャリアの中で数え切れない死線を潜った。だが、加速を掛けた自分に追い付いてくる敵は殆ど会ったことがない。この歪火は、その一つ。
(こいつの魔導式は魔力の放出……それを内向きに作用させることで、身体能力を引き上げているのか?)
エネルギーの剣を弾きながら思考を回す。だが、単にそれだけで自身の加速についていけるとは思えないでいる。
(いや……元から肉体の限界値が高いのならば不可能ではない。それだけの魔力を消費し続けられる筈はない、と信じたいな)
地獄のような虚獄の中に、太陽の光が差し込んでいる。
(敢えて虚獄を完全に閉ざさず、外界から光を取り込んでいる……何故だ? ただそれだけのために複雑な魔力操作を行う理由はなんだ?)
結界にとって、全てを遮断することがニュートラルな状態だ。そこに通すものを後付け的に設定することで、結界は単なる壁とは違う性質を発揮する。しかし、多くの条件を付与することは、それだけ維持と制御に集中しなければならない。
虚獄は殊更だ。心象風景を直接投影し魔術師にとって最適な空間を構成することが、その基本。維持だけでかなりの魔力を要するそれに条件を付与するというのは、はっきり言って無茶だ。
(それを補って余りあるメリット……なんだ、考えろ!)
剣鉈の切っ先が歪火の腹を貫く。横に振り抜かれたその分厚い刃は、灼熱の中に緑の血を散らした。
「グイーヒッヒ……そろそろ時間だ」
虚獄は消え、紅く染まった幼稚園が帰ってくる。見たくもない、死体の数々。小路は唾を飲んだ。
「ほい、帰るよ」
上空から黒い翼の空劫が降りて、歪火を持ち上げる。穴だらけの天井からは、皮肉なほどに明るい光が差し込んでくる。
小路は鉈を消し、銃口を空劫に向ける。が、狙いをつける頃には射程外に出ていた。
「……俺の負け、か」
救えなかった数々の命。その一つ一つに、彼は祈りを捧げて回った。
◆
「昨日、第二幼稚園で大規模なテロが──」
「犠牲者は二十人に及び──」
「SMTが向かうも、実行犯である悪霊は──」
ニュースを吐き出すテレビは、鉈を投げられて沈黙する。ここは小路の自宅。平凡なアパートの平凡なワンLDKの一室で、平凡な魔導具が破壊されたのだ。
遮光カーテンが陽光を妨げ、窓台にはサボテン。リビングに置かれたソファの背凭れに、彼は全体重を預けていた。
(遺族に、どう向き合えばいいんだ)
非番だというのに、彼の頭の中は仕事のことしかなかった。あまりに多くの命が徒に消えた。それを取り戻すことはできない。ただ、無駄にならないよう己を戒めるばかり。だが、真っ黒な心は涙を流していた。
埒外悪霊は、通常の人間レベルにまで魔力を偽装できる。郭と話し合い、それはほぼ確定事項だと結論を出した。そうでなければ、虚獄の発動まで探知結界に引っ掛からなかった理由が説明できない。
しかし、同時にそれは自分たちが常に後手に回らなければならないということを意味する。これからも犠牲者は出る。その事実を受け止めて、彼は体を起こす。非番を返上して警戒任務に当たりたいほど。法律で決まっている休みだとしても、やはりそういう思いは抑えきれなかった。
立ち上がった彼は、冷蔵庫から上質な葡萄酒を取り出す。ワイングラスに注ぎ、一気に。味を楽しむことはできないが、兎に角飲み続けた。全てを忘れ去るために。
何杯呷ったろう。少し赤らんだ顔のまましゃがみ込んだ彼の目には、僅かなビイドロが浮かんでいた。そんな折、インターホンが鳴る。モニターを見れば、乙素。
「いやあ、酷い雨だった」
傘立てに傘を押し込みながら、彼は言う。
「何の用だ」
「別に。ただ、暇だったから来ただけだよ」
乙素は無遠慮にソファに腰掛け、猫背気味の姿勢を取る。
「……遺族とは話してきた」
「何と言っていた」
「もっと早く歪火を見つけられなかったのか、って言われたよ。それができりゃ苦労しねえってのに」
酒を見せた小路に対し、彼は首を横に振る。
「基地で保護した子供たちは家に帰った。当分は外に出すわけにもいかない。……嫌な話だよ」
「……埒外の行方は」
