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第52話 失って気づくもの

杏菜は湊に一緒にいるのは無理と言って荷物を持って、家を飛び出した。と言ったものの、行くあてなど考えていなく、白杖をしっかりと握りしめ、街のど真ん中、交差点を颯爽と歩いていく。歩行信号機のかっこうのサイレンが今日はやけに耳障りだった。


たくさんの人混みの中を歩くのもだいぶ慣れてきたが、目標もなく歩くのはなぜか空虚感が溢れ出てくる。本当は行きたくないが、血縁に頼るしかないだろうと、久しぶりに母の自宅つまりは実家を訪ねてみた。日中は、家の中で寝ているはずと思いながら、そっと玄関のドアを開けた。案の定、ゴミ屋敷のように散らかった部屋の中央、書類にまみれたソファでいびきをかいていた。


まだ、目が見えていない杏菜は部屋の状態が大体想像がつく。


細々した破片を足で踏んだ時は床が凶器じゃないかと思えてしまうほど。


目が見えないことによって、母が住むこの家はゲームでいうところのダンジョンじゃないかと考えてしまう。



「んー? あれー、すごい久しぶりに見る顔だ」


 母がガサこそと音が聞こえたため、目が覚めた。


「あ、ごめん。起こした?」

「杏菜、どこで生活してたの? あの、ホストしていた彼氏〜?」


 あくびをして、着ていたキャミソールのずれ落ちたひもを整えた。台所に行って、冷蔵庫をのぞいた。


「彼氏じゃないよ。ルームシェア」

「そーなんだ」


 母は、冷蔵庫から昼間だというのに缶ビールを開けた。昨日も仕事だったのだろう。風呂にも入らなかったのか、匂いがきつかった。杏菜には見えないが、厚化粧がそのままだ。


「ちょっと、住むところなくなったから」

「……へぇ、何もしてあげられないけどいいの?」


 ひっくと言いながら、とろんとした目で杏菜を見る。本当は杏菜が来てくれたことが嬉しかった。どんなに近づいても母の顔は見えない。


「うん。大丈夫。今は、障害年金入ってるからお金の心配はないんだけど、

 住む場所の確保が難しいから」

「ふーん。部屋の隅っこなら、いくらでもどうぞ」


 狭い空間の中に母が寂しさのあまりにたくさんブランドものの服やバックや大きなクマのぬいぐるみ買ったものだらけ。足の踏み場もない。部屋の隅っこといえば、1畳あるかないかのスペースが杏菜の居場所だ。掃除も行き届いていない。どこもかしこも見えないリスクが死にいたるのではないかという感覚だ。


 この部屋のことを思うと湊は綺麗好きで、掃除洗濯料理を全てに置いて丁寧だったんだなと改めて気づいた。杏菜の母の真由子は、以前と比べてさらに痩せていた。骨が見えるくらい。でもそれは杏菜の目では確認できない。ホステスの仕事は夜働いて、昼間はほぼ寝ている。基本家は寝泊まりするところだ。


 杏菜と一緒に住んでいた頃は、夜のホステスとお弁当のパートを兼務していたが、体に無理が祟って、今は、ホステスのみの仕事だった。


 娘がそばにいないという寂しさからか食欲がさらに減る。忙しさにかまけて1週間に何食食べていたかくらいだ。 部屋の中の空気感が重い。


 杏菜はもう後戻りはできないと混沌したこの部屋で過ごすと決意した。快適な生活が恋しくなる。自然と涙が出た。


 あの人がいたことで生きてる上で救われていたことがたくさんあった。失わないとと気づかない。湊という存在の大切さに。




⬜︎⬜︎⬜︎



 母の真由子と生活し始めて、2年という月日が流れた。


 相変わらず、母は洗濯はもちろん、掃除も料理もしない。

 ホステスの仕事をして、帰ってきたら、シャワーをしてすぐソファの上で爆睡。 杏菜はそんな生活リズムが慣れてきた。

 少しずつ、杏菜は母のサポートをしようと物を丁寧に整理して、掃除をして、洗濯も乾燥機を使ったが、手探りで行った。料理はさすがにキッチンが狭いため、優雅にはできなかったが、レトルトや冷凍食品、お惣菜など簡単なもので済ませるよう工夫して用意していた。


