――その洋館は「蔦みどろの館」と呼ばれている。周囲を木々に囲まれた深い森の中に、ぽつんと佇む白磁の洋館。煉瓦の壁面は鬱蒼と蔦が生い茂り、建物自体が意思を持つ植物のようだった。
日中さえ陽光が差さず薄暗い館の庭だが、毎年春が訪れるたび、アデーレの花が色鮮やかに咲き誇る。フリルを思わせる艶やかな真紅の花弁と、甘く芳醇なその香りは、ミラディアの国民に愛されて、古くから親しまれていた。
季節ごとに色とりどりの花がほころぶ庭は、庭師が主の指示で剪定しているのだが、訪問者の目に留まれば、きっと誰もが心を奪われるに違いない。
しかし、険しい獣道を越えてやって来る訪問者といえば、港町カリバからの物資支給の荷馬車が一台のみ。世間の喧騒から孤立したこの洋館は、いつしか人々の記憶から消え去って、淡々と歳月を刻み続けるのみだった。
西からの春風に煽られて、二階の窓辺のカーテンが揺れている。レースの隙間から眼下を窺う一人の少女――メルティーユは、花壇の花に視線を向けて、重苦しい溜息を吐いた。絹のような銀髪が伝う頬には年相応の艶めきはなく、唇を噛み締めては窓の外を眺めている。
「ねえ、エル。教えて。どうして世界は、こんなに狭くて退屈なの?……わたしはいつか、お屋敷の外に出られるのかな?」
メルティーユの呟きに対し、寝台に寝そべるシャムネコのエルが「みゃあ」と答えた。飼い猫にとってみれば、衣食住の保証された悠々自適な生活に、なんの不満もないだろう。くあっと一つ欠伸を零し、ゴロゴロ喉を鳴らしていた。
「……ふふっ。エルはいいなぁ、幸せそうで」
それなのに。わたしはまるで、翼を手折られた小鳥のようね。――メルティーユの小さな唇から、声にならない本音が漏れた。
優れた術師の手腕と能力によって繁栄を極めた魔法大国・ミラディア。人々は生活の大半を、魔法に支えられてきた。国民は魔力と才能の有無によって区別され、血統によって相応しい地位を与えられる。階級によって身分の格差はあるものの、概ね平和な生活を維持していた。
しかし、温室育ちのメルティーユは、世界の枠組みの外にいる自分に、辟易する日々を送っている。――この時の彼女はまだ、白い檻で飼い殺される己の立場を自覚せず、運命に抗って生きる茨の道を、知る由もないのだった。
◇
赤い、赫い。どうしてこんなに、世界は真っ赤に血塗られているの?
それに、熱い。熱くて息ができない。体も動かない。目の前が赤く染まっていく。苦しい、助けて。誰か、誰か――。
「金になる物は全部奪え!残しておいても、灰になるだけなんだからな!」
「ギャハハハッ、死ねェ!下等な下民どもが!」
「ひぃぃ……ッ。やめろ、やめてくれ……」
「命だけは、助けてくれ!」
立ち昇る白煙と断末魔。周囲を満たし尽くすものは、むせ返るような血の臭いだ。狂乱した人々は、地面に倒れた怪我人や老人を置き去りに、我先にと逃亡を図っていった。焼き討ちに遭った村に残されたのは、動けない病人や非力な女子供が大半だ。食料や家畜、ありとあらゆる金品は全て夜盗に強奪された上、歯向かう者は容赦なく惨殺されていった。
「どうしよう、家が燃えちゃうよ……。おかあさん、早く逃げよう!このままじゃ、わたしたちも……ごほっ、ごほ……っ」
「いいえ、私は行けない……。だから、メルティーユ。あなただけでも、早く逃げて……」
「そんな……っ。おかあさんを置いていけないよ」
メルティーユは燃え盛る家の中、寝台の傍に膝をつき母の手を握りしめていた。しかし、母・ミリアは数年前から流行り病を患っており、起き上がる体力は当に残っていない。泣きじゃくる娘の手を振り払ったミリアは、掠れ声で毅然と続けた。
「メル。お願いだから、お母さんの言うことを聞きなさい。……逃げるのよ」
「いやだっ!わたしもここにいる……。おかあさんと一緒に……っ」
粉塵に塗れ、喉と肺を焼く熱風に煽られながら、メルティーユは母に縋りついた。その間も家屋は次々と焼け落ち、炎は勢いを増していく。
「ゴホッ、ゴホッ……おかあ、さ……」
ついに入口の扉も崩れ落ち、瓦礫と焔に囲まれた二人に逃げ場はなくなっていた。
「お母さん、だいじょうぶ。わたしが一緒にいるからね……。最後に、お姉ちゃんにも逢いたかったけど……無事でいてくれたら、いいな……」
耳をつんざく悲鳴と略奪者の嘲笑が、炎に飲まれて遠ざかっていった。朦朧とする意識の中で、メルティーユは覚悟を決めて瞼を閉じる。
――すると、その時。
「だ、だれ……?」
瓦礫を踏み分けて接近する複数の足音が、メルティーユの意識をゆさぶった。
「ブラウ様。この少女が、ですか?」
「ああ、例の娘だ。……急いで連れて行け」
「かしこまりました」
近づいてきた人影は一言、二言会話した後、メルティーユの腕を掴み上げ無理やり引っ張り上げた。
「来なさい」
「……っ、やめて……。わたし、お母さんと、一緒にいるの……。おねえちゃんを、待つんだから……」
