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~第一章 赫いカナリア~ 四話 翡翠の瞳に映るもの

――メルちゃん、大丈夫。私たちはずっと一緒ですよ。もしもまた悪い夢に魘されて、眠れない夜がきたのなら……。怖い記憶を数えるよりも、楽しい約束を思い出してくださいね。また次の春が来たら、庭の花壇に新しい球根を植えましょう?ブラウ様も、ドリーさんも、アンナちゃんも一緒に。


……そうですね、アンナちゃんは太陽のような大輪のサニー・フラワー。メルちゃんは小粒で可愛いストロベリー・キャットが似合いそうです。

 私ですか?私は……うーん……。どの花がいいのでしょう。ついつい、自分のことを考えるのは後回しにしてしまうんです。でも、二人の傍に咲いても邪魔にならない花がいいですね。目立つのは、あんまり好きじゃないですから。

 ああ、そうだ。メルちゃんは、どんな花なら私に合うと思いますか?教えてください。私だって二人の隣で、そっと咲いていたいんですもの。



 最年長でしっかり者のアンナと、やや甘えん坊で純粋なメルティーユ。その間に挟まれて育ったナディは三人の仲を取り持つために、自然と気配り上手な少女に成長していった。しかし、それは蔦みどろの館で暮らす‶家族〟の中で、彼女が自分の居場所を作ろうと常に神経を張りつめていたにすぎない。

 ブラウに寵愛されているアンナより、自分がでしゃばってはいけない。尚且つ、一番年下でか弱いメルティーユよりは、強くならなくてはいけない。

 ナディは〝家族〟の中で自分の立場を確立させることを、第一優先に考えてきた。それが孤児だった彼女が考えた生きる手段であり、そうしなければ自分の存在理由を、認めることができないからだ。

――私はアンナちゃんのように賢く美しく、有能にはなれない。そしてメルちゃんのように愛らしく、素直でもいられない。

 ナディは容姿、内面、才能において、自分が平均的な存在だと幼くして察していた。だからこそ、周囲をよく観察し、細やかな変化に気づき、ブラウやドリーの顔色を窺いながら、品行方正な優等生として自分の立ち位置を確立したのだ。特に自分の保護者であるブラウには敬意を払い、とりわけ彼の要望を叶えるよう努めた。

「ナディ、お前は利口で誰よりも優しい子だ。これからもその優しさで、アンナとメルティーユを守ってやってほしい。とくにメルティーユは臆病で、脆いところがあるからね」

「もちろんです、ブラウ様。私にとって、二人は大切な姉妹ですから」

 ナディの密かな努力は、やがてブラウ本人に高く評価されるようになった。

また、彼女のコンプレックスである癖っ毛に対し「結んだらいい」と薦めたのはブラウであり、ナディはそれ以来ずっとおさげを続けている。自分の意志ではなく、全てブラウの不興を買わないためだ。アンナやメルティーユ以上に自我を抑え、慎ましい少女をひたむきに演じた。


「ナディってさぁ、大人しいよねー」

「それは、アンナちゃんが元気すぎなんですよ」

「なんか、欲がないっていうか……。欲しい物とかないの?アタシがブラウ様に、お願いしてあげよっか!何がいい?砂糖菓子の詰め合わせ?それとも、新しいドレス?」

「いいえ、とくには。お屋敷で生活できるだけで十分ですもの」

「そう?でもさー、ずっとイイ子のフリしてるのって、つまんなくない?」

「そ……そんな、フリだなんて」

「ははっ、ごめんってば。もー、そんな顔しないでよ。アタシもナディもメルも、みんな同じ必要なんてないんだし、ナディはイイ子でいたらいいと思う。その方が、アタシも安心するから」

「アンナちゃん……」

 生き延びるため自我を殺したナディとは違い、アンナは自らの機転と愛敬を利用し、ブラウに取り入ろうとしていた。純粋なメルティーユは知る由もなかったが、ナディは十を過ぎた頃から、ブラウとアンナに秘密があると理解していた。

 館に同居する三人の中で、アンナだけが特別扱いを受けている。

 アンナは専属の家庭教師だけでなく、ブラウに直接勉強をみてもらったり、彼の外出に付き合う日があった。


「私だけでは買い物の手が足りないからね。それに、アンナはお前やメルティーユの好みもよく理解している。嗜好品は男の私が選ぶより、アンナの見立てが合ったほうがいいだろう」

