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~第一章 赫いカナリア~ 三話 邂逅と記憶の扉

 ――メルティーユが目蓋を開くと、そこは全体に靄がかった、見覚えのない林間だった。

「う……。ここ、は……?」

 地面に倒れているはずなのに、土の湿った感触も緑の匂いも感じられない。頭は鉛のように重く、上半身を起こして手足を動かしても現実感が希薄だった。

 それは、目の前の映像は虚構で、自分がスクリーンを覗き込む傍観者のような感覚に近い。

 よくよく確認してみれば、メルティーユはドリーに着付けてもらったドレスを着ておらず、袖なしの麻のワンピースと、底の擦り減った革靴を履いていた。普段より視点が低く、視野も狭まっている点に気づく。

 ――背が縮んだ?……ううん、体が子供に戻ったみたい。

違和感を感じたメルティーユは、自分の指で両頬を思い切りつまんでみた。

「……いひゃく、ない……?」

 視界全体がぼやけて現実感がないばかりか、触覚も消えている。これが夢だとするならば、自分が子供に変化してもおかしくないだろう。もやもやする頭をフル回転させ、メルティーユはこれまでの記憶を振り返った。


「……っ、ナディと、アンナは……?」


 先程まで、蔦みどろの館でアンナと命懸けの〝かくれんぼ〟の真っ最中だったはず。意識が覚醒すると、メルティーユの全身にぶわっと鳥肌が走った。ブラウの部屋にあった無数の本棚と、その裏に隠されていた謎の紅い光――。扉に吸い込まれたところまでの記憶はあるが、その後自分がどうなったのか、アンナやドリーがどうしているのか、全く思い出せなかった。

 周囲をぐるりと見渡すと、一面背の高い木々に覆われた獣道が続いているようだ。ただし、屋敷付近のあの森とは違う。蔦みどろの館への帰り道はメルティーユも把握しているが、目にする植物の種類や、目印にしていた大木の切り株も近辺には見当たらなかった。

 なぜ意識を失ったかは不明だが、今は一刻も早く目が覚めることを祈るしかない。メルティーユは獣道の前方を見据えると、ゆっくり起き上がった。と、その時――。

「グルルル……ッ」

「……!?」

 背後の木立がガサガサと揺れ、低い唸り声が響いた。同時に禍々しい殺気がメルティーユを襲い、踏み出した足がぴたりと止まる。振り返らずとも、気配でソレが〝良くないモノ〟だと察した。冷や汗が一筋、メルティーユのうなじを流れ落ちる。

――逃げなくちゃ、やられる――!

震える膝を叱りつけ、強張った脚を一歩前へと動かした瞬間。


「グ……ッ、ガアアアッ……!!」

「ひゃあ……!?」


 メルティーユが走り出すより早く、飢えた獣が草陰から飛び出し、彼女の背中を襲撃した。地面に両膝をついて倒れ込んだメルティーユは、生々しい息遣いと恐怖に身を固くし、衝撃に備える。すると、


「――……失せろ、雑魚犬」

「グアアァ……ッ」

「え……?」


 硬直したメルティーユのすぐ真横を、一陣の風が颯爽と駆け抜けていった。

音もなく獣の正面に立ちはだかった人影が、一振り、また一振りと剣を振り翳した。その残像は目で追うこともできず、瞬きの速度で獣を切り刻んでいく。

 血肉が飛び散る生々しい音に耳を塞ぎ、メルティーユが唇を噛んでいる間に、獣は細切れに切断されて原型を失っていた。血なまぐさい臭いに胸が詰まり、メルティーユは口元を押さえる。