長時間炎に包まれ心身共に疲弊したミルティーユには、抵抗する気力が尽きていた。鉛のような体をローブの男に抱きかかえられながら、彼女の意識は深い深淵へ沈んでいった。
◇
「いや、村が燃えてる……。助けて、誰か……誰か……っ」
「メル、メル!しっかりして」
「……あ……」
「ねえ、大丈夫?」
窓辺からの陽光とベッドサイドの視線を浴びたメルティーユは、まだぼんやりする瞼を擦りつつ、ベッドから起き上がった。
「もう、朝……?」
「ざんねーん。もうすぐ昼だよ。今日も魘されてたみたいね。また例のヘンな夢みたの?」
「……そうみたい。起こしてくれてありがとう、アンナ」
「いつものことでしょー?お礼なんていいから、早く支度して下りて来なよ。ナディとメイドのドリーさんが、食堂で待ってるからさ」
「うん、わかったわ」
メルティーユが毛布から這い出ると、アンナはやれやれと笑みを零し、ポニーテールを揺らしては先に部屋を出て行った。
――そう。ここは蔦みどろの館だ。そして私は、このお屋敷でアンナやブロウ様たちと暮らしている、身寄りのない娘。
姿見の前で寝間着を脱ぐと、白い無地のワンピースに袖を通して真紅のボレロを身に纏ったメルティーユは、ふうと一つ溜息をついた。長い銀髪を手櫛でさっと整えて、ブーツの紐を結んでから部屋を出る。壁時計の時間は午前十時を指していた。いい加減お腹を空かせたナディが食堂で不貞腐れている頃合いだろう。
自分の過去や出自について、メルティーユの認識は曖昧だった。屋敷の主・ブラウに保護されたのは、今から十四年前。四歳になった頃だった。
「故郷を襲撃されたショックで、記憶の混濁が起きたのだろう」と医者から説明は受けたものの、彼女は自身の名前以外、ほぼすべての記憶を喪失している。当然、家族のことも、貧しい南の農村で、自分がどんな生活を送っていたのかさえもだ。
毎晩繰り返し見る悪夢が過去に関係しているのでは……とアンナも推察していたが、メルティーユ本人は、夢の内容をほとんど覚えていなかった。灼熱の炎に巻かれて泣き叫び、誰かの名を叫んだ幼い自分の姿。思い出せるのは、その光景一片のみだ。
「あの、ブラウ様。わたしを助けてくれたのは、ブラウ様だと聞きました。……ブラウ様はわたしの家族や村のこと、なにか知っているんですか?お願いします、教えてください。わたし、知りたいんです、自分のこと……!」
「必要になれば、思い出す機会は訪れる。そうでないなら、無理に取り戻す必要はないんだよ、メル。アンナやナディもそうじゃないか。あの子たちも、家族を失くしてこの屋敷にやってきた。お前は一人じゃない。血の繋がった家族はいないかもしれないが、同じ境遇の仲間がいるじゃないか。それではいけないのか?」
「アンナやナディは、大切なともだち、です。でも……、わたし……」
「お前たちの絆こそ、何にも勝る紛れもない宝だ。失ったものを探そうとするのはやめなさい。――来るべき時が来るまでは、ね」
「ブラウさま……」
ブラウは幼いメルティーユが問いかける度、新緑の瞳を細めて諭すように言い聞かせた。メルティーユは、休日になると自室に籠り、魔導書を読み耽るブラウの職業が
頼れる家族もなく、故郷もすでにない。身寄りない非力なメルティーユを、ブラウは手厚く迎え入れてくれた。
「おいで、メルティーユ。ここが今日からお前の家だ」
「……家……?わたしの……」
「ああ。そうだ」
初めて蔦みどろの屋敷で、メルティーユが目を覚ました晩。ブラウに通された食堂は、あたたかい光と食欲をそそる香ばしい香りに満ちていた。天井から吊り下げられた宝石のようなシャンデリアがきらめき、テーブルに並んだ料理をてかてかと照らしている。
「座りなさい、メルティーユ」
戸惑うメルティーユを見たブラウは、彼女の手を恭しく取り席の前まで連れて行った。そして、彼女が座りやすいよう椅子を引いてから再度「どうぞ」と声をかける。緊張したメルティーユも空腹に抗えず、おずおずと着席して皿の脇のスプーンをつかんだ。
「……っ。これ、おいしい……!」
一口スープを啜ったところ、メルティーユの白い頬に血色が戻ってきた。薬草ハーブの匂いとほどよく煮込まれた具材の舌触りが、すっかりメルティーユの胃袋を掴んだのだ。頬を緩ませ夢中でスプーンを運ぶ彼女を見たブラウは、微かに笑みを零して言った。
「どうやら、食欲はあったようで安心したよ。ここへ来た直後は、人形のように虚ろな目をしていたからな」
「あっ、えっと……。ごめんなさい……」
「謝らなくていい。好きなだけ食べなさい。お前のために用意したものだからね」
「ありがとうございます。その、ブラウさま」
「はは……。そんなに畏まる必要もないよ。安心しなさい。ここにいるのはお前と変わらない年頃の娘たちだからね。すぐに仲良くなれるだろう」
「えっ、他のひともいるんですか?」
「ああ。今夜は先に食事を済ませて、自室で休んでいるはずだ。明日、落ち着いた頃に挨拶をさせよう」
「はい」
