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~第一章 赫いカナリア~ 二話 晩餐会とかくれんぼ

 規則正しく時を刻む柱時計の音だけが、静寂に満ちた食堂を支配していた。長テーブルの上には銀の燭台が煌めいて、奥の厨房から甘い香りが漂ってくる。

 蔦みどろの館の少女三人は、自分の誕生日を覚えていなかった。特にメルティーユの場合は保護された当初から記憶の混濁が激しく、出身地はおろか自分の名前まであやふやな状態だった。また、ナディやアンナも例外ではない。そこで、彼女たちはブラウの提案に従い「館で共同生活を開始した日」を誕生日と定め、毎年豪奢な晩餐会を開くことに決めたのだった。

「過去を振り返る必要はない。お前の人生の始まりは今日、この日からだ。……さあ、メルティーユ。私たちが家族となった、今日この善き日を祝おう」

 ブラウの呪いめいた言葉を聞いた時、メルティーユはハッとして顔を上げた。視界一面に広がる焼け野原。物言わぬ焼死体が転がる瓦礫の山。その片隅に置き去りにされた少女の記憶は、完全に閉ざされていた。故郷も家族も既になく、自我さえ朧気だった当時のメルティーユにとって、ブラウのその言葉がある種の救いだったのかも知れない。

 わたしはだいじょうぶ。わたしは何もなくしていない。この悪夢みたいな現実は、もう終わるんだ。だって、今日この日から――わたしの道は始まるんだから……。

 虚ろな眼差しのまま、差し伸べられたその手を掴んだとき。少女の宿命の歯車は確かに動き始めたのだった。



「ドリー、そんなに大げさにしなくてもいいよ。動きにくい格好、ちょっと苦手なの」

「駄目ですよ、今夜の主役はメルティーユ様でしょう。綺麗にお支度させてください」


 午後十八時半――。三十分後に迫った晩餐会の準備は、ナディやアンナたちの手によってつつがなく進行していた。

 本日の主役の自室にはメイドのドリーが訪れ、姿見の前でメルティーユの支度を手伝っている。銀の柔らかい髪をアップに纏めバレッタで留めると、コルセットの紐をきつく結び直してその上から真紅のドレスを着付けていった。「ブラウ様からのプレゼントが、メルティーユ様の肌によく映えますね」とドリーは賛辞を贈ったが、メルティーユは曖昧に頷いてはそわそわしていた。濃い真紅のパンプスが熟れたトマトや血液を連想させるので、どうにも気分が落ち着かない。双眸は生まれつき紅玉のような赤色だったが、メルティーユ自身は、自分の瞳が好きではなかった。

「やはり、よくお似合いですよ。これでメルティーユ様も、一人前のレディなのですね。なんだか、お屋敷にいらした時のことがひどく懐かしく思えますわ」

「うん。ありがとう……、ドリー」

「いいえ。これがわたくしの勤めですから。では、お先に失礼いたします。お時間になりましたら、食堂までおいでください」

 常日頃からクールで事務的なドリーでさえ、今夜はどこか感極まった様子に見える。高揚感が伝わってくるようで、メルティーユは照れくさくなった。誕生日を祝うのは毎年恒例の行事だが、いくつになってもこそばゆいものだった。慣れないドレスに緊張しつつ、鏡の前で自分の姿を確認したメルティーユは、浮足立った気持ちを静めるよう深呼吸してから自室を出た。

 廊下は物音一つなく、鎮まり返っているようだ。隣の部屋のナディとアンナが既に食堂に揃っているせいだろう。 

 そうだ。鳴き声がしないと思ったら、今日はまだエルを見ていないんだ――……。きっと、食堂の匂いにつられたか、ブラウ様に呼ばれて傍にいるはずだ。私も早く行かなければ。メルティーユは慣れないヒールを響かせながら、廊下を急ぎ進んで行った。