「……うぅ……」

「お前は……?」

 まだ事態を呑み込めないメルティーユは尻餅をついたまま、じりじり後退りした。謎の男性は細い刀身の片手剣を二本構え、それをくるくる器用に回すと腰元の鞘に収めた。 

「何故、こんな所にいる?――お前は一体、何者だ?」

「……っ、わたし、は……」


 ――頭が、痛い。意識が……遠くなる。


 フードで表情が見えない黒ずくめの男の威圧感と、得体のしれない状況化での精神的負荷に耐えきれず、メルティーユはそのまま意識を手放してしまったのだった。



 チカチカ光るランプに瞼を照らされ、次にメルティーユが目を覚ました時。そこは先ほどの深い森ではなく、柔らかい寝台の上だった。


「え……っ?」

「気がつかれましたか……?だいぶ魘されていましたね。この状況では、無理もないかもしれません……。謝って済むことではないと承知しておりますが……、メルティーユ様、本当に……申し訳ありません」

「……っ、ドリー……!?」


 ここは、蔦みどろの館と比較にならない、こじんまりした小屋の中。意識を取り戻したメルティーユの傍らに居たのはなんと、屋敷で行方不明になったメイドのドリーだった。

「本当に、ドリーなの?わたし……っ、イタッ……」

「メルティーユ様、まだ起き上がってはなりません」

「どういうこと……?森で起きたことや、あの獣は夢じゃなかったの?」

 頭の痛みに耐えながら起き上がると、先刻とは異なり自分が〝元〟に戻ったことに、メルティーユは気がついた。衣装は館で着ていた真紅のドレス。痛覚を含めた五感も復活しており、曖昧な浮遊感は消えていた。

――間違いなく、これは‶現実〟だ。メルティーユは混乱する思考を抑え「全部話して!」と、ドリーに懇願した。

「もちろん、お話いたします。こうなってしまったのは、私にも責任がありますから……」

 神妙に目を伏せたドリーは、落ち着いた口調で語り始める。

「まず、ここはブラウ様のお屋敷がある森の中ではございません。ミラディア王国の王都・ラパンから北西にある、旅人小屋の一つです」

「王都ラパン?」

「ええ。メルティーユ様はお屋敷を出たことがありませんから、王都のことは名前しか知らなかったでしょう」

「うん……」

 蔦みどろの館で外出ができたのは、ブラウの従者であるドリーとアンナだけだった。アンナはブラウの指示に従い共に王都に出向き、必要な物資の買い出しに同行したと聞いている。

「どうして、わたしは王都の近くにいたの……?」

「メルティーユ様は、地下室の扉を使ったのでしょう。あの扉は、ブラウ様の力によって特殊な魔法術式(スペル)を施されたもの。特定の指定地点へ、対象を移動させる魔法です」

 ドリーの説明によると、ブラウは安全に王都付近に移動するため‶転送〟魔法を度々用いていたらしい。

「……ドリーがお屋敷からいなくなったのは、この扉を使って移動していたから?」

「はい、そうです。地下室の魔法扉を知っていたのは、ブラウ様と私のみです」

「アンナ、は?」

 メルティーユは、別人のように変貌したアンナと傷ついたナディを思い浮かべ、顔を歪めた。ドリーは小さく首を振った。

「アンナ様も、ご存知ないはずです。ブラウ様が‶他の者に扉の存在は伏せる〟と仰っていましたから。しかし、今となってはどこまであの方を信じていいのか、私にも分かりませんが……。もう、かつてのブラウ様は、どこにも――」

「え……?」

 ――ドリーの琥珀の瞳は、ランプを映し揺らめいていた。張りつめた空気に包まれ、メルティーユの胸がざわめく。しかし、これ以上はメルティーユも黙ってはいられなかった。

「聞いて、ドリー。アンナが魔法で、わたしとナディを襲ってきたの……!」

 屋敷での事件をドリーに説明すると、ドリーは顔色を変えずに頷くだけだった。

「ねえ、ドリーは全部知っていたの?アンナが魔法を使えることも……。この先、何が起こるのかも……。知っていて、だから一人でお屋敷を出たの……?」

「……申し訳ありません、メルティーユ様……」

「どうして……っ!」

 どうして教えてくれなかったの。メルティーユは講義の意を込め、ベッドサイドの椅子に座るドリーの肩を力任せに揺すぶった。先が見えない不安。自分だけが取り残された不信感が、メルティーユの苛立ちと焦燥を募らせる。