ブラウは正面の椅子に座り、ワイングラスに口を付けつつメルティーユの様子を眺めている。その視線に気恥ずかしさを感じながらも、美味しい料理に舌鼓を打つメルティーユ。会話は多くなかったものの、記憶の曖昧さに怯えている彼女にとって、心休まる一時だった。
屋敷には自室が用意され、住環境は整っている。さらにブラウはメルティーユに、教育を与えてくれた。そのおかげでメルティーユも、自分を取りまく世界について凡そは理解している。ミラディア王国は魔術大国として繁栄し、人々の生活には魔法が欠かせないのだが、資源自体は潤沢で平和な国だ。ミラディアは魔術の才に恵まれた者が権力と地位を握っており、能力のない一般国民は魔法による王政で管理されている、とのことだった。
初めて世界の仕組みを教わった時、メルティーユは五歳だった。一般教養どころか自我も薄い子供だったため、保護者のブラウと世話役のメイドに従うより他になかったのだ。
「この部屋は自由に使っていい。必要な物があれば私に直接伝えるか、屋敷を空けている際はメイドのドリーに言いなさい。可能な限り、手配させるようにしよう」
「……」
食事を終えた後、部屋に案内されたメルティーユは扉の前で立ちすくんでいた。
「……ん?どうした?この部屋に不満が?」
「いっ、いいえ……そんな。すてきなお部屋です……!」
足が震えているメルティーユに気づいたブラウは、彼女の肩を包み込むように叩いて声をかけた。欠乏感を抱えたまま流されている自分自身に、メルティーユは恐怖していたのだ。
「お前の気持ちも分かるつもりだ。事情があるとはいえ、唐突に見ず知らずの場所に連れて来られたのだから。……これを持っていなさい」
「これは?」
「お守りだ。私が特別な呪いを施してある。それを持っていれば、お前の身は安全だ」
ブラウから手渡された巾着型の小袋は、片手にすっぽり収まる程度の大きさだった。
――なんだか、砂糖みたいに甘くて、懐かしい匂いがする。
少し落ち着いたメルティーユが小声でお礼を言うと、ブラウは小さく笑みを浮かべ、彼女の頭を手のひらで撫でた。一瞬、びくりと肩を跳ね上げたベルティーユ。しかし、ブラウの手つきは優しく、メルティーユの震えは次第に静まっていった。
「おやすみ、メルティーユ」
「はい、おやすみなさい……」
ここが怖い場所じゃなくて、よかった。
ブラウの背中が廊下の曲がり角に消えていくのを見送った後、メルティーユは自室の寝台へぱたりと倒れ込んだ。
「だいじょうぶ。もう、ひとりじゃない……。ブラウさまは、やさしい人……。ここがわたしの家……。悪いことは、ぜったい、おきない……」
お守りに頬を寄せて自己暗示を続けると、津波のように押し寄せる不安は徐々に遠ざかっていった。布団にすっぽり潜り込めば、太陽を浴びた清潔なシーツが全身を抱きしめてくれる。どこか懐かしさを感じる匂いにくるまれながら、メルティーユはうとうと眠りに落ちたのだった。
ブラウからアンナとナディを紹介されたのは、メルティーユが屋敷に到着した翌日のことだ。以来、三人は同じ境遇である点からすぐに打ち解け、本当の姉妹のように仲睦まじく生活している。屋敷内で飲食を共にし、皆揃って勉強をしたり、盤上遊戯で朝から晩まで盛り上がった休日もあった。メルティーユはアンナの陽気な性格とナディの優しさに包まれて、徐々に元来の明るさを取り戻していた。なかでもアンナは臆病なメルティーユが慕う、姉代わりの人物になっていた。
「よーし!これで大体集まったかなー。メル、帰るよ。もうすぐ日が暮れちゃうし、屋敷まで競争ねー」
「アンナ、ちょっと待って!向こうに、ブラウ様のメモにある薬草が、もう一つあったの……」
メルティーユが特にアンナに懐くようになったのは、二人で屋敷傍の林に薬草摘みに出かけた日がきっかけだ。
メルティーユたちは家庭教師やブラウから学問を習う他に、家事の知識や一般教養をメイドのドリーに教わっていた。料理や薬の調合にはハーブを使うため、週に何度か採取予定が入れられているのだ。この日の薬草摘みは、アンナとメルティーユが担当だった。バスケットを手に持って、久しぶりの散策に張り切っていたメルティーユ。持参しているのは、薬草の名前とイラストが走り書きされたブラウのメモ紙だ。アンナと手分けしたおかげで日暮れ前には必要分を採取できたが、メモの裏にブラウの筆跡で〝ミノヅキ草〟と付け足された箇所があるのを、メルティーユが気づいたのだ。
「えー?もう全部採ったじゃん。どれー?」
やや前を歩いていたアンナが、メルティーユの声に答えて早足で戻ってくる。
「……あった!黄色の葉に星型の葉……これがミノヅキ草ね!」
メルティーユは大樹の後ろでひっそり咲くミノヅキ草に手を伸ばし、茎を掴んで引き抜こうとした。その時だ。
「ひゃあっ?イタ……ッ」
「メル!」
不意に茂みから飛び出したコズラヘビに、指先を噛まれてしまった。
「やだっ、離して……」
メルティーユの前腕ほどの大きさのコズラヘビは、鋭い二本の毒牙で彼女に噛みついてきた。人差し指の痛みに動転したメルティーユは慌てて振り払おうともがき、尻餅をついてしまった。