 食堂の両扉は半開きの状態で、室内の明かりが零れていた。閉じ忘れるなんて、几帳面なドリーにしては珍しい。

「――みんな、お待たせしました!」

メルティーユが、扉を押し開き室内に踏み入った、その時だった。


「え……?」


 視界の端を、ひらりと赤い花弁が横切った。頬を撫でる一陣の風に思わずぎゅっと目を閉じる。そして、次に瞼を開けた数秒後。メルティーユはやっと、この食堂で何が起きたのかを察し悲鳴を上げた。


「ナディ……っ!?」

 銀の食器と、籠のフルーツがテーブルクロスに散乱したその横で、ナディが力なく倒れていた。周囲には硝子の花瓶の破片と、真紅の花びらが散っている。美しい金髪のおさげは切り落とされて、毛束が床に転がっていた。

「メルちゃん……。ごめん、ね……。……アンナちゃん、が……」

「なに、これ……?……どうしたの、ねえ……?しっかりして……っ」

 メルティーユは血相を変え、ぐったりしたナディに駆け寄って行く。そして、先ほど目端に捉えたものは花びらではなく、ナディの鮮血だったことを知った。


「ナディ、怪我してる……!」

 状況が分からず動転するメルティーユに、ナディは震える手を差し伸べてきた。メルティーユは彼女の傍らに立ち、血で汚れた手をそっと握りしめる。ナディの体には、鋭利な刃物で斬り付けられた傷痕がいくつもあった。傷の一つ一つは浅いものの出血量が多く、ところどころに痛々しい打撲痕も残っている。きっとこの状態になるまで何度か体を打ちつけて、動けなくなったのだろう。

 この館は普段、ブラウの魔法結界シールドで厳重に守られている。不審者や凶悪な野生動物は容易に侵入できないし、あらゆる危険からも隔離されている。此処にいる限りは安心だ、だから許可なしには外に出るな、それがブラウの口癖だった。実際その言いつけを厳守していれば、身の危険は起こり得ない。

「今日は、メルちゃんのお誕生日だったのに……。こんなことに、なって……。お祝いできなくて、ごめんなさい……」

「ナディ、謝らないで……。一体何があったの……?アンナとブラウ様は……?」

 がらんとした食堂にはメルティーユとナディ以外の気配がない。異質な状況が余計にメルティーユの不安を掻き立てていた。ともかく、このままではナディが危険だ。傷の手当てをしなくては。

「私につかまって」

 メルティーユはナディの手を引いて抱き下ろそうとしたが、しかし――。

「メルちゃんっ、逃げて……!」

「……なに……?きゃあっ」


 その途端、ナディに突き飛ばされたメルティーユは床の絨毯に尻餅をついた。

食堂内の均衡を破ったのは、空を裂く無数のかまいたちだった。苦し気なナディの呻きに合わせ、突風は鋭い凶器となる。風は無数の刃に変わり、目にも止まらぬ速度でナディの肌を切り刻んでいった。

「ナディっ!?なんで……っ」

 目前で起こる一方的な殺傷行為は、まさに超常現象というべきもの。メルティーユに止める術はなく、人間の動体視力では風の発生源を追うことすらできなかった。

「や、だ……。やめて、ナディが死んじゃう……!!」

 ナディのレースのワンピースが、メルティーユのドレスと同じく、朱に染め変えられていく。虚ろな眼差しに見つめられた時、メルティーユはもう一人の友の名を叫んでいた。

「いやぁあっ、だれか――……!助けて……アンナ!!」

 テーブルクロスから血液が滴る不快な音に混じり、微かに靴音が聴こえる。メルティーユは気配の方に視線を移した。ぴちゃぴちゃと血だまりを踏みしめながら迫ってくるものの、犯人の姿は見えない。メルティーユは事件の真相を察し、戦慄に震えていた。ぎゅっと自分の体を抱きしめたまま、湧き上がる恐怖と混乱を抑えるので精一杯だった。


「メルとナディは、アタシの妹みたいなものだから。可愛くてつい甘やかしちゃうんだよねー」

 そんな風に姉貴風を吹かせては、いつも明るくメルティーユとナディを包み込んでくれたアンナ。一番年下のメルティーユにとっては頼れる存在で、眠れない夜は添い寝してもらったり、寝付くまで本を読んでもらったこともある。記憶に不安を抱えていた時期に「アタシたちはみんな仲間だよ」と励ましてくれたのも彼女だった。