「ねえっ、教えてよ、ドリー!わたしたち、もうお屋敷に戻れないの……?昔みたいに、一緒にはいられないの?」

 堰を切って溢れる感情をセーブできず、メルティーユはナディを涙目で睨みつけ肩を叩き続けた。すると、その時。

「なんだ。そいつ、目が覚めたのか」

「はい……。レオナルド様のおかげで、大きな怪我もありません。メルティーユ様を守って下り、ありがとうございます」

「――様はやめろって言っただろうが、ウザッてぇ……。レオでいい」

 レオナルドと呼ばれた青年が、急に室内に入って来た。メルティーユが驚いてドリーから離れると、彼は漆黒の外套を脱ぎ捨て長椅子に放り投げた。

「あなたは、森で会った人……?」

「フン。覚えていたか。魔獣の出没する森で昼寝とは良いご身分だな。俺があの場に居合わせなけりゃ、今頃お前はここにはいない」

「メルティーユ様。レオナルド様が、メルティーユ様を運んでくださったのです」

 ドリーの捕捉によると、レオナルドが森でメルティーユを保護したのは事実のようだ。

「……それじゃあ、あれは夢じゃなかった……?」

 五感を失い一時的に子供に変化した状態を、メルティーユは夢だと思い込んでいた。しかし、それをドリーに説明しても、彼女は首を振るばかりだった。

「記憶の混濁で、フラッシュバックが引き起こされたんだろ。幻覚だ」

 レオナルドは大げさに溜息を吐き、目深に被ったフードを下ろした。銀の前髪から覗く切れ長の目と視線が交わり、メルティーユはどきりとする。彼の双眸は、深海を思わせる深い青色をしていた。

「フラッシュバック……」

「過去に負った心的外傷が原因で、記憶が呼び起こされる現象だ。当時の感情や記憶が蘇り苦痛を感じたり、人によって身体的感覚や現実感を失うこともある」

 青年の冷静な説明は、メルティーの胸を突き刺した。心臓は早鐘を打ち、額からは汗が滲む。……失われた過去を取り戻して、自分を知りたい。そう強く望むと同時に、メルティーユの心を脅かす原因もまた、他ならぬ記憶そのものだ。

「お前の事情は、ドリーから一部聞いた。そんなにあのクソ野郎の屋敷に帰りたいのか?」

「ナディと、ペットのエルを置いてきてしまったんです。それに、わたしはアンナの本心も、ブラウ様のことも、何も知らない」

「本気か……?お前は自分がされたことを、理解してないのか?そのアンナって女に、殺されかけたんだろ。戻ったら和解できる、また平和なお屋敷生活に戻れるなんて、マジで思ってるのか?……おめでたいな」

 ベッドサイドに立ったレオナルドに詰問され、その威圧感にメルティーユは身を竦めた。緊張感に震える手首を抑えつつ、なんとか唇を開く。

「わたしの居場所は……。家族は、あのお屋敷のみんなだけだったんです」

 あまりにも急に日常が崩れ去り、メルティーユの心の整理は追いついていない。アンナを信じられないと思う反面、もう一度家族で暮らしたいと願う気持ちがあるのは事実だった。震えるメルティーユを見たドリーは、そっと腕を伸ばし細い肩を抱き寄せた。