 以前、ナディが外出の件をブラウに質問すると、ブラウからは「アンナは物資補給の同行者」だと説明を受けた。しかし、ナディは直感的にそれが建前に過ぎないと察して、常々疑問を抱いてきたのだ。

 ――どうして、選ばれるのはアンナちゃんだけなんだろう。私だって、ブラウ様やドリーさんの言いつけを守っているのに……。誰よりも勉強をしているし、薬草や魔法石の知識だって、二人よりあるはずなのに。

 従順に見えるナディの心の奥底にも、自分を認めてもらいたいという欲求はあった。その欲や自我を抑えて「優等生」を貫いたのは、いつか自分が屋敷を追われ、捨てられるのではないかという不安があったからだ。


 自分の意思より‶家族〟の意思を尊重して生きて来た彼女が、最初にその違和感に気づいたのは、十七歳の誕生日を控えたとある晩のことだった。

「なんだか、寝付けませんね……」

 ナディは喉の渇きを感じ、自室の寝台から起き上がった。ベッドサイドの時計は深夜二時を指している。片手に魔法石の明かりをともしたランプを持ち廊下に出ると――、


「みゃう……」

「まあ、エル。いつもメルちゃんのお部屋で休んでいるのに。どうしたのでしょう?」

「みゃ、みゃあ」

「どうしたのかしら……?」

 猫のエルがナディの足元に擦り寄り、しきりに鳴き声を上げ始めた。エルはメルティーユにとくに懐いており、ナディやドリーも良く世話を焼くのだが、寝室まで付いてくることは稀だった。

 ナディは身を屈めてエルに声をかけたが、エルは突然、廊下の先へ駆け出して行ってしまった。突き当りには、ブラウの私室がある。

「エル?」

 なんとなく胸騒ぎを感じたナディは、エルの後ろを追いかけた。エルはブラウの部屋の扉の前に座り、ちらりとナディを振り返る。追いついたナディが足を止めると、室内から話し声が漏れ聴こえてきた。

「……ナディには、まだ兆しが見えていない、か……」

「しかし、兆しの発現は十八の歳までに起きるとされております。あと一年は猶予が――……」

「アンナは既に‶目醒めて〟いる。〝魔法複製人形(レプリカント)研究〟を完成させる為にも、我々は時間を無駄には――……」


「……え……?」


 不意に自分の名前が出たことで、ナディはビクリと身を竦めた。声の主の内、一人はブラウで間違いないが、相手に心当たりはなかった。

――今夜、ブラウ様に客人はいなかったはず。それなら、部屋の中にいるのは一体……?

