殴られた。
「オイオイ、ヒーロー様がそんな弱っちくていいのかよ」
灰色のシャツに、青いネクタイ。殴った側も、殴られた側も。そして、殴った側の背後にいる、どちらとも面識がない女子高生も。
「おい、財布出せよ」
殴った側はツーブロック。さっぱりとした面で、それに似つかわしくないドスの利いた声を出す。
「返すんだ」
永良は臆することなくそう言った。
「ハァ?」
「その子の財布、カツアゲしたんだろ。だから返せって言ってるんだ」
彼の顔にはすでに幾つもの痣がある。だが、その痛みを感じないかのようにキッとした表情を保っていた。
「あのなあ、オレは財布を貸してもらっただけだ。カツアゲなんてことはしてないぜ」
「見たぞ、お前があの子のネクタイを掴んだの」
「うざいんだよ、てめえ!」
立ち上がった彼の脇腹に、膝蹴りが刺さる。それでも。
「なんだよ、なんでそこまでするんだよ!」
ふらつきながらも立ち上がる永良を前に、不良もただただ困惑した。
「僕のことは知ってるだろ。だから返すんだ。今すぐに」
「ふ、ふざけやがって!」
彼は右拳を握り込む。それを腰だめに構えた。
「インヴィンシブル……」
心臓から光る小鳥が現れて右腕に止まる。すると、そこが光が包まれた。近づいてくる不良。
「ジャスティス!」
アッパーカットが相手を打ち上げた。空に舞う68キロの体。やがてそれは地面に落ちる。仰向けに倒れたまま、煙となって消滅し始めた不良から女物の財布を取り出し、少女に手渡した。
「怪我、してない?」
永良は少女に声をかける。そっと手を差し伸べる。
「君こそ、痛くないの?」
女子高生は、随分と美人だった。緑の黒髪、黒曜石のような瞳。どのパーツを切り取っても完璧だ。少し細長い目は、彼の心を穿つに足るものだった。
「……どうしたの?」
永良は知らず知らずのうちに見惚れていた。
「いやっ! 何でもない。早く行こう、遅刻するよ」
引き起こし、並ぶ。
「転校生?」
表通りに出たところで、彼はそう尋ねた。見ない顔だからだ。
「うん。
「同級生じゃん。俺、小鳥遊永良。よろしく」
聞く者を心地よくさせる、少し低めの声な彼女は柔らかく微笑んだ。
「どこから来たの?」
「東京」
「いいなあ、俺も東京行ってみたいよ。電車だってロクに走ってないんだから、ここは」
「電車がないの?」
「いや、えーっと……まだディーゼルってこと。ここら辺は鉄オタに聞いた方がいいかも。下手なこと言うと殺される」
そこまで話した時、パシャリ、とシャッター音が聞こえてきた。
「何、小鳥遊、カノジョできたの?」
話しかけてきたのは、愛嬌のある顔をした、明るい髪色の女子生徒。ピンク色のスマートフォンを片手に持っている。
「そういうんじゃない、偶々助けただけだよ」
彼女はニタリと笑って、走り出す。
「あ、おい、
追いかけよう、とした所で永良は風花のことを考えて立ち止まる。
「全く……」
「今の人は?」
「宝彩。同級生で、生徒会長だよ。頭はいいんだけど、ああいう色恋沙汰が大好き」
「一年で生徒会長って、あるのかな」
「現にそうなってる。ま、悪い奴じゃないからさ、仲良くしてやってよ」
クスリ、風花は笑う。
「何だよ」
「仲良くしてやって、って親みたい」
「そんなに変かなあ……」
重みのない会話を繰り返しながら学校に到着し、教室に入ると、盛大な冷やかしを受けた。男も女も、扉を取り囲むように二人を待ち構えていたのだ。
「女誑しの小鳥遊! 流石だねえ」
鼻の大きな男子が、机の上からそう言った。
「その痣、また喧嘩したのかよ!」
ゼリー飲料を片手に、浅黒い肌の男子が大声を出す。
「ああ、カツアゲやってる悪霊を一人祓ってやった」
ヒュウッ、と口笛が響く。人の漏れ出た魔力が、記憶や思い出と同化して実体化した存在。それが悪霊だ。永良が殴ったのは、金に執着する悪霊だった。が、人間なのか偽装した悪霊なのかは、見た目では区別できない。
「それで、その子を助けてやったのか?」
「そうそう。自己紹介しなよ」
「白鳥風花です。よろしく」
にこやかに名乗った瞬間、男子はシンと静かになった。誰もが、唐突な美女の到来に驚いたのだ。その静寂の中を突っ切る、紲の姿。
「宝彩紲。歓迎するわ」
求められた握手に、紲は応えない。
「写真、消してくれるなら握手するけど」
「困ったわね、消したくないの」
「じゃあ、お預けで」
紲が強引に手を引っ張ろうとしたタイミングで、追加の入場者。眼鏡をかけた、すらっとした青年だ。
「お前ら、席に着け。いつまで騒いでるんだ」