「レオナルド様。メルティーユ様を責めないで下さい。一人であの館を脱出されたのなら、お辛い思いをしたと思います。ですから、落ち着くまでは、どうか……」

「……別に、問い詰めてないだろ。意見を述べたまでのことだ。明日の朝にはここを出る。そのつもりでいろ、ドリー」

「はい」

 ドリーの胸に顔を埋めて、メルティーユは嗚咽を漏らした。すすり泣くメルティーユの背を摩りつつ、ドリーは彼女が落ち着くまでじっと傍に付き添うのだった。


 そこここで虫の合唱が始まり、夜風に揺れる木々の葉が擦れ合う音が聴こえる。

小屋の外には星空が広がり、ぱちぱちと焚火の炎が燃えていた。体調が回復したメルティーユは、外の空気を吸うために小屋の前に出ていた。

 火の番をしているのは、レオナルドだ。

彼の視線は焚火に注がれているのに、振る舞いに隙が全く無い。扉の前に立ったメルティーユは、レオナルドの放つ殺気に気圧され、その場を動けずにいた。

と、メルティーユに気づいたレオナルドが、顔を上げずに切り出した。

「決心はできたのか」

「……さっきは、ごめんなさい。泣いたりして。ドリーから聞きました。二人が、王都に出発するって」

「ああ。お前は、どうする」

「え?」

「あのクソ屋敷に、帰りたいのかと聞いているんだ」

 レオナルドはメルティーユと視線を合わさず、小枝を火に投げながら、淡々と質問を投げかけた。

「わたしは……」

 メルティーユは、ぎゅっとボレロの胸元を押さえる。目蓋を閉じれば、お屋敷での十四年間がありありと蘇った。アンナ、ナディ、ドリー、エル。そして、ブラウと家族として過ごした日々だけが、彼女の世界の全てだった。管理された軟禁生活に辟易はしていたものの、どこかでこの生活は決して崩壊しない、絶対的な平和だと盲目的に信じてきた。

「温室育ちのお嬢さんは、まだ現実が見えちゃいないだろうが――……。外の世界には絶対も、不変もない。そんなモノは幻だ」

「……」

 火花が激しく弾ける音と、レオナルドの低い声だけが静寂の中に響く。長い沈黙からメルティーユの迷いを察した彼は、切り株から腰を上げて言った。

「俺は選択肢を提示してやった。ここで引き返すのか、俺たちと王都に行くのか。一度外に出た以上、誰もお前の手綱は握っちゃくれない。どうしたいのかは、自分で決めろ」

「……っ」


 ――必要な時が来れば、必ず思い出せる。だから、自分を追い詰めることはない。お前はここに居ればいい。

 それが、ブラウがいつも、メルティーユに言い聞かせていた言葉だった。その優しさと環境に甘え、十八の誕生日に必ず「真実を話す」と約束したブラウを信頼し、いつしか自分の意志で判断する自由さえ、メルティーユは忘れていた。

――怖い。生まれて初めて、自分の決断が未来を左右する段階になって、メルティーユは計り知れない重圧に怯えていた。

「はァ……。こりゃあ、思った以上に深刻だな……。十四年も監禁されると、人間こうなるのかよ……。イイから、思ったことを言え」

 レオナルドは大仰に溜息を吐いて、乱雑に後ろ頭をかいている。メルティーユは勇気を振り絞り、緊張で震える手を背中に隠しながら言った。

「ひとつだけ、お願いがあります。わたしがここに来てから何が起きたか、ぜんぶ教えて下さい。今、蔦みどろの館が、どうなっているのか……。アンナやナディのことも、レオナルドさんが知っている範囲でいいので、お願い、します」

「……それを知って、どうするつもりだ?」

「きちんと考えて、この先のことを決めたいんです」

 ドリーの説明を聞いたメルティーユは、館を脱出してから既に一晩経った事実を知った。その間に、アンナやナディ、ブラウに動きがあったはず。ただ逃亡するのではなく‶家族〟に何が起きたのか、真相を知りたかった。

 レオナルドはメルティーユを見定め、暫し黙してから告げた。

「いいだろう。ただし、そこまで言った以上、ピーピー喚かず結果を受け止めると約束しろ。それができるなら、教えてやる」

「……は、はい。ありがとうございます」

 レオナルドの許可を得て、メルティーユの全身からすっと力が抜けていった。握りしめた手のひらには、爪の痕がくっきり残っている。それは、メルティーユが蔦みどろの館の人間以外に初めて、自分の意志を主張した瞬間だった。


