隣にいる湊の息が荒い。酸素濃度が低い。風はものすごく冷たい。キャンプグッズが売っているお店で山ガールと称したウインドブレーカーを着ていても、寒い。今日は白杖じゃないトレッキングポールというステッキを使って山を登っている。
初心者でも登れる岩手県にある八幡平にやってきた。本当は富士山を目指したいと湊は言っていたが、杏菜のことも考えて、比較的山登りできそうなところを選んだ。
そうは言っても山だ。段差はもちろん坂道はある。当たり前だ。都会暮らしで運動不足ということもある。
目が見えなくなって、動くのは最低限。湊よりも息があがりやすくなっている。
「ゆっくり、休み休み行こう。 頂上に着いたら、おにぎりたくさん食べよう。 リュックに入れてきたから」
湊人は、目の見えない杏菜を配慮しながら、無我夢中で山を登る。
木々の揺れ動く葉の掠れる音、川のせせらぎ、小鳥のさえずり、通りすがりの高齢者の登山者に声をかけられて、初対面だというのに応援される。
杏菜は、息をはぁはぁしながら、気持ちはほっこりした。カツンと岩にあたる。
こんなに山を登るのって大変だったのかと思い知らされる。ちょっと前までの杏菜はいかに楽をして生きていくかを考えることが多かった。
今は、どうすればこの山の頂上に向かうことができるかしか見ていない。
家の中にいたら、将来に悲観して生きていくのも嫌になっていく。点字本なんて内容も想像のものでしかない。
体を動かして、何かにこんなにも熱中することを今まであっただろうか。
山なんて、山登りなんて面倒くさいという気持ちは杏菜の頭の中から消え去っていた。
案外現場に来てみれば、やる気がみなぎるものだ。
特に山を登ったからってご褒美があるわけじゃない。お金が降ってくるわけじゃない。ただただ、必死で山の頂上を目指している。
気持ちは山の頂上。
生きてる理由はそれだけでも十分。
何かをしたい。どこかに行きたい。そういう気持ちを取り戻した気がした。
いつも以上の汗をかく。匂いなんて気にしない。汗とともに行動している。
湊の息も荒くなっている。
「あとちょっとだぞ」
湊はあと数十メートルのところで声をかけて誘導するが、あと少しのところで足が震える。前に進めなくなった。筋肉痛だろうか、膝に気合いを入れて、動かそうにも動かない。
「よっしゃー!!ここが頂上だ」
湊人は杏菜よりも先に山頂標識に手をかけた。
「達成感!!」
「う……」
動かなかった足が、 湊の声ひとつでやる気がみなぎった。気合いを入れて、湊の手の上に自分の手を置いた。
「やったな。ここが頂上だ」
杏菜は満足したようで汗をかいて喜んでいた。久しぶりに顔が緩んでいるのを見た。同じように一緒に登っていた登山者も近くでバンザイして喜んでいるのが聞こえた。どんな人も頂上に着いたというだけで歓喜の声だ。
山の頂上で感じる太陽の温かさ。風の冷たさ。励まし合う人の優しさを感じた。なぜか生きていてよかったとさえ思った。
◻︎◻︎◻︎
「おはようございます」
湊は何ヶ月ぶりに堀口教授のいる大学の研究室に来ていた。
堀口先生を中心にたくさんの生徒と教授が集まっていた。
「お、おはよう〜〜〜〜!!! 待っていたよ、一ノ瀬くん。やっと来てくれたんだね。本当にいろんな会社から注文殺到しているからここからどう進めようと企画会議していたところだよ。君がいないと全然進まないから!! ……と、横にいるのは、彼女かな??」
デスクの方から小走りで駆けつけた堀口教授は湊の肩に触れ、ずずいと顔を近づけた。横には、見慣れない女の子が立っていた。手には白杖を持っている。
「長い間、お休みいただきまして、ありがとうございます。申し訳ありません。 やっとこちらに出向くことができましたよ。えっと、彼女は視覚障害者で治験にちょうど良いかなと連れてきました。ほら、挨拶して」
「はじめまして、笹山 杏菜と言います。よろしくお願いします」
少し声を震わせて、挨拶した。緊張感が半端なかった。堀口教授はじっと見つめて、ジリジリと湊の横に近づく。
「例の子でしょう? 目が見えるようにしたいって言ってた子。かなり可愛いじゃない。一ノ瀬くんにはもったいないなぁ」
「いや、その……確かに目を見えるようにはしたいと思っていますが……。彼女では……」
途中まで言いかけて、湊は教授にバシバシ背中を叩かれた。
「もう、モテるねぇ。君は本当に。羨ましいよ」
その言葉に言い訳するのも面倒になった湊はため息をついてそのまま会議に出席した。
(彼女じゃないって前から言ってるんのにな!)