柔らかいマスクとは裏腹に、少し粗野な印象を与える口調。生徒たちは渋々己の席に座った。最後列の窓際、隣に空席がある場所が、永良のものだ。
「こんだけ騒いでるってことはわかってるか。転校生だ。小鳥遊、お前の隣でいいな。後、喧嘩の件で職員室に来るように」
黒いバインダーを教卓に置き、教師は欠伸をする。
「にくちゃん、彼女できた?」
女子がそんなことを言う。にくちゃん、というのは教師のあだ名だ。本名は
「うるせえ。関係ねえだろ」
切り揃えられた髪を掻き上げ、彼は口を開く。
「今日、登校中にカツアゲがあったらしい。気をつけろよ、できることなら一人で帰らないように。……って、何笑ってんだよ」
クスクスという笑い声と共に、生徒たちは永良に視線を向けていた。
「ああ、なるほどな。小鳥遊、ここで話しとくか。とりあえず、悪霊を祓ったことは褒めてやる。だが、緊急避難以外での祓いは違法だぞ。警察から話があるので、放課後呼び出すぞ」
「はいはい、わかったよ」
「ま、大事にはならねえよ。安心しろ」
自分は正しいことをした、と永良は確信していた。故に、事態が悪化することはないのだとも。しかし、そうではなかった。
「何してんの?」
「んー……まだ秘密」
そうして、一日が始まった。
◆
「未登録の魔術師、か」
コーヒーを飲みながら黒い服の男が、タブレット端末を見ながら呟いた。
「はい、三年前から散発的に祓魔を行っています。その身元を突き止めました。小鳥遊永良。芯持学院高等部一年一組。現在は十橋リョウという保護者と共に暮らしています」
白い肌で車椅子の美女がそう答えた。どこかの地下にある、モニターに囲まれた部屋だ。
「俺が行こう。もしかすると有望株かもしれん。京助に任せれば……確実に決裂する」
男の名前は
「こんな仕事に来たがる高校生なんていませんよ」
「おそらく、自分の力に拘りがある。多少迷いはするだろうが、少し脅かせば首を縦に振るだろう」
「全く……」
呆れた様子で女は言う。
「ヴィジョン使いは貴重だ……一人でも多く確保したい。京助と同い年というのもいい。あいつに人並のコミュニケーション能力をつけてやりたいからな」
「それに、白鳥風花のこともあるのでしょう?」
「ああ。彼女の近くで護衛ができる人材が欲しい。京助でもいいが、あいつ一人ではコミュニケーションに難がある」
「では、いってらっしゃいませ」
小路は地上に出た。燦々と降り注ぐ熱い陽光の中、パトカーに乗り込んだ。
◆
「小鳥遊永良くん、白鳥風花さん、二年三組教室に来てください」
全ての授業が終わった後、そんな放送が流れてくる。
二人はわかっていたという顔つきで向かった。ただ、少し話せば終わりだと思っていた。だが、空き教室に入れば、待っていたのは鍛え上げられた肉体を黒い服で覆い、太もものホルスターに短機関銃を納めた男だった。
「小鳥遊永良だな」
低い、腹の底に響くような声。威圧感のある面構えに似合ったものだ。
「な、何ですか」
「君は人とは違う力を持っている。違うか?」
「そうですけど……」
「それを、我々は『ヴィジョン』と呼んでいる。魂から発せられた魔力が、魂の刻印に応じて具現化した、
「知ってます。友人が魔術師でしたから」
「そうか。なら話は早い。君は、白鳥風花の人生に介入した。だから選べ。力を失うか、我々とともに来るか」
「失うって……?」
問うた彼に、男は椅子を勧める。
「俺は間小路。特殊魔術部隊……SMTの小隊長だ。魔術を使う犯罪者や悪霊を排除する役割を担っている。君のやったことは明確な違法祓魔であり、本来ならば罪に問われる。常習犯だからな、二度と魔術が扱えないようにしてしまってもいい。然るに、君にはそれを回避する手段がある。それが、SMTへの加入。魔術師と戦う道を選んでもらうことになる。白鳥風花のためにな」
「バーっと言われてよくわかんないですけど……白鳥を守れってことですか?」
「そうだ。命を投げ出してでもな」
永良は、背中を冷たいものが駆け抜けるような感覚に襲われる。
「時間をやろう。一週間だ。平凡な人間に戻るか。それとも、この少女のために命を賭けるか。よく考えることだ」
小路は立ち去ろうとする。その背中に、永良は
「……決めました」
と呼びかける。
「俺、この力を、
「即決か。面白い。歓迎しよう」
少し笑った小路と、彼は握手を交わす。
「だが、容易い道ではないぞ。いいんだな」
「喧嘩なら慣れてるんで」
しかし、彼は見てしまった。罪なき者の血が流れる瞬間を。命が散る様を。徒花の犠牲を。