 レオナルドは「蔦みどろの館を見せてやる」と約束したが「現場に行く」ではなく「見せる」というその言葉に、メルティーユは引っかかりを感じていた。けれど、他に行く当ても頼る人もない立場である以上、提案に乗るより術はない。一旦小屋に戻り再びベッドに潜り込むと、心身の疲労もあって、すぐに眠りに落ちたのだった。


「レオナルド様」

「……あ?何だ、まだ寝てなかったのかよ」

「メルティーユ様に、蔦みどろの館のことをお伝えになるのですか?」


 夜も更け、日付が変わる頃。メルティーユが熟睡したのを確認してから、ドリーは小屋の外に出た。火の番をするレオナルドは、微動だにせずドリーに返す。

「黙っていても、いずれ分かることだろ。もうあのクソ館の役目は終わったんだからな」

「……はい……」

「本来なら、お前の口から伝えるべきじゃねぇのか」

「……ですが、今はメルティーユ様も混乱なさっているようですし、アンナ様やナディ様の件も、ショックだったと思うのです。せめてもう少し、落ち着いてからと……」

「このまま待ったトコで、状況は変わらない。だったら、とっととケリつけるのが最善だ。こっちも悠長に待ってられねぇ」

「かしこまりました。あの、レオナルド様。メルティーユ様のこと、どうかよろしくお願いします。見張りは私が代わりますので、お休みになってください」

「休憩は、俺がしたいタイミングでする。お前はメルティーユ(ガキ)の世話があるだろ。小屋に戻ってろ」

 レオナルドは一度決めたら梃子(てこ)でも意思を曲げない男だ。付き合いは長くないが、ドリーも彼の性質を理解している。二人の間にそれ以上会話はなく、ドリーは頭を低く下げて室内に戻った。


「……無垢な無知ほど、この世で残酷なモンはない」


 レオナルドが人知れず呟いた言葉は、火の粉が踊る地面に叩きつけられ、消えていった。



 懐かしい気配に浸りながら、メルティーユは浅い微睡を漂っていた。

「おはよー、メル!」

「メルちゃん、おはようございます。さあ、皆で食堂へ行きましょう」

「アンナ、ナディ。二人とも、起こしに来てくれたの?」

 白いカーテンが揺れる窓辺。部屋に集った家族二人の、あたたかい微笑み。変わらない平穏に安堵したメルティーユは、シーツにくるまり幸せを噛みしめていた。そこに、もう一人足音が近づいてくる。 

「メルティーユ様。まだお休みだったんですか?……仕方ないですね。お支度を手伝いますから、起きて下さい」

「うぅん……。待って、あともう少しだけ……」

 ベッドサイドに現れたドリーが、小さく丸まったメルティーユの背中をぽんぽん叩いて声をかける。その温もりが嬉しくて、メルティーユは子供のように駄々をこねた。シーツに頭まで潜り込み「あと三分」と呟けば、ドリーは呆れたように「やれやれ」と苦笑いする。けれど、決して叱ったりせず、シーツを優しく捲り上げて起こしてくれた。いつもと変わらない、朝の光景。この先もずっと続くはずの、日常の一ページだった。

「メルティーユ様」

「……ドリー……?」

「はい。お疲れのところ、すみません。そろそろ出発の時間です。レオナルド様が、お待ちです」

 ‶レオナルド〟。その名前を聞いた途端、メルティーユの意識は夢から現実に引き戻された。鉛のような体を起こしてベッドサイドを見ると、傍らにはドリーが立っている。メルティーユを覗きこむメイドは心配そうに「お加減はどうですか?」と訊ねてきた。ドリーの目には濃い隈があり、顔色は青白く血の気がない。憔悴した様子を見たメルティーユは、屋敷を無断で脱出したドリー自身にも、重い事情があるのだと察した。

