杏菜は、母の真由子と住む家で、身の回りの自分の荷物の整理整頓をしていた。
あんなに綺麗にした部屋が、真由子と前と同じ乱雑に散らかり始めた。
SEE GLASSES PART2の商品をアンケートモニターをするという条件で無償で譲り受けた。コンタクトタイプのもの。時々、目の潤いが足りなくて、乾いてしまう。普通のコンタクトと同じ扱いだが、どちらも外すとすっかり目が見えなくなるというデメリットがあった。外せるが、付け方が難しい。片目ずつやるか、誰かのサポートがないとつけにくい。
メガネの方が楽だったかもしれないが、前もって、外科手術をしないといけない。手術費用が膨大にかかることもあって、避けていた。
目が見えることもあって、さらに綺麗にしたいという気持ちが大きくなった。
荷物を片付けるのには、そのほかにも理由があった。
インターフォンのチャイムが鳴った。
「はーい」
杏菜は、待ってましたと言わんばかりに飼い主が帰ってきたペットの犬みたいな雰囲気で、玄関に駆け出した。
「よ、調子どう?」
折り畳まった大きな段ボールを何枚も持って、湊がやってきた。商品発表会から1週間後、湊の仕事の都合で会えるのが今日になっていた。
それまでこれでもかとほこりかぶっていたスマホで連絡を取り合っていた。メッセージや電話を会えていなかった時間を埋めるように毎日取り合った。既読にならないなとわかるとすぐ電話するし、出られないってわかった時点で、なんでもないスタンプを何個も送っていたずらした。返事がなくても楽しかった。スマホの画面が見える。返事もかける。何の障害もなく、電話もできる。
この上ない幸せだった。
段ボールを持ったまま、部屋の中に入る。真由子が湊の顔を見てニコニコしながら、頷いた。
挨拶する間もなく、マシンガントークをする杏菜がいたからだ。湊の横から離れない。他愛もない話でひとり話し続ける。
「昨日、結子とカラオケ行ったの。あの子、すごい歌うまかったの。楽しかったなぁ……」
ふと足元を見て、まだ片付いてない化粧道具や文房具、スマホの充電器、洋服などで床が散らかっていた。
「……あー、あと、今、荷物を片付けてたところ、その段ボールに入れていいの?」
「あ、ああ。話聞いてなかったけどいい?」
「は?! なんで、今たくさん話したよ? なんで聞いてないの?」
「いや、情報量が多くて入ってこない。てか、待って。すいません、真由子さん、これに書類書いてもらってもいいですか?」
湊は持っていたクリアファイルに 入っていた書類を真由子に渡した。杏菜は何のことか分かってなかった。
「あ、例の件ね。分かった、書いておくわ」
「え? なんのこと? 2人で何話してるの?」
「その家電の承諾書とか保証書。アンケートの紙とかね。かなり高額だから丁寧に扱わないとね。保証もあるけどさ。書類はそれだけじゃないけど……」
「役所は平日しか空いてないですからね」
「そう、頼んで正解だったわ。ありがとう」
「え? なんで。いつの間に2人ともそんなに話してるの。そんな仲だった?」
真由子は湊の横に行き、左腕をがっちりと掴んだ。杏菜は、2人の様子を右左と何度も見た。
「そう、新しい恋人?」
「いや、俺、年上、勘弁なんです」
「は? 断るんじゃないよ。失礼なやつねぇ」
「すいません」
「わかってますけど!! ほら、杏菜、それ、片付けなさいよ」
「わかってるよぉ」
杏菜は湊が持ってきた大きな段ボールにどんどん荷物を詰め込んだ。引っ越し作業だ。
いつの間にか真由子と湊が交流しているのには理由があった。また一緒に暮らすことになったのだが、湊は引越ししていて、今度は前の家とはまた違う場所でかなり広い賃貸マンションにしていた。1階にはコンシュルジュ完備の寝泊まりができるゲストルームも存在する。
間取りは3LDK。住むのは、杏菜だけじゃなく、真由子も一緒にということだった。どうしても、2人暮らしだと満足な介助ができない。SEE GLASSESがあるからいいかと思われた。
その話を聞いた真由子は疑問に思うことが
たくさんあったが、家賃を払わなくていいという条件だったため、承諾した。
だが、何だか複雑な心境の中、鎖に縛られた感じがして、落ち着かなかった。
ちょうど今住んでいたアパートの契約更新でもあったため、引っ越しはしておこうと考えた。
「新しい家、楽しみだなあ」
「広いは広いけど、忙しくて荷解き全然できてないから片付いてないよ。使ってない部屋はあるけど」
「ねぇ、一ノ瀬くん。杏菜には言ったの?」
「え、何のことすか」
「あー、ううん。なんでもない」
真由子が一緒に住むことは杏菜は知らない。真由子はそれを言ったら、断るのだろうかと心配したからだ。湊も忙しくて言う暇もなかった。引っ越しの当日の今日、湊とともに新しく過ごす部屋に着いて慌てて、窓から見える高い景色を眺めた。
少し遠くに見えるスカイツリーや綺麗な街並み、そしてビルがたくさん立ち並んでいた。真下では車やバスが行き交っている。横断歩道では歩行者たちがすれ違っている。