 そんな、もっとも信頼していた――実の姉のように慕っていたアンナが……。じりじりと接近する足音は、硬直したメルティーユの数歩手前で停止した。

「残念だけどさぁ……。助けを呼んでも誰もこないよ、メル。この屋敷はブラウ様の力で封じられてるもん。あんたも良く知ってるでしょ?」 

「アンナ、が……やったの?ナディをこんな目に遭わせたのは……アンナなの?」

「あははっ、アンタらしい愚問だね。この状況、他に犯人いると思う?」

「……どうして……」

 再び激しいつむじ風が巻き起こり、メルティーユはぐっと顔を顰めた。ナディのドレスの切れ端と散った金髪を巻き込みながら。アンナは風を幾重にも纏って、渦の中心から姿を現したのだった。

 ――魔法。それも、ブラウや才ある一部の術者のみ扱えるとされている、強大な魔力だった。しかし、アンナがなぜ急に魔法を使えるようになったのかは分からない。メルティーユに理解できたのは、アンナがナディを一方的に傷つけた……その残酷な現実のみだ。

「驚いた?これが、ブラウ様に教えて貰ったアタシの力よ――」 


 アンナはうっとりと目を細め、指先でくるくると弧を描く。そこに風が衣のように纏わりつき、彼女の意思に応じて可視できる形へと変貌を遂げていた。ナディを切り裂いたあのかまいたちは紛れもなく、アンナの意思で生じた魔法。……事実に直面しても、信じたくはなかった。メルティーユは地面に膝をついたまま、唇を震わせた。

「……それじゃあアンナは、もともと魔法石スペルストーンを使わず魔法が使える、魔術師ウィザードだったの……?」

 メルティーユがブラウや家庭教師に習った知識では、ミラディア王国内で魔法は限られた者しか操れない。更には、才ある者と認められれば、より専門的な教育を受ける権利を得られる。この国では優れた魔術師やブラウのような聖職者プリーストは重宝されており、王都での何不自由ない生活と地位が約束されるはずだ。

「ふふっ、ざんねーん。ちょっと違うなー。アタシの力は、風を操るだけじゃないんだよ。でもさ……今から死にゆくアンタには、教える必要もない話ね?」

「アンナ――」

 アンナは酷薄な笑みを浮かべ、メルティーユを一蹴した。

「ウソだよね?アンナがナディを傷つけたりするはずない……。だって私たち、家族じゃない……!」

 ――ずっと、信じていた。ナディ、アンナ、ドリー。そして、路頭に迷う自分を引き取って育ててくれたブラウ。血の繋がりがないとしても、蔦みどろの館の十四年間はメルティーユにとっての全てだった。

「ぷっ、あはははは!この状態を見てもまだ、そんなコト言っちゃってるんだ?アンタってほんと、どうしようもない世間知らずだね、メル」

 アンナの嘲笑が響き、ナディの消え入りそうな吐息が微かに耳奥に響いた。メルティーユの全身がブルブルとわななく。腹の底から込み上げてくる激情は、これまでメルティーユが体験したことのないものだった。

「アンナはナディだけじゃくて、わたしやドリーも攻撃するつもりなの……?」

「さぁてね。だとしても、アンタ一人でどうするつもり?」

「……わたしはこれからドリーを探す。そして、ナディと三人で一緒に、ここを出て行く」

「この屋敷から、逃げられると思ってんの?魔法も使えない、非力で無能なアンタがさ」

「それでも、もうこのお屋敷にはいられない……」


 自分でも、冷静ではないと分かっていた。しかし、メルティーユに他の選択肢はない。たとえこの場でアンナに手を下されようとも、黙ってやられるつもりはなかった。ナディを残虐に痛めつけた上に罪悪感も抱かず、家族の絆まで否定して斬り捨てたアンナ。――この受け入れがたい現実ほど、メルティーユを焚きつけるものはない。