 ドリーに布団を捲られ、腰元にポシェットを装備したメルティーユがベッドを這い出たその時――。パァン、と乾いた発砲音が山林中に響いた。


「なっ、なに……!?」

「これは、襲撃……?メルティーユ様、動かないで下さい……!」

「え……っ?きゃあっ?」


 突然の事態に驚愕する暇もなく、続けて二発、三発と銃声が続く。メルティーユの前に屈んだドリーは「女神イリアーヌよ、どうかお守りください」と呟き、彼女の手をギュッと握りしめた。

「これは――……?」

 すると、ドリーの体からパールのように眩い光が広がり、円形状のシールドがメルティーユをすっぽり包み込んだ。

「メルティーユ様の周囲に、簡易的な魔法結界(シールド)を施しました。片付くまではここにいて下さい、いいですね?」

「片付くまでって、ドリー……!」

 メルティーユが戸惑っている隙に、ドリーは小屋の外へ飛び出して行った。相次ぐ発砲音が途絶え、代わりに誰かが言い争う声が届く。

 ――外で、戦いが起きている。

メルティーユは森の獣に襲撃された時のことを思い出し、震える体を抱きしめた。何が起きているかは分からない。けれど、ドリーやレオナルドが危険に晒され、自分だけ庇護された状態にも不安を感じていた。

 屋敷を出る前のメルティーユなら、ブラウの言いつけを守ったように、他者の指示に従ったはずだ。


『一度外に出た以上、誰もお前の手綱は握っちゃくれない。どうしたいのかは、自分で決めろ』


 しかし、今のメルティーユは違う。レオナルドの言葉を受け入れ、自分の目で「真実」を見ようとしていたのだ。震える太ももを叩き、床を立ち上がるメルティーユ。だが、彼女が一歩扉の前に進んだその瞬間、


「死ね……!!」

「……っ?」


 小屋全体が揺れ、押し破られた扉から白装束の男が飛び込んで来た。ひらめくナイフがメルティーユの顔面に振り下ろされる、が、

「クソッ、障壁……魔法結界か?」

「うっ」

 シールドに弾き返され、相手のナイフが床に転がった。急いで立ち上がったメルティーユは、逃げ場を求めて扉へ駆け出す。

「貴様……!止まれ!」

「きゃっ」

 しかし、その先にはもう一人、刺客が立ちはだかっていた。

「やめて、……っ」

 メルティーユが身を竦めると、相手は一歩踏み出して強引に手首を掴もうとする。

「おい、クソ三下野郎。テメエの相手は、俺だろ――」

「なっ、ガハッ……ッ!?」

 すると、瞼を閉じたメルティーユの目前で、断末魔とともに刺客が崩れ落ちていった。あまりに刹那の出来事に、息を呑むメルティーユ。周囲には血飛沫が飛び散り、背を一突きされた刺客は、その場で息絶えていた。レオナルドは表情一つ変えずに、メルティーユを見下ろしている。

「あ……、ありがとうございます」

「外は片付けた。ドリーも無事だ。立てるか?」

「おのれ、良くも仲間をやりやがったな……!」

 血塗られたレオナルドの手が差し出され躊躇するメルティーユだが、その背後にはナイフを構えたもう一人が立っていた。殺気立った男は白いマントを翻し、レオナルドに斬りかかる。

「グチグチうるせぇよ、薄汚い国の下僕が……」

「……ぐァ……ッ!?」

 だが、不意打ちが届くことはなく、敵のナイフの切っ先は虚しく空を切った。レオナルドは男が踏み込んだ僅かな隙をつき、的確に素早く剣先を腹部に刺したのだ。

「……っ」

 肉が貫かれ血が零れる生々しい音に身震いし、目をつむるメルティーユ。けれど、いくら動転していても時間は待ってはくれず、レオナルドは彼女に毅然と断言した。

「昨夜言った通りだ。もしもお前が望むなら、同行を許可する。――あの館とブラウを捨てて、俺たちと来る覚悟は決まったか?」

「……わたし……」

 沢山の人が、死んでいる。ドリーの魔法結界とレオナルドさんがいなかったら、わたしも死んでいたかもしれない……。

 人間の死に直面した温室育ちのメルティーユが、ショックを受けるのは無理もなかった。それと同時に、頭の片隅にぼんやりとした記憶の断片がちらつく。沢山の人が恐れおののき、叫び、逃げ惑う光景。そして、炎と血で真っ赤に染まっていく家々。