「動くんじゃないよ!手元が狂うから、ね……っ!」
「……アンナっ?」
「メルから離れなッ、この――……」
メルティーユの傍に颯爽と駆け寄ったアンナは、うねうね身をくねらせるコズラヘビの頭部を、ダガーナイフで一思いに切断した。胴体は青黒い血液を噴射しながらぼとりと土に転がったが、頭部は切断面から流血した状態で、数秒間メルティーユの指に喰らいついていた。
「う……っ」
指先に走るピリピリした痛みに、顔を歪めるメルティーユ。アンナは力尽きたヘビの牙が抜けると同時にメルティーユの手を掴むと、傷口に唇を当てて皮膚を吸い上げた。
「あ、アンナ……?」
「じっとして!」
アンナは傷から毒を吸い上げて応急処置を施すと、腰の抜けているメルティーユを安心させるように続けた。
「安心しなよ、メル。コズラヘビの毒は、命の危険があるものじゃない。暫く手はビリッとするかもしれないけど三日もあれば治まるし、軟膏はブラウ様が持ってるからね。屋敷に戻ったら、ドリーにちゃんと診て貰おう」
「うん、わかった。……アンナは、すごいね。わたしなんて、ビックリして何もできなかったのに……」
「とーぜんでしょ!アタシの方が年上なんだからさ。それに、ミノヅキ草に気づいたのはメルじゃない。採取はアンタのお手柄だよ。ほら、立てる?」
「うん……。あの、足が……」
「あー。逃げようとして、捻ったんだね……。……ったく、しょうがないなあ、ドンくさいんだから、メルは」
「ごっ、ごめん」
林に野生動物がいる点は理解していたメルティーユだが、これまでは野ウサギやリス、野鳥などの大人しい生物にしか遭遇する機会がなかった。ブラウから「警戒すること」と注意は受けていたものの、自分の無力さを痛感して涙が滲みそうになる。
アンナは茶化すようにけらけら笑うと「乗りな」とメルティーユの前に身を屈めた。
「おぶってあげるよ。代わりにアンタは、アタシのリュックサック背負ってよね」
「うん……。アンナ、ありがと」
アンナの温もりと鼓動の音は心地よく、メルティーユの恐怖心を拭い去ってくれた。一定のリズムで揺れる背中に身を委ねながら、メルティーユはアンナに声をかける。
「アンナはいつも、ナイフを持ち歩いてるの?」
「薬草が採取しやすいようにね。護身用も兼ねてるけど。万一のために、最低限身を守る道具が必要でしょ?アタシはブラウ様に、メルとナディを守れって言われてるんだからね」
「そうだったんだ。ブラウ様、わたしにはそんな話しなかったから……。ねえ、アンナ。アンナは自分の過去のこと、覚えてる?お屋敷に来る前の記憶とか……。家族のこと、とか……」
「……さあね。どうだったかなー。そんなのずいぶん昔のことだもん、覚えてないよ」
「気になったりしないの?思い出したくならない?」
「ぜんっぜん!アタシ、今の暮らしが気に入ってんの。それに、忘れちゃうような過去なんてさ、どうせ大したものじゃなかったんだよ。だったら、過去よりもこれからをどう生きるか……それが全てだって思ってる」
「それじゃあ、アンナはこれから、どうしたいと思ってるの?」
心地よい眠気に抗いながら、メルティーユはアンナに質問を続けた。メルティーユ自身も屋敷の生活にすっかり馴染み、アンナたちを信頼していた。今となっては、蔦みどろの屋敷以外の生活は、考えられないと思っている。しかし、いくらアンナやブラウに「過去は忘れろ」と諭されても、メルティーユの心は未だ、記憶のかけらを求めてやまなかった。
「…………」
「アンナ?」
「あははっ、ざんねーん。ナイショだよー!」
「ええっ、気になるよー……!教えてよ!」
「だって。アンタが知りたいのは、アタシの意見じゃないんでしょ?……自分のやりたいコトは自分で探しなよ、メル」
アンナは可笑しそうに笑いながら、軽い足取りで林の間を抜けて行った。アンナの傍にいる時は、メルティーユの物思いは軽くなる。
「わたしね、アンナといると不思議な気持ちになるんだ。なんだか、懐かしい感じ……。ずっと前にも、こんなことがあった気がする……」
「へー。コズラヘビに噛まれたことが?」
「もうっ、そうじゃなくて!なんだかよく分からないけど、安心するって意味」
「ぷは……っ、はいはい。わかった、わかった。とにかく、そんなに悩まずに今を楽しめればいいじゃん。メルにはアタシたちがいるでしょ?」
「うん……。そうだね」
――お屋敷の皆との生活を、ずっと大切にしたい。一番年下で頼りないけど、わたしもいつかは、みんなの役に立つ人になりたい。
屋敷の仲間として自覚が芽生えると同時に、自由への羨望と捨てきれない過去への探求心も膨れ上がっていく。葛藤に揺れながら、メルティーユはアンナの鼻歌を子守唄に瞼を閉じた。
◇
「ごめんね、ナディ。寝坊しちゃった……!」
「またですか~、もう……。せっかくブラウ様が、新しい魔術式目覚まし時計を取り寄せて下さったのに」
「それがね。あの時計、壊れちゃったんだ」