 全身だらんと脱力しているナディだが、まだ息はあるようだ。ドリーと合流さえすれば、館から脱出する手段はあるかもしれない。

 メルティーユはナディを背負い、よろよろと立ち上がった。

「へー……本気なんだ?いいよ。それじゃ、アタシが鬼ね。十分だけ待ってあげるよ。ブラウ様はとっととヤれって言ってたけど、アタシだってただいたぶるだけじゃ、退屈だもん。精々逃げ回ってよ、メル。ここからは出られっこないけど、ね」

「……っ」

 アンナはくつくつと笑いながら、ナディを背負って食堂を出るメルティーユの背中に宣告した。「これは命がけのゲーム」だよ、と。

 幼い頃は屋敷生活の退屈を紛らすため、鬼ごっこやかくれんぼで遊んでいた三人だったが、まさかそれが本物のデスゲームになる日がくるとは予想もしていなかった。絶対に許せない。こんな現実、認めたくない――。荒れ狂う感情に心をかき乱されながら、メルティーユは一歩一歩、足を引きずるように廊下を歩み始めていた。あの食堂には、ブラウどころかドリーの気配もない。

 「先に食堂で支度しております」とメルティーユに告げたドリーが、ナディたちと現場に居なかったとは考えにくい。ドリーの失踪もアンナの襲撃も、不自然で理解し難い謎だった。

「ブラウ様は、どこにいるの……?」

 違和感はまだある。家族の誕生日だけは、必ず晩餐会に参加するのがブラウだ。当然、今日もメルティーユのために、夕方までに帰宅する予定だった。事前にプレゼントの〝約束〟も交わしており、メルティーユはブラウの言葉を信用していたのだ。にも拘らず、ブラウは時刻を過ぎても未だ姿を見せていない。

 また、アンナは軽薄な面こそあるものの、三人の中で一番ブラウに忠実で、言いつけを厳守していた。もしもブラウに命じられたとなれば、強行に及ぶ可能性はゼロとは言えない。メルティーユはきつく唇をかみしめ、背中の重みを感じつつ愚直に歩みを進め続けた。


◇ 


 ふと脳裏によぎるのは、遠い夕暮れの記憶だった。廊下に差し込む陽光に目を細めながら夢中で走り、ディナーの時間まで子供だけでかくれんぼをしていた。

「ナディ、メル!いいから、先に隠れてきなよ。アタシは十分待ってから探しに行くからさ」

「わかりましたぁ。すこしは手加減してくださいね、アンナちゃん」

「アンナ、すっごく足速いもんね。それに、勘がいいからすぐに見つかっちゃうし……」

「あははっ、メルが単純ぎるんだよ!ほらほら、あんまり簡単に見つかったらアタシが張り合いないじゃん。とっととイイトコに隠れてきな」

 年長のアンナは世話焼きで、ゲームになると最初に鬼役を買って出た。メルティーユとナディが隠れ場所を探せる時間は十分間。その後は、アンナが屋敷の捜索を開始するルールになっている。

「いきましょう、メルちゃん。お互い見つからないようにがんばりましょうね」

「うん!」

 ナディは足は速くなかったが賢くて機転が利くので、人の盲点をつく場所を探すのが得意だった。厨房の戸棚の裏や寝台下のスペース、自室のクローゼットなどは子供がすぐ隠れがちだが、ありきたりな場所では鬼にすぐ見つかってしまう。そこで、ナディは「定番の場所はやめて、大胆な場所に隠れるんです。アンナちゃんは意外と繊細ですから」と、こっそりメルティーユにヒントをくれた。

「う……」

「ナディ……。しっかりして」

 背中を通じて、辛そうな浅い呼吸が伝わってくる。今は急を要する事態だが、ナディの怪我の手当てをしたい。専門的な治療は無理でも、止血だけでもするべきだ。ドリーの部屋には救急セットがある。時間の猶予がないとはいえ、怪我をした友人を放ってはおけなかった。メルティーユは息を切らせつつ、早足でドリーの部屋に急いだ。