 聞いてはいけないと理解しつつも、自分に関する話題となれば興味がそそられる。ナディはその場で暫し、聞き耳を立ててしまった。だが、その時。


「にゃあおん!」

「……っ」


 エルが不意に鳴き声を上げて、同時に部屋の扉が開かれた。瞬間、全身が凍り付いたナディに対し、ブラウは表情を変えずに小声で告げた。

「……ナディじゃないか、こんな夜更けにどうしたんだい?」

「あ……っ、その……。なかなか寝付けなくて、お水でも飲もうかと……。そうしたら、エルがブラウ様の部屋に向かったのを見つけて……。その」

 ブラウ様に怒られる……。もし不興を買ってしまったら、どうしよう――。

 焦りと恐怖で、思わず後退するナディ。すると、小刻みに震えるその肩をブラウが優しくぽんと叩いた。

「眠れないなら、ドリーに頼んでミックスハーブティーでも淹れて貰いなさい。ドリーは元々、お前たち三人の使用人なのだから、変に気を使わなくていい」

「……は、はい……。ありがとうございます……」

 盗み聞きを咎められると思っていたナディは、ブラウの言葉にほっと胸を撫でおろした。ぺこりと頭を下げてから、その場を立ち去ろうとすると、

「ナディ」

「はい」

 エルを抱き上げたブラウが、ナディの背中を呼び止めた。

「――何か、聞いたかい?」

「……。いいえ、私はなにも。さっき、ここに来たばかりですから……」

 背後から突き刺さる、鋭い視線に足が止まる。背筋に冷たい汗が流れるのを感じつつ、ナディは後ろを振り向かずに答えた。

「そうか。もしも何か耳に入ったとしても、お前たちには関係のない話だからね。忘れておきなさい」

 ブラウの声音は静かで、抑揚がない。だからこそ、ナディの緊張を掻き立てるには十分だった。

「はい……。失礼します」

 重圧に耐え、平静を装ったナディは、急ぎ足でその場を立ち去っていった。

――自分に関係する話題。聞いてはいけない秘密。‶十八歳まで〟や‶猶予〟などという、期限を暗示させるキーワード。

 心臓がばくばく脈打ち、ブラウの冷ややかな声がナディの耳に残っていた。この日以来、ナディはブラウへの疑念を抱き、周囲をより警戒するようになる。

とにかく、安心できる材料が欲しい。ブラウや家族を疑わず、この屋敷で平和に暮らしていけるだけの、確証を得たかった。


 しかし、この日感じた不吉な予感は、ナディの妹分であり親友のメルティーユが十八歳の誕生日を迎える夜――最悪の形で、具現化してしまうことになる。


「ドリー、なんだか元気ないよね……」

 朝食の豆のスープを啜りながら、メルティーユがぽそりと零した。屋敷のメイド、ドリーの顔色が曇り始めたのは、ここ一ヶ月ほどのことだ。彼女の変化には、洞察力の鋭いナディも当然気がついていた。

 だが、ナディはブラウから常々「ドリーは使用人だ。お前達が屋敷で不便なく暮らせるよう努めるのが仕事だ。余計な気を回すな」と、注意を受けていた為、必要以上の深入りはしていない。ブラウの指示を忠実に守るアンナも同様だ。最低限の関わりを保ち、決してブラウの掟は破らない。それがナディがこの屋敷で身に付けた知識だった。


 ――ブラウ様は、何かを隠している。重大な秘密を。私達を引き取って下さったのは、単なる善意なんかじゃない。


 ナディは、二年前の夜の一件を、昨日のことのように覚えていた。‶十八歳の誕生日〟を怖れながら過ごしたものの、彼女が危惧していたような危機は起こらず、例年通り宴の席が設けられた。

 しかし、無事に十九を迎えた今年、ナディは新たな不安の種を抱いていた。――同居人のアンナのことだ。

「もう。アンナもナディも、子供扱いしないでよ。わたしだって、もうすぐ十八歳になるんだから」

「はいはい。誕生日ね、忘れてないよ」

 この日は、三日後にメルティーユの誕生日を控えていた。ナディとアンナは密かにメルティーユへの贈り物をすると決めており、朝食の後にアンナの部屋で相談する予定になっていた。

 だが、約束の時間丁度にナディが部屋を訪ねても、室内からは何の反応も返ってこなかった。

「アンナちゃん?」

 心配になったナディが廊下から声をかけると、

「……う、く……ぁ」

「アンナちゃん……?どうしたの、大丈夫ですか?」

 微かに呻き声が漏れていたので、ナディは再度ドアを叩いた。しかし、やはり苦し気な声が聴こえるのみで、アンナの返答はない。慌ててドアノブを回すと施錠していなかったのか、すんなりとドアが開いた。

「アンナちゃん!」

 ナディは様子のおかしいアンナに近づいた。彼女はベッドサイドに蹲り、ぐったりとしている。背中を丸め、ぶつぶつと低く呟いていた。

「しっかりして……。具合が悪いのなら、今ドリーさんを呼んできますね……?」

「やめろ……ッ!」

「……え……っ?」

 だが、ナディが助けを呼ぼうとした途端、アンナは血相を変えナディの腕を掴んできた。

「いた……っ、は、離して……!」

「誰にも言うなッ、黙っていろ……ッ」

「お願い、落ち着いて……アンナちゃん……っ」

「余計な真似をしたら、貴様をコロス――……ッ、殺……して、ヤル……ッ」

「……!?」

 正面きって暴言を浴びせられると、ナディはゾクリと全身を震わせた。――飢えた獣のような瞳には、普段のアンナと同一人物とは思えない禍々しい狂気が宿っている。目が合った瞬間に、殺気で凍り付きそうだった。

「グ……ッ、ああァ……ッ!?」

 アンナは奇声を上げたかと思えば、今度は胸を抑えてもがき苦しみ出した。ナディは尻餅をついた態勢で、ずるずると後退する。恐怖で腰が抜けてしまい、即座に逃げ出すことができなかった。