「ええっ?ひと月前に、いただいたばかりでしょ?メルちゃんが、乱暴にしたんじゃないんですか?……寝起きも寝相も悪いみたいですし」
「うっ、そんなことないよ……!ホントに急に、音と光が出なくなっちゃったの」
食堂のテーブルに礼儀正しく着席してメルティーユを待っていたのは、メルティーユより二つ年上、十九歳のナディだった。彼女はメルティーユが蔦みどろの館に保護される三年前に、ブラウの使者の手によって屋敷へ匿われていた。
おさげとそばかすがチャームポイントで翡翠の大きな瞳が愛らしいナディだが、外見に反して歯に衣着せぬ物言いをするしっかり者だ。メルティーユは年が近いナディとは対等に冗談を言い合い、ランチのメニューを交換するほど気さくな関係になっていた。
アンナのことは姉妹のように慕うメルティーユだが、ナディはどちらかといえば、親友のような立ち位置だった。
「ほらほら、二人とも。スープが冷めちゃうから、はやく食べちゃいなよ。ほら、ドリーがコッチ睨んでるよ。……あ、そうだ。ドリーは朝食済んでるの?そんなトコに突っ立ってないで、一緒に座って食べようよ!」
メルとナディが隣同士でじゃれ合っている中、正面の席でティーカップに口を付けているのがアンナだ。艶やかな黒髪をかき上げながら、壁際に立つメイドのドリーに目配せしている。
「いえ……。わたくしのことは、お構いなく。ハーブティーとフルーツジュースのお代わり、ただいまお持ちしますね」
だが、一礼したドリーは和気藹々とした朝食の場を離れると、厨房に立ち去って行った。
「ドリー、最近ちょっと顔色良くないよねー……」
アンナはドリーの様子に、思うところがあるらしい。クロワッサンを一口分ちぎると、ぽそりと小声で呟いた。メルティーユもそれにならってパンを一切れ口に運ぶ。暫しの沈黙が落ちた後、ナディが頷いて続けた。
「そう言われてみると、たしかに元気がない気がしますねぇ。なんとなく、ですけど」
元々、ドリーはブラウに仕えるメイドだ。メルティーユたちとは身分が違うと、ブラウからは説明を受けていた。しかし、幼少期から十年以上も一つ屋根の下で生活している状況に変わりなく、地位や立場を抜きにして家族の一員と呼べる存在だった。
幼くして家を失い路頭に迷った少女三人は、ドリーから多くの知識を教わってきた。マナーや一般常識、生活する上で必要な最低限の教養と知恵……。森の外への外出はブラウの許可がない限り禁じられていたが、それでも何不自由なく三人が成長したのは、ドリーの献身があってのことだ。
「わたし、後片付けの時にドリーと話してみる」
スープ皿の底に沈んだマメを掬いあげ、メルティーユはスプーンを啜った。屋敷の家事は、三人が当番制でこなしている。ドリーの指示に従い、簡単な雑事を手伝うようにとブラウからも指示されていた。
「いいんじゃない?でも、深入りはナシだからね、メル!」
「そうですね。メルちゃんはちょっとうっかりというか、天然さんだから……。ドリーさんを、困らなせないようにしてくださいね」
「もう。アンナもナディも、子供扱いしないでよ。わたしだって、もうすぐ十八歳になるんだから」
年上二人に茶化されつつ、わざとらしく頬を膨らませるメルティーユ。三日後のマリーンの月・五日は、メルティーユの誕生日だ。すまし顔のナディがくすりと笑うと、席を立ったアンナが「誕生日ね、忘れてないよ」と年長らしくフォローを入れたのだった。
「ドリー、ご馳走様。片付けはわたしがするから、今日はもう休んでて」
「……メルティーユ様……。いえ、そんな。お気遣いは不要です……」
調理場では、顔色の悪いドリーが一人で食器を片付けていた。肌には生気がなく、目の下の隈は痣のように浮き上がって見える。
「それに、調理場にはブラウ様がご用意して下さった、
濡れた皿を水切り籠に投入すれば、後は籠の底に敷き詰められた
ドリーやメルティーユのように術師ではない者が、誰でも自在に魔法を使うためには魔力を込めた触媒が必要になる。その為、ミラディア王国で一部の富裕層や術師に普及しているのが、この魔法石だ。魔法石には‶魔力の種〟が埋め込まれており、それぞれの属性によりもたらす効果が異なっている。たとえば「紅」ならば炎属性で熱や火を司り、「蒼」なら水属性で、冷気や水を司る――といった具合だ。
屋敷では主のブラウが月に何度か市場で魔法石を仕入れて支給しているが、一般市民には容易に手が出せない金額だ。魔法石は調理時の加熱や冷凍、室内の照明に至るまで生活のあらゆる場面で重宝される、ミラディア王国の高級燃料のひとつなのだ。
籠の中から乾いた皿を取り出すと、ドリーはてきぱき食器棚へ戻していった。
「この通り、大抵の家事は不自由なく片付きます。ですから、メルティーユ様はお気になさらずに」
「ドリー。わたしだって、何かしたいよ。ずっとお屋敷にいて、ブラウ様やドリーにお世話になってるだけなんだもの」
「メルティーユ様たちには、必要な時にお力を貸していただければ、それで充分です。わたくしとブラウ様にとって、あなた方は大切な――」