 ――もしかして、ずっと昔にも、これと同じようなことがあった?

「う……」

「立て。この小屋は奴等にバレている。追手が来るのも時間の問題だ」

 ふっと意識が遠のきそうになったメルティーユの手を、レオナルドが掴んで引っ張る。メルティーユは何とか立ち上がり、レオナルドの瞳を正面から見つめた。

「行きます。……ついて行きます。だから、蔦みどろの館がどうなったのか……教えて下さい」

 全身が、まだ恐怖と不安で震えている。それでも、もう引き返すことはできないとメルティーユは思い知った。そして何より、ドリーやレオナルドの行く先に、自分の出生や記憶に繋がるヒントがあると、直感的に感じたのだ。 

「行くぞ」 


 小屋の外には刺客が四名、無残な姿で転がっていた。ドリーが彼らの亡骸の前で手を合わせ、祈りを捧げている。

 刺客たちは皆、ブラウが着ていた法衣に近い白装束姿で、肩には大蛇が砂時計に纏わりつく様を描いた肩章を付けていた。世間の常識には疎いメルティーユだが、その物々しい雰囲気から、彼らが何らかの組織に属している点だけは察しがついた。

「メルティーユ様、怖い思いをさせてしまい、申し訳ございません。お怪我はありませんか?」

「うん、平気。ドリーの魔法結界のおかげで、なんともなかった。それに、レオナルドさんが、助けてくれたから」

「良かった……」

 ドリーは小さく頷き、ほっと胸を撫でおろしている。その間もレオナルドは周囲を警戒していたが、危険がないと悟ると二人の元へすぐさま戻って来た。

「今の所、追手の気配はない。ここからは合流する仲間の馬車で移動するが、その前に――メルティーユ。お前には約束通り、見せてやる」

「は、はい?」

「知りたいんだろ、あの屋敷の状況を」

「……はい……!」

 その言葉にメルティーユはこくりと頷いた。少女の精一杯の意思を確認したレオナルドは外套のポケットを漁り、片手で掴めるサイズの小箱を取り出した。ジュエリーボックスのような形状で上蓋には鏡があり、収納部はトリリアンカットに加工された琥珀色の魔法石(スペルストーン)を中心に、淡い光を放つ貴金属が埋め込まれた魔製道具(ソーサラーツール)だった。

 魔製道具とは、魔法石を用いた多種多様なアイテムの総称だ。ミラディア王国では魔法石に術式を組み込んで利用する便利道具が存在し、いずれも高値で取引されている。メルティーユが以前ブラウから贈られた目覚まし時計も、この磨製道具(ソーサラーツール)の一種だった。予めぜんまいに術式(スペル)を施し、内蔵した魔法石を動力に秒針が動いている。指定した時間になると音と光が文字盤から放出され、知らせてくれる仕組みになっていた。


「お前も、ブラウの屋敷で磨製道具の一つや二つ、目にしたことがあるだろう。この箱の鏡を覗けば、念じた場所の映像を閲覧することができる」

「すごい……。そんな魔法もあるんですね。それじゃあ、お屋敷の様子も?」

「……そういうことだ。自分の目で確認してみろ」

「は、はい」

 レオナルドから小箱を受け取り、深呼吸して鏡を覗くメルティーユ。その間、ドリーは目を伏せたまま、口をきゅっと閉ざしていた。メルティーユが鏡に意識を集中させると、鏡面には暗い靄がかかる。