 ――なにが起きているの?どうして、アンナちゃんはこんなことに……。


 先ほどの朝食の席では、昨日までと変わった様子はなかった。メルティーユと軽口を叩き合って笑いつつ、いつも場を盛り上げてくれる。ナディがよく知っている、あの明るいアンナだった。 


「……ふぅ……、はぁ……、はぁ……」

 ナディがドアの前まで後退した時、アンナは上体をゆっくり起こし、振り乱した髪をかき上げながらナディを見た。

「あ、アンナちゃん……?」

 視線からは、先ほどの強烈な敵意は消えている。ナディはまだ怯えつつも、その場から立ち上がった。

「ごめん、ナディ。びっくりさせたよね?……ちょっと、朝ごはんの後、体調が悪くなってさー……。あはは」

「……」

 呼吸が落ち着いたアンナは、元通りの笑顔を浮かべている。しかし、ナディはすぐに答えることができなかった。

「メルに贈る、プレゼントの件だよね?向こうで話そうよ。テーブルに、お茶菓子用意してあるから」

 一歩、ナディに向かって踏み出したアンナ。ナディは後ろ手にドアノブを掴んだまま、顔を引きつらせて言った。

「ねえ、アンナちゃん。体調が悪いって言いましたけれど……。それは、ドリーさんやブラウ様も知っているのですか?」

「え、ブラウ様は知ってるよ?症状を抑える薬を調合してくれたのも、ブラウ様なんだから」

「……ブラウ様が?」

「そうそう。時々ブラウ様の部屋で、診てもらってるんだよ!だから、全然心配ないって」

 ナディの背中を、生ぬるい汗が流れ落ちていった。アンナ本人は「体調が悪い」と説明したが、ナディには到底そう思えない。まるで人格そのものが変貌したような、狂暴な態度に凶悪な目つき。そして、一直線に向けられたおぞましい敵意――。

「ただの体調不良には、見えなかったんです。アンナちゃん、覚えていらっしゃいますか?」

「ん?何を?」

「先ほどのアンナちゃんは、言葉づかいも振る舞いも別人のようでしたよ」

「えっ、そうなんだー?あー、もしも変なことしちゃってたらごめん!症状が出ると、なんか意識が曖昧になっちゃうっていうか……。いつもは食後に薬飲めば、収まるんだけどね」

「……」

「怖がらせてごめん」と素直に謝るアンナは、いつも通りの様子だった。彼女が嘘を吐いてるとは思えない。しかし、単なる病気と言われてもナディには腑に落ちない。

「あの、アンナちゃん。すみませんが、相談は明日にしませんか?今日はアンナちゃんも、ゆっくり休まれた方が良いと思います……」

「んー……。メルの誕生日までまだ時間あるしね、そうしよっか。アタシも今夜もう一回、ブラウ様に相談してみるよ。ナディとかメルを、あんまり驚かせたくないからさ」

「は、はい……。ゆっくり休んでくださいね」

 ナディは逃げるように、アンナの部屋を後にした。

廊下を引き返している間も、鼓動が早鐘を打っている。それくらい、アンナの変化は常軌を逸したものだった。

「ブラウ様は、アンナちゃんに何を……?」

 ブラウが三人の中でとりわけアンナを贔屓していたのは事実であり、彼女がブラウの自室を出入りしているのは知っている。それが、あの病が原因だとすれば――……。ナディは嫌な予感を感じていた。


――しっかり、確かめなくては。疑心暗鬼のままでは、メルちゃんの誕生日を安心して祝うなんてできない。


 ナディは胸の前で両手を合わせ、必死に震える自分を勇気づけた。そして、一つ深く深呼吸をすると、前を見つめて再び歩き出した。



 うららかな日差しが、花壇の植物をやわらかく照らしている。

――淡い蕾が膨らんで、次々と花開く。甘酸っぱい期待とほんの少しの不安で、胸が切なくなる始まりの季節。メルちゃんには、春が似合う。ナディはそんなことを、ふと思った。

 アンナの一件の後、ナディはブラウが戻るのを待っていたが、先にメルティーユがブラウと庭に出ているようだった。寄り添い歩くブラウとメルティーユは、親子のようにも、年の離れた兄妹のようにも見えた。