「……ドリー、必要な時って?」
食器棚の戸を閉めた、ドリーの指先と言葉がぴたりと止まった。不思議に思ったメルティーユが覗き込もうとすると、ドリーは静かに首を振る。
「いいえ、なんでもありません。それよりも、三日後はメルティーユ様のお誕生日ですね。おめでとうございます」
「……あっ、そうだね」
「ブラウ様ともご相談しまして、当日の夜はささやかな晩餐会を開く予定でおります」
「う、うん。当日、楽しみにしてる」
――話を逸らされた気がする。釈然としないものを感じつつ、ドリーの性格上、簡単に口を割らないことはメルティーユも理解していた。
メルティーユが初めて屋敷に来てから十四年あまり。当時二十代前半だったドリーも、今は三十代の半ばを迎えている。幼いメルティーユは記憶の混濁が著しく、日常生活に支障をきたすこともあったが、ドリーはいつも甲斐甲斐しく世話を焼いてくれた。
両親の愛情を知らないメルティーユは、自分を守り育ててくれたブラウに理想の父親像を投影し、ドリーには母への憧れを重ねていた。しかし、雇われメイドという立場のためか、ドリーはメルティーユたちと一定の距離を保ち、親しくなっても本音を語ってはくれなかった。
「あの、メルティーユ様」
「なに?」
諦めて厨房を去ろうとした時、ドリーが不意にメルティーユを呼び止めた。振り返るとそこには、穏やかなドリーの笑顔がある。
「いよいよ、メルティーユ様もご成人になられるのですね。当日、ブラウ様からお話があると思います。メルティーユ様にとって、よい一日となりますように……」
「ドリー、ありがとう!それじゃあ、部屋に戻るわ。お昼の後片付けは、ちゃんとお手伝いするから」
「はい、かしこまりました」
ほっと気を持ち直したメルティーユは、軽く手を振りながら厨房を出て行った。廊下の足音が遠ざかると、両手をエプロンの胸に当てたドリーは、ひとりでにぽつりと呟く。
「……ミラディアの女神、イリアーヌよ……。どうか、わたくしたちの罪を、お許し下さい――」
静寂に包まれた館の中で、ドリーの真摯な祈りを聞き届ける者はいなかった。
◇
ミラディア王国に伝わる神話に、とある神の天地創造の話がある。まだこの世界に大地も海も、生命も存在していなかったころ……。女神イリアーヌは生まれたての星の上に、自分の魂を十二に分割して、十二の光のこどもたちを生み出した。
やがて光のこどもの涙は海となり、憤りが大地を成し、微笑みは花となって芽吹き、土地に生命を育んでいった。しかし、生まれたばかりの命には形がなく、留めておくことができない。手に取ろうと思っても、抱きしめようと願っても、触れることが叶わなかった。そこで女神イリアーヌは、いのちを保管するための器を創ることにした。
その器に選ばれたモノが、女神が己の姿を模して創造した〝人間〟という生物だった。イリアーヌは人間に平等に魔力を与え、知恵を授け、星という箱庭の中で大切に慈しみ、育んできたのである。
こうして、初めての命が星に誕生してから気の遠くなるほど歳月が過ぎたころ――。人間たちはイリアーヌの手から離れ、個を主張するようになった。イリアーヌから直接生まれた十二の光のこどものように純粋な力を受け継ぐ生命はごく少数となり、人間たちは自我と生存本能に執着するようになってしまう。その結果、女神から享受した貴重な魔力と潜在能力を、自ら手放してしまったのだった。
メルティーユは机上で「ミラディア創世記」のページをめくると、溜息とともに指先で紙面をなぞった。この創世記はミラディア王国に生きる者なら誰でも一度は耳にするポピュラーな神話で、今日に至るまで語り継がれてきた。一部の学者や歴史研究家の間では、この創世記こそミラディアの起源であるとの見解が述べられている。
「女神・イリアーヌの魔力と叡智を受け継ぐ者こそ、この世界を統べるべき」という選民思想は王都の国民を中心に広がっており、イリアーヌを崇拝する〝イリアス教〟はミラディアの人々の生活基盤になりつつあった。
「退屈ね、エル……」
「みゃ?」
「命あるものはみんな、女神イレーヌから生まれた〝分身〟なんだって……。だから、この王国では魔法が使える魔術師が、でも、女神さまが本当にいるのなら、どうしてこんな狭い世界に、わたしたちを閉じ込めたりするのかな……」
子猫のエルは顔を前足で擦った後、ぴょんとメルティーユの膝に飛び乗った。メルティーユは小さなぬくもりを撫でながら、ぼんやりと窓の外を眺める。
生い茂る木々に囲まれたこの森は、日中も薄暗く光が差さない。しかし、命の保証はされており、生きていく分には不便はなかった。それこそ、このミラディア創世記の中に登場する、女神イリアーヌの箱庭のように。
「エル。わたしね、なんだか胸騒ぎがするの」
エルは長い髭をひくひくさせて、心地よさそうに喉を鳴らしている。不安要素を感じない日常と裏腹に、メルティーユは得体のしれない焦燥を感じていた。