 自分のものも、もちろん、仕事で疲れてきた母の分も一緒に用意した。

 料理が苦手な母はたかが温めただけのカレーでも喜んで食べていた。


「そんなに喜ばなくてもいいじゃない?」

「だって、上げ膳据え膳って美味しいじゃない。杏菜、ありがとうね。女手ひとつでしっかり育てた甲斐があったわ」


 その言葉を聞いて杏菜は嬉しかった。笑いながら言ってるから泣いてるなんて 

 目が見えないからわからない。真由子はものすごく感動して杏菜にはわからないように涙を流していた。


「お母さん、今日施設のブルーベリーに行ってくるからさ。お昼ご飯出るみたいなの。準備できないから自分でね」

「うん。冷凍庫にグラタンあったもんね。レンジの使い方覚えたから大丈夫。」

「そう。よかった」

「目が見えるくせに何もできなくて本当にごめんね」

「ううん。仕事、頑張ってるんだからいいんだよ。私は高校も卒業できなかったし 仕事してないからお母さんはすごいと思うよ」

「ありがとう。ダメな母親でもそう言ってくれる杏菜が大好きだよ。もうすぐ、20歳の誕生日だよね。プレゼント用意するから楽しみに待っててね」

「プレゼント? ありがとう。あ、そろそろ行かないと」


 杏菜の時計のアラームが鳴った。時間に遅れてしまうため、きちんとアラーム設定していた。


「行ってきます」

「うん、気をつけてね」


 真由子は玄関まで見送った。前までゴミ屋敷だった部屋が杏菜の掃除のおかげで廊下の床が見える。部屋として成り立つようになっていた。真由子は、母親として不甲斐ない。娘には感謝でしかないと思った。



****



「杏菜ちゃん!!」


 結子が施設ブルーベリーの玄関前、

 今か今かと杏菜を待っていた。


「結子ちゃん。玄関で待っていたの?」


「だって、聞いてほしいことが山ほどあるから。ずっとここで待ってたんだよぉ。あれ、今日の服、ずいぶん高級じゃない?」 


「え?結子ちゃん分かるの?」


「もちろん、流行ファッションに関してはInstagramで見まくってるよ。これ、ルイフィトンじゃない?」


「うん。そうみたい。お母さんの服なんだ。お下がりもらったの」


「杏菜ちゃんのお母さんすっごいファッションセンスいいね」


「ありがとう…。素直に嬉しい。そういうふうに言われたことないから」


 ぐいぐいと結子は杏菜の腕を引っ張って、奥の部屋に誘導する。


「あのね、あのね!! 杏菜ちゃんに教えたいことがあって、見てこれ」


 テーブルの上に1冊の雑誌を広げていた。一瞬、沈黙が流れた。


「ごめん、結子ちゃん。私、目が見えないから見えないよ。どうすればいい?」

「あ!! そうだった。気づかなくてごめんね。そうだよね。私ばかり見えていても

 ダメだよね。今、本の内容説明するね」

「うん、お願いしていいかな?」


 杏菜は結子の隣に座り、静かに聞いていた。本の内容というのは、視力回復に特化した家電SEE GLASSESの新商品の特集ページだった。写真に映っていたのは、眼科医のスペシャリスト教授の堀口氏と准教授の一ノ瀬 湊と記入がある。2人の対談が載っていた。その時の写真の湊は黒髪になっていた。


「ね、ね、すごくない? 一ノ瀬さんが准教授だって。やっぱ、商品にずっと

 熱意かけていたんだね」

「そ、そうなんだ」

「え、杏菜ちゃんは知らなかったの?」

「……うん。ずっと会ってないし」

「あれ、付き合ってたんじゃなかったっけ?」

「付き合ってないよ。ルームシェアしてたって言ってたじゃない」


 結子は拍子抜けした顔をした。

 目をぐいーと横に動かしては

 いいことを思い出した。


「杏菜ちゃん、一ノ瀬さんのことはもう好きではないの?」

「えー?」

「……ほらほら、どうなんよ?」


「……。」


「結子ちゃん、そんなにぐいぐい聞かないで

 困ってるよ、杏菜ちゃん。」


 そこへ気がついたのかヘルパーの堀込が

 声をかけた。


「堀込さん!

 杏菜ちゃん、最近寂しそうな感じ

 じゃないですか。

 何しててもナマケモノのようにぼーーーと

 すること多くなったしさ。

 元気づけようと一ノ瀬さん情報

 用意したのにこんな調子ですよ。」


「……確かに杏菜ちゃん。

 いつもの調子じゃないよね。

 元気なさそう。」


「やっぱり!!

 あれに行かないとですね!

 ね、堀込さん。」


「あ、え?

 まぁ、あれね。

 確かに行く予定ではあったけどね。」


「何のことですか?」


「着いてからの

 お楽しみにしちゃいましょう。」


「何の話?いつ行くの?」


 杏菜は1人だけのけものにされた

 気分だった。


「今日の午後だよ。杏菜ちゃん。」


「え?」


「一緒に行くよぉ!」


 結子は杏菜の腕をしっかり握って、楽しそうにしていた。

 これから行く場所に行けばきっと元気になるとそう確信があった。


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