 ブラウは優しく紳士的で、決してメルティーユを傷つけることは言わないだろう。

けれど、そこはかとなく不穏な空気を感じ、ナディは目が離せなかった。声をかけることもできず、ただ自室の窓辺から二人を覗き見るに留めた。

「どうか、このまま、何も変わりませんように……。メルちゃんには、幸せになってもらいたいから……」

 メルティーユとブラウが会話を終えて屋敷に戻ると、ナディはすぐにブラウの部屋を訪ねた。緊張はしていたものの、アンナの件を放ってはおけず、ブラウの口から真実を聞き出さずにはいられなかった。


「入りなさい」

「は、はい。ごめんなさい、ブラウ様。どうしても、教えていただきたいことがあって……」

「お前が私を訪ねるのは珍しいな。そんなに畏まらなくていい」

 ブラウはデスク前の椅子に腰かけ、羽ペン型の磨製道具(ソーサラーツール)で、無数の書類にサインしていた。 術者の意思に反応し、自動書記で文字を綴る道具らしい。ナディも磨製道具や魔法について一般知識は学んだが、ブラウが実際に操る姿を見る機会はそれほど多くはなかった。

 緊迫したムードが漂う中、ナディはテーブルの前のソファに腰を下ろす。羽ペンはふわりと浮き上がり、自動的にスタンドに収まっていた。


「さあ、話してごらん」

「あの、ブラウ様」

 ブラウは紅茶の用意を終えてから、ナディの正面に座った。ナディは用意されたカップと茶菓子には手をつけず、意を決して本題に入る。

「すみません、アンナちゃんのことなんです。……その、アンナちゃんが病気だと聞きました。どういった病気なのでしょうか?」

「……アンナ本人から聞いたのか?」

 アンナと‶病気“の件を訊ねると、先ほどまで穏やかだったブラウの表情が僅かに曇った。それは、洞察力の鋭いナディでなければ見逃す程の微細な変化だ。タブーであることは承知の上で、ナディは続けた。

「アンナちゃんが苦しんでいるのを、私が勝手に見てしまっただけです。アンナちゃんも誰も、悪くはありません……」

「そうか……。お前は本当に仲間想いだね、ナディ」

「……い、いいえ。そんな」

「アンナが心配で、私の元に来たということか。しかし、それを知ってどうするつもりかな?」 

「え?」

 ブラウはソーサーを手に取ると、カップを口元へ運び紅茶を啜った。

「あれは、医師でも治癒師(ヒーラー)でも、どうすることも出来ない性分なんだ。せいぜい薬で症状を緩和するくらいしか手段がない」

「それじゃあ、治すことは……できないんですか?」

――性分?あれは、病気ではないの?

 ナディは目を丸くしてブラウを見つめた。ブラウは口端を吊り上げ、困ったような微笑を浮かべる。

「ああ、いわゆる一般的な病とは異なるからね。あの子は‶兆し”の副反応によって、苦しんでいるんだよ」

「兆し……」

 刹那、ナディの体にぶわっと鳥肌がたつ。その言葉はずっと、ナディの頭の片隅で引っかかっている謎だった。

「なにも難しく捉える必要はない。兆しとは、魔法を操る素質の発現のことだ」

「魔法を使うための、特別な才能ですか?」

「簡単に言えば、そうなるだろうね」

 人間は元々生まれながらにして、魔法を使える素質を持つ者と、持たざる者に分別される。それはナディも知識として知っていたが、十八歳になるまでにその‶兆し”がない場合、生涯魔法の素質が顕現することはないらしい。

「では、アンナちゃんには魔術師の素質があって、その力が目覚めたせいで、苦しんでいるのですか……?」

 ブラウは頷き、神妙な面持ちで続けた。

「稀に自分の持つ力をコントロールできず、あのように抵抗が生じる者が現れるんだ。ナディは初めて見たから、驚いただろう?しかし、心配はいらない。あの子はもう十五の歳からずっと、あの症状と闘っているのだからね」