――ちょうどひと月くらい前から、同じ悪夢を繰り返し見ている。
それは、失った過去を暗示させるものと分かっていたが、断片的にしか内容が思い出せなかった。赤い炎に飲み込まれる村。泣き叫ぶ人間たち。誰かの醜い笑い声。記憶の中から喪失してしまった、自分の家族――。
アンナやナディも幼少期に身内を亡くしているのだが、過去について一切語ろうとしなかった。彼女たちがメルティーユと異なる点は、自分たちの現状にこれといった不満を抱いていない点だろう。
とくに、最年長のアンナはブラウに心酔しており、三人の中でも一際目をかけられていた。彼女だけはブラウに同行して外出する日が月に数回あり、その間はメルティーユとナディが二人でドリーと留守番をしていた。
「アンナったら、寝る前に本を読む約束してたのにいないのよ。また、ブラウ様のお部屋に行ったの?」
「アンナちゃんは、ブラウ様のお気に入りなんてすよ。仕方ありませんね」
「なに、それ?」
「特別って意味です」
「どうしてアンナちゃんだけなの?わたしとナディは、とくべつじゃないってこと?」
「うーん……。メルちゃんには、まだ少し早いお話でしたねぇ」
「えー?」
メルティーユが十一を数える頃、アンナは頻繁にブラウの部屋に呼ばれるようになった。ナディは二人が特別な関係であると示唆していたが、純朴な少女のメルティーユに意味が通じるはずはない。
また、三人は屋敷の庭を出歩くことはできるが、日中の決まった時間、昼食前か後の一時間だけと決まっていた。ただし、運動不足は健康上問題があるので、森を散策する日が二週間に一度だけあり、魔法の触媒や食用になる特定の薬草を採取するよう指示された。
それ以外の時間は、ブラウから魔法学や薬草学についての知識を学んだり、一般教養を身に付ける名目で週に二度、馬車で屋敷を訪れる家庭教師から指導を受けた。三人とも個別に予定を組まれていたが、空き時間は自由に屋敷で過ごすことが許可される。衣類や日用品はもちろん、欲しい物がある場合でも、必要に応じてブラウから支給されるので、生活自体は裕福だった。場合によっては、恵まれた生活を羨ましがられることだろう。
毎日毎日、ただ淡々と指示通りの日常をこなす――それだけだ。
軟禁された三人の中で唯一メルティーユだけが自分の過去を追い求め、未来に疑問を抱いていた。
今日はランチまでは予定のない日だが、なんとなく息が詰まったミルティーユは、じっと待っていられなかった。ミラディア創世記を本棚に戻すと、麦わら帽子をかぶってロビーへと向かう。ドリーに許可を得て
すると、階段を降りたメルティーユの目前で、重厚な玄関扉がまばゆい銀の光をらせん状に放出して開閉した。仕掛け扉を自在に開閉できるのは、主であるブラウと、留守を預かるメイドのドリーのみだ。メルティーユは恩人としてブラウを尊敬しているが、金の前髪の下から鋭い視線を向けられた時だけは、どうにも胸がざわめき落ち着かなかった。
「ブラウ様、おかえりなさい」
「ただいま、メルティーユ。その格好は、庭に出るつもりだったね?」
「は、はい。まだお昼前だから、息抜きがしたくなって」
「それならば、私も行こう。話したいことがある」
「……わかりました」
純白のローブの裾から伸びた手が、メルティーユの手のひらをさりげなく握りしめる。ブラウの掌は昔から大きくて、やや骨ばった硬い感触がした。メルティーユにとってブラウは父のような立場だが、館にいる唯一の男性であることからも、緊張感と畏怖の念を感じた。
庭先に踏み出した途端、森全体を包む植物の淡い香りがメルティーユの鼻腔を擽った。この庭はいつも、無垢な少女をやさしく出迎えてくれる。屋敷の壁と同じく煉瓦造りの花壇には、色鮮やかな花と薬草が咲き乱れていた。
「何か悩みごとでもあるのか?」
「えっ?どうして、わかったんですか?」
「はは、それくらいは当然だろう。お前とはもう十四年の付き合いだからね、メル」
「……はい」
「話してみなさい」
花壇を覗き込みながら、ブラウが静かな声音で告げる。メルティーユはなんとなくドギマギしつつ、観念して口を開いた。
「説明できない感覚なんです。最近わたし、自分がこのままでいいのか、不安になります。アンナやナディ、ドリーがいつも傍にいてくれて、お屋敷の生活は平和なのに……。毎日、幸せなはずなのに」
「人間とは、そういうものだ。幸福というぬるま湯にひとたび浸ってしまえば、感覚が麻痺してしまう。そうして次は、身の丈以上の刺激と更なる幸福を追い求めようとするんだ――。人の欲には、際限がないからね」
花壇に屈みこんだメルティーユの隣に、ブラウも同様にしゃがみ込んだ。そして花壇に咲き誇る甘い香りのホライズの蕾に触れると、それを一輪手折ってみせた。
「ブラウ様……!どうして花を摘むんですか?まだ、つぼみなのに……」
「メルには教えてなかったか。この花はホライズという薬草だ。蕾の時期に摘み取って乾燥させ、正しい手順を踏めば薬になる」
「あ……。じゃあ、この花壇の花はみんな、薬のために植えていたんですか?」
