芯持学院。永良が属する市立の中高一貫校だ。S県抹香町の中心部に位置する。
抹香というのは粉末状の香のことだが、この場合は龍涎香を齎す抹香鯨を指す。港町であったここは、古くから捕鯨が盛んだった。国際情勢の変遷から今では鯨を捕る機会は少なくなったが、名前は雄弁に歴史を語る。
そんな抹香町は、現在衰退期にある。地方の宿命だ。人口が流出し、経済が停滞し、そしてそれが更なる流出を招く。だが、この町が弱っている理由はそこではない。
全国平均の三倍を超える、悪霊の発生件数。かつて神道において重要な社が存在したため、多くの神の魂が居ついており、そこから漏れ出た魂の力──要は魔力が悪霊を成しているのだ。
「つまり、俺らはその大量の悪霊と戦わないといけないってことっすか」
「そうだ」
隠れ家的ステーキハウス『天狗』にて。千グラムのステーキを切りながら、永良は言った。この場にいるのは彼に加え、京助、小路、風花だ。
「でも、全国平均の三倍ってのは知りませんでした」
「小学校の郷土史の時間にやっただろ」
割って入った京助に、彼は嫌な顔をする。京助は千五百グラムのステーキを前にしていた。
「だが、一つ言わせてくれ」
小路の唇は震えている。
「食い過ぎだ。俺だって高給取りじゃないんだぞ」
「でも奢ってくれるんすよね?」
「男に二言はない。が、後悔はある。次はないからな」
してやったり、といった笑顔を永良は未来の相棒に向けた。
「笑いかけんな。気色悪い」
「はい、わかった。俺とお前は一生仲良くやれない」
項垂れて頭を掻く小路。彼は五百グラムで充分だった。
「どうしてこう……うまくいかないのかね。同い年なんだろう? もっと流行りのアイドルの話でもしないか」
「今日日アイドルの話する若者なんていませんよ」
淡々と京助は受け流す。
「そうなのか? じゃあ、学校で何の話をするんだ」
「さあ……」
「京助はそうかもしれんな。中等部の頃から魔術科だものな」
米もサラダもなく肉をかっ食らう様子を眺めていると、小路は青春が懐かしくなる。最高の親友に恵まれ、最悪の悲劇に襲われたあの青春を。
「どうしました?」
咀嚼しながらの問いに、
「何でもないさ」
と彼は返した。
「隊長、ここで聞いていい話かどうかはわからないんですけど」
と永良は前置きをする。
「なんで白鳥を守らなきゃいけないんですか?」
その問いを受けて、小路は護衛対象と目を合わせ、頷いた。
「白鳥のヴィジョンを狙う者がいる。彼女の能力は……触れた相手の時間を巻き戻すというもの。記憶や魂はそのままに、肉体だけを若返らせるんだ」
「そりゃあ……みんな欲しくなりますよね」
「ああ。だが、その中でも突出して危険な者たちがいる。魔術師集団『クロウ』。東京を拠点とする奴らから逃れ、自分で言うのもなんだが実績のあるラビット小隊の庇護下に置くことで、安全を確保しようということだ」
永良は何度か首を縦に振った。
「悪霊が多いのに?」
「それを考えても、東京よりは安全ということだ」
納得できるような、できないような。だが、一先ず彼はその事実を受け入れることにした。
「その、クロウってのはどれくらいやばいんですか?」
「ヴィジョン所持者による軍隊だ。白鳥がここに来ていることはまだ掴まれていないはずだが……それもいつ露呈するかわからん。京助も、気を付けろよ。実戦経験は俺たち以上だ」
ゴクリ、彼は唾を飲んだ。そんな者に自分たちは勝てるのだろうか、という恐怖が生まれる。そうして、時間が過ぎて行った。
「ごちそうさまでした!」
苦い顔で金を払った上司に、彼は頭を下げた。
「白鳥を送ってやれ。それが今日の任務だ」
「うっす。それじゃ」
夜の町は静かで、時折見かける魔導車も音を立てずに走っている。
「小鳥遊くんさ、怖くないの?」
横断歩道の前で止まった時、風花が問う。
「何が?」
「悪霊とか、不良とかに立ち向かうの」
「うーん……それ以上に、約束を破るのが怖い」
「聞かせてよ、その約束のこと」
信号が変わる。