 廊下の奥、角を曲がった突き当りの一室が、ドリーに与えられた部屋だった。だが、用事がある時以外入室は禁じられており、普段は施錠されている。それはブラウの自室も同様だが、ドリーの場合はメルティーユたちが訪問すれば、快く迎えてくれた。

「ドリー!ドリー……!お願い、いるなら出てきて……」

 つい一時間ほど前には、メルティーユの身支度を手伝ってくれたドリー。いつものように柔和な微笑みを湛えて「おめでとうございます」と、メルティーユに祝いの言葉をかけてくれたばかりだった。ナディのことはもちろんだが、メルティーユにとってドリーの安否も気がかりで仕方がない。

「……鍵、開いてる……」

 声をかけても反応がないのでドアノブに手をかけると、ドアはギィッと軋みながら開いた。室内には明かりがついておらず、やはりドリーの姿はない。食堂を出てから既に、二分は経過しただろうか。アンナから隠れながら脱出の手段を探さなくてはならない以上、最早一刻の猶予はない。

 壁際の光源スイッチで照明を灯すと、メルティーユは本棚と並んだ収納戸棚のガラス扉を開けた。中には魔法石スペルストーンの小箱や雑貨が収まった箱が規則正しく保管されている。救急箱と裁縫箱はすぐ取り出せるようにと、いつも手前の方に置いてあった。

 長椅子に横たわるナディの意識は朦朧としているが、高熱のせいもあるようだ。傷口が熱を持ってしまい、体力の消耗が一段と激しい。

 メルティーユはナディのボレロを脱がせると、血塗られたドレスのファスナーを下ろして背中の傷口を確認した。清潔なタオルで肌を拭い、消毒液をひたしたガーゼを幹部に当てがう。

「……っ、く……」

「ナディ、滲みるかも知れないけど、我慢してね……」

 すでに傷は塞がっており、命に別状はなさそうだ。メルティーユはひとまず胸を撫でおろし、出血が目立つナディの四肢に包帯を巻き、額の汗を拭っていった。容体が落ち着いたのを確認すると、部屋の物色に取り掛かる。

 蔦みどろの館を守護しているのは、ブラウが施した魔法結界シールドだ。素養がない一般人に魔法は扱えないが、魔法石や魔法触媒があればその限りではないだろう。調理場にある魔法石のように、結界に関与するアイテムが、どこかに存在するはずだ。しかし、一縷の望みに賭け捜索するメルティーユの努力も虚しく、時間だけが過ぎて行った。

「どうしたらいいの……」 

 壁掛け時計の針は、十八時五十二分を指している。食堂でアンナとの〝ゲーム〟が始まったのは、十八時四十五分。メルティーユとナディに残された自由時間は、もう三分ほどしかなかった。失意に駆られたメルティーユが、戸棚に背を預けた時だった。

「メル、ちゃん……」

「ナディ……!?気がついたのね……!」

 長椅子から半身を起こしたナディが、メルティーユを呼んでいた。

「手当してくれた、メルちゃんのおかげです……。ありがとう」

 顔色は青白く表情に生気はないが、食堂で倒れていた時より回復した様子に見える。メルティーユは安堵で涙を滲ませながら、彼女の元へ駆け寄った。

「良かった、ナディ……。ねえ、教えて。わたしが居ない間、食堂で何があったの?アンナはどうして、あんなひどいことを……」

 感極まる時間も惜しんで、メルティーユは矢継ぎ早に質問する。すると、ナディは悲しそうに目を伏せつつ答えた。

「アンナちゃんがあんな風になった理由は、私にも分からないんです。ただ、一つ言えることは……アンナちゃんがブラウ様に、特別な命令をされていたということだけ……」

「魔法でナディを襲えって、ブラウ様が命じたの……?」

 長椅子から起き上がってボレロを纏ったナディは、ドレスの裾の埃を払いながら続けた。

「私とアンナちゃんは、今夜の晩餐会の準備をしていました。でも、ドリーさんが十八時頃、メルちゃんの部屋に出かけた直後……」

 ナディ、アンナ、ドリーの三人は、夕方十六時半から厨房に入って料理に取り掛かっていた。とはいえ、昨夜の内に下ごしらえを済ませていたドリーのおかげで作業量は少なく、調理自体は一時間程度で完了したという。食堂のテーブルセッティングも済ませ、あとはメルティーユの到着を待つのみとなった、午後十八時。ドリーが厨房からメルティーユの自室に移動した後、あの事件が起こったのだ。