「……大半は、ね」
ブラウの手で握られたホライズは、紫のふっくらした丸い蕾と菱形の細い葉身を、だらんと力なく垂れていた。
「そんなに、過去が気になるのか?」
「……。このところ、毎晩同じ夢を見るんです。燃え盛る炎に焼かれた人たちの悲鳴が、耳の奥から離れなくて……。わたしに何かを思い出せって、伝えているみたいでした」
「そうか……」
ブラウはその場を立ち上がり、ぶ厚いうね雲目がけて飛んでいく野鳥を、静かに見つめながら言った。
「お前は覚えていないかも知れないが、屋敷に来たばかりの頃も、同じようなことを言っていたな。自分の過去を知りたいんだ、と」
「は、はい」
メルティーユは、曖昧に頷いた。保護された当初といえば、記憶の混濁がかなり著しい時期だ。その上、十年以上も昔になれば詳細まで覚えていない。
「私が知っていることは多くはないが、お前がそこまで望むのならば話せる範囲で教えてやろう」
「ほんとうですか!?」
ブラウの方から提案されるとは、願ってもいないチャンスが到来した。思わず飛び上がったメルティーユは、ブラウのローブの前を引っ張ってはしゃいだ。子供のように無邪気な仕草を見たブラウはやれやれと息を吐き、しかし眉一つ動かさぬまま告げる。
「お前の十八の誕生日、晩餐会の席で話そう。それが私からの誕生日プレゼントだ。……いいか?」
「はい、ありがとうございます……っ」
メルティーユの胸は、生まれて初めて砂糖菓子を食べたときのような、じんわり広がる喜びでいっぱいになった。〝今すぐ〟でない点に引っかかりはするものの、特別なバースデープレゼントを貰えるとなれば、緩む頬を隠せない。
「ぜったいに、約束してくださいね、ブラウ様!」
「ああ。約束は守る。さあ、そろそろ戻ろう。昼食に遅れたら、またナディがへそを曲げてしまう。行こうか」
ブラウはホライズの蕾をローブの内ポケットにしまい、先に屋敷へ引き返し始めた。メルティーユはその端正な横顔に一瞬目を奪われつつ、慌てて広い背中を小走りで追いかけていく。
――もうすぐ、わたしの誕生日。屋敷を出ることのないまま成人を迎えるけれど、やっと真実が分かるんだ。十八歳になったら、何かが変わるかもしれない……。
メルティーユの鼓動は期待と焦燥に駆られつつ、森の木立と共にさわさわと揺れていたのだった。
メルティーユは幼い頃から、絵本や児童書が好きだった。蔦みどろの屋敷にある本の大半が学問のための歴史書や魔導書など、専門的な知識が必要な書物ばかりだったが、その中でもメルティーユが気に入っていたのは「星のこどもと空のこぶね」という子供向けの読み物だ。
〝星のこども〟という設定は、恐らくミラディア創世記をモチーフにしたのだろうが、とくにメルティーユが興味を持ったのは「こぶね」という乗り物である。
舟は水上を渡る乗り物という知識はあるものの、実際の舟を目にしたことがない。物心ついた時から森で生きている以上、近隣の湖や小川は知っていても、海を見たことがないのは当然の話だった。
三人の星のこどもは宮殿で王様と共に暮らしているが、外の世界に触れることは禁じられていた。しかし、舞踏会のとある夜に出逢った魔法使いに魔法の小舟に乗せてもらったのをきっかけに、宮殿を脱出しようと決意する。その舟はある時は雄大な空を飛翔し、またある時は大海を悠々と流離っていった。こうして星のこどもたちは世界の広さを知り、めくるめく冒険の旅へと身を投じていくのだった。
この冒険物語が、メルティーユの心を大きく揺さぶったのは言うまでもない。星のこどもたちの境遇が自分と重なった点も、感情移入に拍車をかける一因だった。しかし、目を輝かせて本の感想をドリーに報告した次の日には、本棚から「星の子どもたち」が消えてしまった後だった。
ドリーはメルティーユの消沈した様子に表情を曇らせ、部屋の本棚に目を走らせては、ぶつぶつと呟いた。
「ブラウ様は案外、うっかりしておられますね……。子供向けの本を取り寄せたは良いものの、内容までは目を通さなかったのでしょう……」
「なあに、ドリー?ブラウさまがどうかしたの?」
「いええ、なんでもございません。さあ、メルティーユ様、そろそろお勉強の時間ですよ。お支度をしてください」
「はぁい……」
あの本を読んでいたのは、どうやら最年少のメルティーユだけだったらしい。ナディやアンナに問いかけてみても、口を揃えて「そんな本あった?」と首を傾げるだけだった。ナディは読書はするものの、児童書よりも大衆向け小説を好んでいたし、アンナは音楽の専門書や、ブラウに勧められた魔導書ばかりを読んでいたので、存在すら知らなかったのだろう。
お気に入りの本を失いショックを受けたメルティーユだが、その後はブラウから新しい絵本を数冊買い与えられたので、次第にこの件を忘れていった。
――いつの間にか馴染みの児童書は全て消え、代わりに文学書と魔導書で埋め尽くされた本棚を憂いつつ、メルティーユは一人でベッドにもぐりこんだのだった。