やっと見えた久しぶりの窓の景色に荷物をそっちのけでしばらく見つめていた。
その杏菜の様子を見て、湊は心の底から安堵した。
「真由子さん、杏菜がかなり喜んでますよ……あ、あれ」
後ろをずっと着いてきたとばかり思っていた。荷物だけ玄関先に置いて、真由子の姿は見えていなかった。ぽつんと紙切れが段ボールの上からひらひらと床に落ちた。
『私はお邪魔かな。末長く、お幸せに暮らして私は今までずっと1人だったからこれからも1人で生きていけるから気にしないで杏菜によろしく』
走り書きで書かれたメモが信じられなかった。玄関のドアを開けて、外を見る。誰もいない。姿、形もなかった。
「嘘だろ。また杏菜ひとりにするのか。あの人は」
持っていたメモをクシャと丸めた。
「湊、どうしたの?」
何かを察した杏菜は玄関の方に駆けてきた。ぎゅっと体を抱きしめた。
「ん、苦しいよ。急にどうしたの?」
湊は杏菜の口を唇で塞いだ。壁に体を押し付けて、さらに熱を帯びた。顔を近づけて、額と額をくっつけて言う。
「杏菜、結婚しよ」
「え?」
「もう言わない」
「うそ、聞こえなかった。もう1回、聞きたい」
「男に二言はないの」
「んじゃ、今だけ女子になって」
「なんだそれ」
話しながら、杏菜をお姫様だっこして、部屋の奥の方に連れて行った。お互いの荷物が入ったままの段ボールが散らかっている。
唯一、綺麗に整っていたのはベッドがある寝室だった。内心大丈夫かなと不安になる
湊だったが、当たって砕けろだと思いながら、来ていたスーツを脱ぎ捨てて、杏菜の白い肌を指先でそっと触れた。
「嘘、嘘。見ていいの? 本当に? 抵抗しない?」
「……? それ男が言うセリフだろ。抵抗しない? って聞くの意味わかんねぇ」
そう話しながらも上から順に愛撫した。少し緊張して手が震えていた。杏菜は湊の手をぎゅっと握って自分胸にそっと当てた。
「すっごいドキドキしてる」
「う、うん」
「知ってるよ。晃太さんに聞いたから」
「え?」
「双子ちゃんでしょう?」
「と、遠回しすぎるだろ、それ」
「いいじゃん。まさか、ホストしててそんなんだとは思わなかった。ガードめっちゃ硬いじゃん。女子みたい」
「な、なにをぉ?」
「でも、いいの。私、関係ないから」
「は?」
お互いに裸のまま、杏菜は湊の後頭部に手を回して抱きしめた。
「どんな湊でも愛してるんだもん」
最高の告白に涙がこぼれた。ずっと隠し通してきたプラトニックであることのコンプレックスが克服された気がした。どんな自分でも受け入れてくれる人に会えたことが幸福だった。
生まれて初めての体験は不器用だった。慎重に進めようとするが、ミスが生じる。
「ちょっと、やめて。くすっぐたい。無理無理無理」
触り方が微妙だったのか。くすぐってるつもりはないのに拒否された。
「そうやって、1人で独走するからだよぉ。経験者に任せないって」
「……なんかすいません」
高学歴、高身長、高収入の湊でも、欠点がある。できないとは言いたくない。しかも人任せもあまり得意ではない。1番に引っ張って行きたいタイプ。杏菜には素直に謝れる時もある。それが今だった。
そのまま、杏菜のペースに任せて、どうにか事なきを終えた。
お互いにたくさんの汗をかいて、息が荒かった。
「凄い久しぶりだったけど、大丈夫だった」
「お、おう」
その返事に杏菜は笑いがとまらない。まさかの事態に信じられなかった。
いつも強がって、なんでもできますって言う湊にできないこともあるんだなと感じた。
「湊の欠点っていいよねぇ」
「へ?」
「ううん。なんでもない」
「なんだよぉ。」
「全部大好きってこと」
「……俺も」
額と額をくっつけて、見つめ合う。くすくすと笑みがこぼれる。
このままずっとずっと幸せが続けばいいなと願う。
◇◇◇
色鮮やかなたくさんの花が植えられた広い庭でカラフルな風船が飛び交っていく。
階段から降りて来たのは、ふわふわの純白のドレスに身を包んだ杏菜と黒のタキシードを着た黒髪の湊だった。
たくさんの祝福してくれる友達や上司、先輩や教授に囲まれて、ライスシャワーを浴びていた。
結婚式場の建物から階段で下までおりると、杏菜は持っていたブーケを女性参列者の方へ後ろ向きで投げた。
見事に受け取ったのは、ヘルパーの堀込 智の隣にいる宮守 結子だった。感極まって泣いている。
「嘘、私、受け取った。堀込さぁん!!!」
堀込は、ヨシヨシと青いドレスを見につけて結子の頭を撫でていた。案外結構相性は良さそうな2人だ。杏菜はその様子を遠くで見て、円満の笑みを見せた。
湊はドレスを着た杏菜をお姫様抱っこし、小鳥のような口づけをして、カメラのフラッシュが何度も光った。
杏菜と湊の左手にはプラチナの結婚指輪が光り続けていた。
雲ひとつない空にはたくさんのカラフルな風船が浮かんでいる。
東の空からジャンボジェット機がお祝いするかのように大きな音を立てて西の空へ飛んでいった。
東京の大勢の人々が行き交う交差点。街中の隅っこ。
初めて会った裏路地の空き缶が転がるゴミ箱付近には野良猫が尻尾をくねくねして歩いていた。
【 完 】