「アンナちゃんが食堂で呼んでいたので、近づいたら突然――……。あのかまいたちが、私を襲ってきたんです」

 目にも止まらぬスピードで襲撃する無数の刃。ナディはなすすべもなく風のナイフに切り裂かれ、逃げようとしたものの、体を椅子や壁に打ち付けてしまった。その際に足首を捻ったせいで満足に動けなくなり、あの場で気を失ったのだという。

「本当に、アンナが全部やったんだね……」

「はい……。そして、アンナちゃんはきっとメルちゃんのことも狙っているはず。……だから、急いで逃げなくちゃ……」

 自分の手のひらを握りしめて怒りを堪えるメルティーユに、ナディは柔らかく笑みを向け、諭すように言った。

「そんなに力強く握ったら、駄目ですよぉ。メルちゃんの綺麗な手に、傷ができてしまいますからね」

 ナディは手を差し伸べて、そっとメルティーユを抱きしめた。

「ナディ……?」

「メルちゃん、よく聞いてください。ブラウ様は、危険です。少なくとも、今のあの方は私たちの味方ではありません……。ドリーさんの行方も分かりませんし……。きっとこの状況は、予め仕組まれていたんです。メルちゃんと私には内緒で、計画されていたことだったんですよ」

「……うそ……?」

 そっと髪を撫でるあたたかいぬくもりと裏腹の、芯から凍りつくように冷たい言葉。ナディはメルティーユの耳元に、小声で続けた。

「もう時間がないですね。メルちゃん、逃げてください」

「何言ってるの、ナディ?ナディも一緒に、ここを出るんだよ?」

「ええ、そうですね……。でも、二人同時にアンナちゃんに見つかってしまったら、即ゲームオーバーです。だから、アンナちゃんはここではなくて、別の場所に隠れてください。そして、お屋敷からの脱出方法を見つけるんです」

 ナディは二手に別れようと提案したが、メルティーユにも察しがついていた。怪我で満足に動けない人間を背負っていては、アンナからは逃げきれない。ナディは自分が一人で残ると決めていたのだ。

「だめだよ、そんな……」

 ナディは白い顔のまま、にこにこと微笑んでいる。メルティーユは、ドリーの背中にしがみついた。目頭が熱くなり、涙が溢れそうになる。しかし、時間は待ってはくれなかった。

「メルちゃん、これを持って行って」

「これは、鍵と魔法石スペルストーン……?」

「ええ。ブラウ様の部屋の合鍵と、地下室の鍵です。さっきメルちゃんが、戸棚から小箱を取り出していたでしょう。その中に、屋敷の合鍵が入った箱を見つけました。それと、魔法石です。何かの役に立つかもしれませんから……」

 ナディから手渡された鍵を紐に通して首から下げ、いくつかの魔法石が入った小袋は、ドレスのウエスト部に固定したポシェットにしまいこんだ。準備を済ませると、廊下をカツカツと進む靴音が響き渡る。タイムリミットを迎えて、アンナが動き出したのだろう。命がけの「かくれんぼ」の幕が上がった。

「メルちゃんは、ここを出て地下室に移動してください。中から施錠してしまえば、アンナちゃんもすぐには入って来られないはず」

「ねえ、それなら、ナディも一緒に……!」

 ドリーの部屋の正面には、地下室に通じる入口扉がある。元々地下には、ブラウが所持している資料や本棚に収まりきらない書類、薬品などが保管されているが、その管理や整理を言いつけられているのもドリーだった。当然、メルティーユたちは普段出入りができない場所である。

「残念ですが、今の私がついて行ってもメルちゃんの足手まといにしかなりません……。……でも、魔法結界が解ければ、私たちは一緒に外へ出られる……。だから、メルちゃん。アンナちゃんがここに来る前に、行って……!」