「お願い、お屋敷の様子を見せて。アンナとナディは……?あのあと、皆はどうなったの、教えて」

 濁った鏡に思いの丈をぶつけ、メルティーユは必死に祈り続ける。すると、暫くして――鏡の靄がゆっくりと晴れてゆき、懐かしい光景が目の前に映し出された。

 さわさわと木立が風に揺れ、緑深い森林が浮かび上がる。ここはあの蔦みどろの館があった森だ。メルティーは早鐘を打つ心臓を抑え付けながら、じっと目を凝らした。

 しかし、森の奥にあったはずの屋敷は――……。

「ねえ……。どういうこと……?これ、なに……?」

 鬱蒼と茂る蔦は全て燃え落ち、館全体の煉瓦の壁が崩れ落ちていた。庭園の花壇も煤と化しており、ここに屋敷があったことなど誰も想像できないだろう。広がる焼け跡に残るものは、かつての面影を失った廃墟だった。

 大規模な火災でも起きない限り、屋敷が全焼するなど到底あり得ない。しかし、周囲の木々には燃えた痕跡は見当たらず、火事が自然発生したとは考えられなかった。


「ドリー、知ってたの?お屋敷が……燃えてたこと……」

「……」


 メルティーユは震える両手から、小箱を取り落としてしまった。ぽとんと音を立て、箱が地面に激突する。ドリーは俯いたまま、掠れた声で呟いた。


「いいえ。私がこの件を知ったのは、ここに移動してからのことです」

「本当なの?……それじゃあ、お屋敷にいたアンナや、ナディは……?」

 変わり果てた館の残像が、メルティーユの瞼にこびりついて離れなかった。これが事実だと突きつけられても、容易には受け入れられない。

「……お二人の安否は、わかりません。ただ一つ言えることは、私やメルティーユ様が脱出された後、ブラウ様の館が何者かの手により処分されたということです……」

「処分?どうして……なんでこんなことになってるの!?わたし、分からない……、わからないよ……っ」

 誕生日の当日。ブラウの屋敷に家族が全員揃い、宴を楽しむはずだった。そしてこれから先もずっと、あの蔦みどろの館の時間は、未来永劫変わらないものと思っていた。

「うっ、うう……」

 アンナに命を狙われた危機的状況で、ナディやペットのエルと引き離されても――。メルティーユは心のどこかにまだ、微かな希望を抱いていたのだ。きっと、家族は元通りになるのだ、と。

 だが、鏡が映した現実はメルティーユの微かな願いを、真っ向から否定するものだった。蔦みどろの館も。皆で過ごしたあの穏やかな時間も……。もう、永久に、取り戻せない。

「メルティーユさま……」

 ドリーは喉を詰まらせながらメルティーユを呼び、すすり泣く彼女を抱き寄せた。メルティーユはドリーの胸に顔を埋めて、嗚咽を必死に押し殺している。二人が身を寄せ合う姿を横目に、レオナルドは先ほどよりやや語調を弱めて言った。

「混乱すんのも、まぁ分かる。ドリーの言うように、お前はブラウに幽閉された被害者みたいなモンだからな。これまで檻にいた立場からすれば、立て続けに災厄が降りかかったように感じるだろう。……だが、今起きている現実は、起こるべくして起きたことだ。お前にはそれを知る権利がなかった……。いや、知る機会そのものを、ブラウに奪われていたんだよ」

「でも、お屋敷がなくなって。わたし、どうしたら……」

「――もうすぐ馬車が来る。俺たちの仲間の馬車だ。あの屋敷が燃えた以上、お前に帰る場所はない。付いて来るなら乗せてやってもいい。ドリーも、どうせ最初からそのつもりだろ」

「はい……。お願い致します。レオナルド様」

 レオナルドがぶっきら棒に告げると、ドリーはメルティーユの頭を優しく撫でながら、静かに頷いたのだった。




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