「そんなに話す内容もないよ。ただ、誰かの力で弱っていったあいつが最期の力で託したこのヴィジョンは……絶対に誰かの役に立てなきゃいけないんだ。勿論、俺が死なないってのも大事なんだけど」
首をねじ切られた女の子。京助がいなければ自分もああなっていた。そのことを感謝したいが、如何せんそれを素直に受け取ってくれそうにない。
(『感謝なんかすんじゃねえ、気持ち悪い』とか、言うんだろうな)
あの素っ気ない態度をどう崩すか。
風花の家までは、およそ三十分だった。取り立てて特徴のない、白い壁の建物だ。二階建て。窓からは明かりが漏れている。
「だいぶ暗いけど、帰れる?」
少女の質問に、永良は笑顔で答える。
「余裕だよ」
家の上で、小さな戦闘機が旋回して、飛び去って行った。
◆
「それで、
黒と銀を基調とした、超高層ビルの最上階にあるオフィス。大理石の机に背を向けて、上等な椅子に体を預けている男が嗄声でそう尋ねた。
「まだ掴めておりません。東京にいないことは確かです」
そう受け答えをしたのは、長い髪をオレンジ色に染めた女。隣には青い短髪の、ひょろっとした男が立っている。二人の薬指には、結婚指輪が。
「行くとすれば、どこだろうね。SMTは全国にいる……実績のある部隊もそれなりに。ああ、僕がクロウのトップだってことはバレないように動いてくれよ。こんな居心地のいい場所を離れたくないんでね」
「仰せのままに……」
二人は恭しく頭を下げる。
「
男の方が言う。
「ああ、もう二十時間が経過していたね」
慈我と呼ばれた彼奴は、立ち上がって二人の間に入った。白い仮面で顔全体を隠している彼から、蛇の目をした鬼が現れる。
「マインド・エデュケイション」
鬼が二人に触れた瞬間、彼らの体を筆舌に尽くしがたい快感が襲う。性交渉の何倍か、というほどだ。全身が打ち震えるような快楽の奔流に飲まれた二人は、膝をついた。
「君たちには抹香町に行ってもらおう。実戦形式の訓練だ。それに、興味深いものもあるしね」
「と、言いますと?」
「ここ数カ月、抹香町では悪霊の発生件数が跳ね上がっている。何かあるよ、あの町には」
ひとしきり波を乗り越え、体を持ち上げた夫婦は、要領を得ないでいた。
「こんなシナリオはどうだろう。悪霊を生み出す魔術が刻まれた魂が存在していて、今抹香町を襲おうとしている。SMTはそれを止めるために戦力を割き、間隙を生んでしまう。国防軍が治安出動するのなら……僕等に役目が回ってくるかもしれない」
彼の表向きの顔は、ウーデンウィザーディング、通称WWという民間軍事会社の社長。国防軍に魔術師を派遣して、業務に当たらせている。その利益を拡大するためなら、マッチポンプとて厭わない。
「いいねえ、悪霊を好きに生み出せれば、いくらだって金を稼げる。後は幸音さえ手に入れば完璧だ」
高笑いを始めた慈我は、しかし、すぐに咳き込んだ。
「そろそろ肉体の限界が来ている。早く幸音を連れてきてくれよ」
「……幸音、戸籍上は死んだことになっています。SMT本部の手でかなり高度な偽装が為されているとも」
男が俯き気味に告げた。
「だから? つべこべ言わずに手を動かしなよ。薬あげないよ?」
「申し訳ございません」
謝罪を受けた慈我は、ヴィジョンの手を、跪いて突き出された二人の手に重ねた。そこから白い錠剤が現れる。
「一週間分だ。その間に悪霊を発生させている原因と、幸音がいるかどうかを探ってくれ」
「い、一週間ですか」
二人は同時に口を開いていた。
「充分だろう?」
「……承知致しました。お任せください」
椅子に戻った慈我は、やはり彼らに背を見せて夜景を眺める。
「これはチャンスだ。君たちにとっても、僕にとっても、ね。君たちは特別な報酬を得られるし、僕は事業を拡大できるかもしれない。期待しているよ」
至って柔和な態度の老いた男はそれ以上の言葉を紡がない。
「失礼致します」
震える声で告げた二人は、部屋を出た。
「ねえ、
女が伴侶の名前を呼ぶ。
「私たち、大丈夫なのかな」
「いけるさ、
どちらからともなく顔を寄せ、唇を重ねた。