「三次元探知結界で調べたが、駄目だ。魔力反応を完全に消す方法を知ってやがる」
話を聞きながら、小路はアイスコーヒーを用意する。
「勇人も埒外と戦ったのだったな」
「ああ。紅骸だ。祓い切れなかったらしい」
グラスを渡し、彼は隣に座った。
「次があるかもしれん」
「そうだな。だが、止める手段がないだろ。魔力探知を潜り抜けられるなら、どうしたって手遅れになっちまう」
空気は澱んで肺を犯す。
「奴は、歪火は、俺たちとは桁違いの魔力を持っている。連続して虚獄を展開できるほどの……」
「でもやることは変わんねえよ。ぶっ潰すだけだ」
テーブルの上の、小さなグラス。
「供華はどうだった」
「殺し損ねた。転移の魔導具が厄介だ……どうにか起動を阻害出来りゃいいんだが」
「この町を覆ってる結界で、魔導具の使用を邪魔できないだろうか」
「そしたら都市機能が停止する。元も子もねえよ」
小路は、辞めた煙草を吸いたくなった。
「なあ、乙素。俺は、喪ってばかりだ」
乙素の細い指が彼の肩に置かれる。思い出すのは、二十年ほど前のこと。
◆
淡々と降る雨の中、風花と永良は信号が変わるのを待っていた。
「ごめんね、こんな買い物に付き合ってもらって」
シャープペンシルの芯を買うという、ただそれだけのことに永良は同行していた。
「気にすんなって。白鳥は何も悪くねえんだから」
「でも、小鳥遊くんだってやりたいことあるでしょ?」
「俺一人が我慢して白鳥が普通に暮らせるなら、俺はそれでいいよ」
そんな言葉を受け取って、彼女は相手の顔を直視できなくなった。縛り付けている、という罪悪感。
「そういや、あそこのパン屋、カレーパンが美味いんだよ。食べて行かね?」
落ち着いた構えの店を指差して、彼は言う。風花が頷く前に、手を取っていた。
「急ごうぜ。俺の勘だと、もうすぐ揚げたてが食えるからさ」
信号が青になった瞬間、走り出す。少し濡れたが、構わなかった。
店に入れば、香ばしい匂いが肺を満たす。嬉しい匂いだ。トングで今しがた揚げられたばかりのカレーパンを二つ乗せて、永良は手早く会計した。
「奢らなくなっていいのに」
飲食スペースの椅子に座って、風花が財布を取り出そうとしながら口にする。
「いいんだよ、俺はこうやってカッコつけたいだけだからさ」
不細工に笑う永良の眩しさが、彼女のくたびれた心の光になる。それを確認しながらパンに食らいつけば、油と同時にそれなりに辛いルーが広がる。
「……美味しいね」
「だろ? ここら辺通りかかったらリョウさんがいつも買ってくれたんだよ」
「リョウさんって、保護者の方だっけ」
「そうそう。滅多に外出ないけど。買い物は全部俺。それと……」
突然明かされた両親の死の真相が浮かんでくる。
「どうしたの?」
「……なんでもねえよ」
明るくない表情の二人は、淡々と茶色いそれを頬張った。驟雨は驟雨らしく降っている。ビニール袋に入った傘を机に立てかけて、遠くに見える青空がこっちに来ることを願っていた。
「迎えに来てもらう?」
永良が提案する。
「大丈夫。二人で帰ろ」
自身の心臓がひと際強く脈打ったように、彼は感じられた。黒い空を眺めているあの横顔。自分のものにできたらいいのに、という過剰な欲望を察知して、目を逸らす。
「杉林くんはどうしてるの?」
「あいつ? あいつは、基地で訓練だよ。結界の精度を上げるって言ってたな」
そこまで言って、彼は包み紙をくしゃくしゃに丸めた。
「あいつの支援を受けながら、俺が前に出る。そういう練習もする予定かな」
「仲良くなった、のかな」
「まあ……なんつーか、あいつ、致命的に言葉選びがダメなだけなんだよ。『だけ』って言うのも変だけどさ」
「言いたいことはわかるよ。でも、誰かを守りたいって気持ちは本当だと思う」
「そうだな。自分のやるべきことを、とにかくやり遂げようとしてる。そこは、俺も尊敬しなきゃいけない部分だ」
「うん。そろそろ行こっか」
風花の一言で、彼は外を見る。雨はいつの間にか過ぎ去っていた。店を出た二人の前に、同じ二人が現れる。