「えっ?そんなに、前から……?」

 アンナは、三人の中で最年長の二十一歳。もうすでに五年以上も‶兆し”の副反応に苦しんでいるということになる。ナディが驚愕の視線を向けると、ブラウは一つ息を吐いた。

「年々抵抗が強くなっているから、薬の量を増やして対処していた。しかし、もし改善が見込めないなら、調合に関しても見直す必要があるだろうね」

「……そう、なんですね」

 ブラウは魔法の才能を兆しと述べたが、ナディの胸にはまだ釈然としないものがあった。答えのでない違和感が胸中を渦巻いている。


 ナディは、孤児だった。貧しい村同士の戦乱に巻き込まれ、廃屋の中で震えているところをブラウの一味に保護されて同居が始まったのだ。幼くして生死の境目を彷徨い、人間の醜い紛争に巻き込まれて育ったナディは、人よりも直感に優れ、他者の感情や思考を読み取る能力に長けていた。

「いずれにせよ、お前が気にすることはないんだよ、ナディ」

「……はい……。ブラウ様がそう仰るのなら、アンナちゃんのことはお任せいたします」

 ナディはそれきり、追及する勇気を砕かれてしまった。有無を言わせぬブラウの圧力に、本能的に危険を感じとったからだ。


「失礼いたします」

 深々と頭を下げてから、ブラウの部屋を後にしようとする。すると、その背にブラウの声がかかった。

「――ナディ。胸の奥から、言葉が聴こえたことはないかい?」

「……?いえ、なんのことでしょうか……?」

「いや、ないのなら構わない。さあ、戻りなさい。もうじき家庭教師が館に来る時間だろう。魔法史の教材を用意して自室で待っておいで」

「……は、はい」

 ――ナディは、ブラウを振り返ることができなかった。胸の奥の言葉。何を意味するのかは分からないが、それがアンナの病と関係があるのだと、容易に察しがついたからだ。


 ナディはブラウに微かな怯えを抱きながらも、日々を淡々と過ごしていった。言われた通りのスケジュールで学問をこなし、指示された薬草採取を済ませ、花壇の世話やドリーの手伝いを完璧にこなしていった。

 幸いにも、あれ以来アンナの様子がおかしくなることはなく、ナディは密かに安堵していた。今日は、メルティーユの誕生日当日。アンナとドリー、そしてナディの三人で、厨房で夕食のメニューと食堂の準備を整えている。

 そして、全ての用意が予定通り進行し、いよいよ誕生日パーティが迫った夕方十八時過ぎ。ドリーがメルティーユの様子を見に行った後、ナディとアンナは二人でサプライズプレゼントの相談を始めた。

 厨房内はメルティーユの好物のクリームスープ、若鳥のグリル、チーズとハーブのサラダとラズベリーティーが用意され、食欲をそそる良い香りで満ちている。


「メルちゃん、喜んでくれるといいですね」

「あははっ、むしろ感激して欲しいくらい。準備は大変だったけど、ハーブはブラウ様の許可を取ったし、チョコレートもドリーのおかげでバッチリだったし。あの子、甘いものに目がないからね」

 二人がメルティーユに用意したプレゼントは、手作りのショコラケーキだった。濃厚なチョコレートソースと、メルティーユが大好きなドライフルーツやハーブをあしらい、生クリームをたっぷり飾って仕上げている。二人とも菓子作りの経験はあるのだが、日常で食べるクッキーばかり焼いてきたので、本格的なホールケーキに挑戦したのはこれが初めてのことだった。

 これまで誕生日会にケーキが登場しなかったのは、ブラウがケーキよりパイやタルトを好むと全員知っていたためだ。ブラウ本人は「気にしなくていい」と言ったが、館の主人が同席すれば、無意識に気を使ってしまうのも当然だ。おまけに料理を手伝うドリーがブラウの使用人のため、発言権を持たなかった。そのため、毎年家族の誕生日は華やかなフルーツタルトで祝うのが恒例になっていた。

 だが、今年はメルティーユにサプライズをしたいと思ったナディがアンナに提案し、相談の結果、初のケーキ作りが実現したのだった。

「きっと、ビックリするでしょうね。ふふっ」

「メルは今年もフルーツタルトだと思ってるだろうからね!」

 二人は瞳をきらめかせながら、うっとりと完成したホールケーキを見つめていた。

妹分のメルティーユが喜ぶ顔を思い浮かべると、ナディの頬は思わず緩んだ。つい最近までアンナの様子とブラウの態度が気になり落ち着かない夜もあったが、今のナディはこの後のパーティの歓喜を想い、胸が高鳴っている。