 ナディは頑なに動こうとせず、今度は縋りつくメルティーユを突き放した。一度こうなった以上、彼女の意思は曲がらない。それは家族として傍にいたメルティーユ自身が、一番良く分かっていた。

「分かった……。わたし、ぜったい魔法結界を解く方法を見つける……。一緒に屋敷を出ようね」

 メルティーユは、きゅっと唇を噛みしめた。ナディはメルティーユを安心させるため、気丈に振る舞ってくれている。本来なら自由に動けない体に不安と恐怖を抱えているのに間違いないのだから。

 ぐっと涙と弱音を堪え、メルティーユはドアの隙間から外の様子を窺った。靴音は曲がり角付近まで近づいてきている。地下室に移動するとしたら、今このタイミングしかない。

「行ってくるね、ナディ」

 最後にナディに一言告げると、メルティーユは音を立てぬよう素早くドリーの部屋を出て正面の地下室扉に貼りついた。錠前に鍵を慎重に差し込むと、息を殺しながら開錠する。幸い鍵はスムーズに開いたため、アンナに気づかれることなく侵入に成功した。

「いってらっしゃい、メルちゃん。たとえ真実を知ってしまっても、どうかあなただけは、変わらずいられますように……」

 メルティーユが無事地下室へ突入したと確認したナディは、白いドレスの胸元に手を当てながら、祈るように呟いたのだった。


 ◇


 ――鉄と埃と薬品と、乾燥した植物の匂いがする。地下に続く階段は、岩壁にぽつぽつ埋め込まれた紅魔法石レッドスペルストーンの明かりに、ぼんやりと照らされていた。岩壁に手をつきつつ慎重に下りていくものの、メルティーユの心臓はどくどく早鐘を打っている。

 ナディの意思だったとはいえ、彼女を一人で残してしまったこと。アンナが今、屋敷のどこにいるのかも判断できないこと。加えて、地下室に隠れたとしても、魔法結界を解く術が見つかるかは定かではない。

 もし、アンナが本気で自分やナディを始末しようと動けば――……。魔法を操る魔術師ウィザードと生身の人間では、到底勝ち目はないだろう。

 それでも、ただじっと大人しく待っていては、全てが終わってしまう。焦燥と恐怖に足をとられつつ階段を下りきると、そこにはメルティーユの想像を超える光景が待っていた。


「……これは……!」


 部屋一面をぐるっと囲むように並んだ本棚と薬品棚。正面には実験器具と魔法関連の道具がずらりとならんだ実験台があった。試験管とフラスコの底には乾燥した薬草と魔法石が入っているようで、虹色に発光する液体やぐつぐつガラスの中で気泡を浮かべる瓶も散乱している。いずれもまだ実験途中のようで、直近までブラウが薬品調合を繰り返していた痕跡があった。

 書物で魔法石研究の歴史や薬草調合について教わったメルティーユたちだが、実用的な試験や実技は行っていない。そもそも、実験器具の実物を目の当たりにしたのは初めてのことだった。ブラウは求められれば気まぐれに知恵を貸す人物だが、必要以上の知識をメルティーユたちに与える素振りはない。そしてそれを、メルティーユは心のどこかで不満に感じていた。

「本当に、写真で見た通りなのね……。すごい……」

 膨大な知識の宝庫を前に、メルティーユは暫し見惚れてしまった。広い世界の片隅の、辺境の森の屋敷しか知らない少女にとって、地下室は煌めく宝石が詰まったビックリ箱に違いない。

 だが、ゆったり感傷に浸る時間はなかった。右隣からカチッと秒針が動く音がして、メルティーユは我に返った。ガラス棚の中で、魔法石を載せた金の天秤が傾き、現在の時間を刻んでいる。――午後十九時。このまま時が経てば経つほど、脱出は困難になるだろう。

 メルティーユは、実験台の隣の文机に急ぎ移動すると、机上の書類と書籍の表紙に目を通した。そのうちの一冊、ぶ厚い魔導書の間にブラウの筆跡のメモを発見すると、抜き取って一読する。

「〝魔法複製人形レプリカ・ドール研究〟……?」

タイトルは辛うじて読めたものの、先に続く文章はミラディア王国の文字ではない。少なくとも、メルティーユが習ったどの言語とも異なっていた。

 大まかな内容を予測した限りでは、薬草や薬品の名称と絵に加え、図面付きで解説された実験レシピであると判った。専門知識のないメルティーユでも、ブラウが秘密裏に、何かの製造実験を繰り返していたことだけは汲み取れる。

「一体、ブラウ様はなにを……?」

 それ以外にも、難解な書類の束の量は数えきれなかった。デスクの上には難しい魔法術式スペルを記述した専門書も山積みだ。恐らくは、魔法結界に関しても触れられているはず。ともかく、今は手がかりになる物が欲しかった。自分が今この場で理解できない内容でも、ナディやドリーと合流すれば、現状を打破できるかもしれない。メルティーユはブラウのメモ紙をポシェットに詰め込むと、魔法術式スペル指南書を手に取ったまま、きょろきょろと周囲を見回した。その時だ。

 こつん、こつんと。静寂を砕く靴音が微かに届いた。アンナお気に入りのブーティが、硬い石階段を踏み鳴らす音だ。内側から入口は施錠してあったが、それでもアンナ相手には、時間稼ぎにしかならなかったのだろう。では、ナディは今ごろ――……?

「……っ」

 ぶるっと背筋に悪寒が走った。この石壁に覆われた地下室には、上の階の音がほぼ聴こえない。足音はもう、すぐそこまで迫って来て居る。ゆったりとした一定のリズムを、まるでステップのように軽快に刻みながら。


「メールー!地下室は立ち入り禁止って、ブラウ様に言われてたよねぇ?……あははっ、まあアンタにしては思い切ったね?ナディを置きざりにして、一人で隠れた勇気は褒めてあげるよ。……でも、かくれんぼはもう、お・し・ま・い」

 アンナのよく通る陽気な笑い声が、階段にこだまする。

「充分にチャンスはあげたよ。でも、これ以上は時間をかけられなくなっちゃったの。それで、脱出の方法はわかった?アンタ、言ってたよね?アタシから逃げて、館を出て行くんだって……」

「……アンナ……」

 このままでは、捕まってしまう。全身から冷や汗が吹き出すのを感じつつ、メルティーユは地下室内に素早く視線を走らせた。

 すると、規則正しく整列した本棚と本棚の間に、不自然な隙間が一ヵ所あった。メルティーユの視線は、その狭間できらきら燃える赤い光に釘付けになる。紅玉のように輝く魔法石が埋め込まれた扉だった。本棚で隠されたその奥には、もう一つの小部屋へ続く入口が存在している。……躊躇している暇はなかった。メルティーユは自分の知識を総動員すると、改めて目の前の本棚を観察した。

「これは――」

 ずらりとミラディア文字の頭文字順に整列された書物の中に、不自然に一冊分だけ空いたスペースがある。メルティーユは無我夢中で、今手にしている魔法術式指南書をそこにはめ込んでみた。

「……っ、きゃああぁ……!?」

 次の瞬間。左右の本棚が螺旋状に放出された閃光とともに開いていき、気の遠くなるほどまばゆい光の洪水が、メルティーユを包み込んでいた。なんとかその場に踏み止まって、開かれた紅い扉へと、真っ直ぐに手を伸ばす。

「メル……ッ、アンタ、まさか――……」

 メルティーユが炎のごとき光に呑まれ扉の先へ消えていくのと、アンナが室内に踏み込んだのは、ほぼ同時だった。


「だれ……?」


 ――メルティーユ。あなたの力は、この世界の暗闇に光を灯すためのもの。思い出して。あなたの中に、眠る光を……。

 あたたくて優しい、知らない場所で、誰かが呼んでいる声がする。メルティーユは遠ざかる意識の中で、懐かしい声を子守唄にしながらそっと瞼を閉じたのだった。


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