――良かった。アンナちゃん元気そう。兆しとか病気のことは分からないけれど、きっとブラウ様のお薬で良くなったんですよね……。

 つい先日のアンナの異変は、白昼夢か幻だったのではないか……と、ナディが思い始めていた時。その希望的観測が瞬時に打ち砕かれた。


「……うっ……!」

「え……?あ、アンナちゃん……!?」


 アンナが、突然呻き声を上げてその場に蹲った。自分の手で胸元を抑え、額には大粒の脂汗が浮きあがっている。

「具合が悪いんですか……?しっかり……」

「はぁ……はぁ……。グッ、ああぁ……ッ」

 ナディが傍に寄り、そっと彼女の背中を撫でる。だが、アンナは苦悶の表情を浮かべたまま、喉を振り絞って言った。

「逃げ……て、ナディ……。アタシ、から……ッ、はや……く……」

「……なっ?」

「いいから、逃げて……ッ、アタシは……ッ!……あァアッ、やめて……!!もう、アタシの頭を、かき回さないでェッ……!」

 その瞬間、どくんとナディの心臓が飛び跳ねた。……同じだ。あの時と同じ目をしている。アンナが体調を崩した日、彼女は明らかに〝普通〟ではなかった。ナディの脳裏には生々しく、アンナに嬲り殺される未来がよぎった。

 友を救いたい思いよりも恐怖心が勝り、その場をすぐに飛び退くナディ。アンナは辛うじて意識があるようだが、床に倒れて奇声を発しながら、激しくのたうち回っていた。ナディは顔面蒼白で厨房を飛び出し、食堂へ駆け込む。とにかくドリーにこのことを報せよう、一刻も早く逃げよう。その一心だった。だが、しかし――、


「――殺す……。コロス……ッ!」

「……っ」


 ナディを追ってきたアンナは、低く抑揚のない声で叫んだ。ついさっきまで苦しんでいたとは思えないほど、凶悪な殺気を放っている。

「あ、アンナちゃん……。お願い、正気に戻って……!」

 ナディはじりじりと後退りしながら、必死にアンナに呼びかけた。ブラウの言葉を信じて。一時的な症状なら、きっと自我を取り戻せると願って。

 けれど、アンナの瞳からはとうに〝彼女の色〟が消え失せていた。快活で優しい光が、淀んだ敵意に変わっている。ナディが感じとったのは「今のアンナには別のナニかが宿っている」ということだけだった。

「死ねェッ!!!」

「きゃあ……っ?」


 次の瞬間、ナディの体は宙高く浮かび上がり、勢いよくテーブルへと叩きつけられた。

「――……」

 突然の襲撃に、ナディ自身も何が起きたか分からない。反射さえできなかった。アンナに対して身構えた途端、一陣の風が頬を掠めたと思った時には、既にナディは宙に浮き、為す術なくテーブルに叩きつけられた後だったのだから。

「ごほっ、けほ……っ、う、う……」

 衝撃で何度も咽るナディ。苦痛のあまりに身じろぎもできなかった。その間も、アンナは攻撃の手を緩めない。悶え苦しむナディを睨んでひとつ手を振り上げれば、アンナの周囲につむじ風が集結した。


――あれは、あの未知の力は……。まさか、魔法?


 ナディがやっと上体を起こすと、アンナが操る風の刃が一斉に襲来した。

「きゃ……っ」

 いつ飛んでくるか分からない光速の凶器を、生身の少女が防げるはずもない。かまいたちはナディのドレスを裂き、肌をむごたらしく傷つけた。痛みと恐怖でナディはテーブルを転がり落ちるがその度に体が浮遊し、風刃に切り裂かれてしまう。

 魔法によって切り刻まれる一秒間が、永遠のように長く感じられた。ナディは次第に朦朧とする意識の中で、メルティーユのことを想っていた。


 ――メルちゃんだけは、助けたい。メルちゃんがこんな風に、傷つけられるところは見たくない。だって、あの子は……アンナちゃんが大好きだから。お姉さんのように慕っているアンナちゃんが、こんな風になってしまったと知ったら……。きっと泣いてしまう。


 もう何度目か分からないほど体を打ちつけられながら、ナディは力をふり絞りその場を立ち上がった。その間もアンナはただ、黒く歪んだ眼差しでナディを睨みつけるだけだ。苦痛を押し殺しつつ、ナディは変わり果てた家族を見つめ懇願した。

「アンナちゃん……。どうか、聞いて下さい。本当のあなたを思い出して……。メルちゃんのこと、ドリーさんのこと。私たち、家族でしょう?あなたは、家族に……こんな酷いことをできる人じゃない。誰かを傷つける人じゃ、ない……。たとえ、どんな事情があっても……!」

「うるさい……、黙れ――……うるさい……ッ!」

「アンナ、ちゃん……」 

 アンナは忌々しそうに眉根を寄せ、歯ぎしりをしながらナディの元へ近づいてきた。一歩、また一歩と、床を踏み鳴らす音が響く。ナディは全身の痛みと恐怖で一歩も動けなかったが、アンナは構わずナディの胸倉をつかみ上げた。

「……っ、く……。やめて、アンナちゃ……」

「黙れ……!!」

 ギリギリと締め上げられ、ナディは息が止まりそうだった。けれど目線だけは逸らさず、今この場で殺されても構わない覚悟を決め言葉を投げ続ける。

「お願い、今のアンナちゃんは、アンナちゃんじゃ、ありません……っ。私とメルちゃんが大好きな……本当のあなたを、……思い出し、て……っ」

「……くッ……アッ、オノレ――!」

 すると、アンナの両腕から力が不意に抜け落ちた。ナディは好機を逃さず、なんとか拘束を解き再び床に倒れ込む。アンナはくぐもった呻きを上げ、ふらふらと後ずさりした。

「うっ、ナディ……。今すぐアタシを、殺して……。メルが来る前に、早く……っ」

 驚いたナディがアンナを見上げると、彼女は両手で自分の頭を押さえつけながら見悶えていた。――アンナの理性が、戻りかけている。そう確信したナディは、力の入らない体に鞭を打ち、必死に声を張り上げた。

「そんなこと、できません……。アンナちゃんを、殺すなんて……。お願いします、元のアンナちゃんに、戻って……!」

「違う……。アタシはもう、ナディやメルが知っているアンナじゃないんだ……。アタシの中には、アイツが、いるの……。だから、アタシがアタシでなくなる前に……ッ、アァッ、グ……ッ」

「――……アンナちゃん……」

 次の瞬間、アンナの顔がくしゃりと潰れ、黒く澄んだ右目から一筋涙が伝うのをナディは見た。しかし、左の目は対照的に、真紅に血塗られている。まるでアンナの左半身に、悪魔が棲んでいるかのようだ。そして、ナディがなんとか半身を起こそうとした時。

「あはははっ、相変わらずのいい子ぶりっこだねェ、ナディ!だからアンタはいっつも三番手なんだよ!魔法の才能もブラウ様の期待も、最年少のメルに叶いやしない!」

「……っ?」

「兆しがなけりゃ、魔術師(ウィザード)にもなれないよね。こんな風にアタシに始末されて当然の、愚鈍な無能ってコトだよ……!」

 暴言と共にナディを見下し嘲笑するのは、紛れもなくアンナだった。しかし、口調や表情が普段通りでも、隠しきれない敵意と憎悪が全身から滲み出ている。

 先ほどの獰猛さがなりを潜めたと感じても、〝これ〟はアンナではなく全くの別人だ。ナディは即座に異変を感じ取った。

――もう、アンナちゃんはどこにもいない……。この症状を予め知っていたブラウ様は、全て理解していたんだ。魔術師の兆しが現れたアンナちゃんを、何かに利用するために。

 現実がただ残酷で、ナディは床に寝そべったまま無力を噛みしめるしかなかった。胸が悲しみで軋み、血液が滴る度に翡翠の目から涙が溢れる。

「家族のよしみとして、せめて楽に死なせてあげる。精々、大人しくおネンネしてなよ。あはっ、アハハハ……ッ!」

 これが最期なのかもしれない。別れを悟ったナディの脳裏に、メルティーユの笑顔がよぎった。

「……メルちゃん……」


 ごめんね。お誕生日、みんなで祝ってあげられなくて。メルちゃんにとって、なによりも幸せな記念日にしたかった。アンナちゃんと二人で作ったケーキを、食べているあなたの顔が見たかった。本当はもっともっと、たくさん話したいことがあったのに。これからさきもずっと。来年も、再来年もみんなで――……。


「ごめん、ね……」


 乾いた唇を動かしメルティーユへ謝罪を残すと、ナディの重くなる瞼は閉ざされ、意識は闇に沈んでいった。



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