「えー、一ノ瀬くんが戻ってきてくれたということで、これからはスムーズに
商品の改良を進めていけそうです。まずはSEE GLASSをどこまで進化させるかだけど……、一ノ瀬くん何か意見を聞かせてもらえるかな」
「はい。先日、教授からメールで頂いた資料を拝見しました。モニター様に利用していただいてアンケートをまとめた内容を確認しました。やはり、初期モデルでは商品の重量が重すぎることと、日常的には使いづらくロボットになってしまうというご指摘いただきました。確かに見えるようになっているので尚更ずっと見ていることが望ましいと思います。今の状態はVRゲームしてるならなんら問題ないですが、やはりこれはサングラスやメガネなどのさらに軽量化を目指すべきだと考えます。ただ、そうなると、視神経とのシンクロするのが難しくなってくるので、半導体の技術の進化と軽量化をどのようにするかが課題ですね」
資料をペラペラめくりながら、湊は堀口教授をはじめ、サポートする
同じ大学生数名とともに話し合った。その中には、渡辺晃太も混じっていた。
「そうだな。確かにあの状態では街中を歩くのも恥ずかしいという話だし、
日常的に使うにはメガネのような感覚でないといけないな。よし、株式会社TOPPAKOUさんの技術者さんに相談だな」
資料を見返して納得する。
「まぁ、それはそうと、今の段階ではどうか試しに笹山さんにつけてもらおうか。一ノ瀬くんが作った初期のものだ。まだなんでしょう?」
堀口教授は、自然の流れで、ソファに腰掛けていた杏菜にSEE GLASSESの試着を試そうとした。
「ちょっと待ってください!」
湊は、杏菜にかけようとする堀口教授の手を止めた。
「ん?」
「これは俺がやりますから。席に座っててください、教授」
「何、何。私にやってほしくないみたいな態度? 手柄取っちゃうよってこと?」
「そういうわけじゃなくてですね。杏菜は、人見知りですし、びっくりしちゃうかもしれないじゃないですか」
(私って人見知りだったっけ。いや、別に普通に話せるけど? なんでそんなこと言うんだろ)
近くで聞いていた杏菜は、疑問しかなかった。登山をしてからというものだんだんと日常生活を取り戻してきた。いくらかは、社会との接触はここだけじゃない普通に視覚障害者情報施設の【ブルーベリー】にも通っている。何をどう思ってそういうのか不思議でしかたない。
慌てて、教授からSEEGLASSESの機械を受け取った。深呼吸をして、杏菜の前にしゃがんで、慎重に顔に装着させた。
杏菜が、目が見えなくなって、1年経とうとしている。
瞼をそっと開けた。
急に入り込む眩しいという脳への情報がかなりびっくりしている。
一瞬、また目を瞑ったが、目の前にいる湊の顔をじっと見つめた。
目を凝らすことなく、真っ黒の髪型のスーツを着用したごくごく普通の青年がいることに逆に目を疑った。これは誰だと、慌てて、外した。しっかりSEEGLAEESEをつけて見えている。
「……見えた?」
「……」
見たくなかった。まだ早かった。呼吸が荒くなる。金髪よりも湊の顔は
ものすごくかっこよかったのだ。
杏菜は恥ずかしくなって、そっぽを向いて、首をブンブン振った。
久しぶりに見えたことに感動しているはずなのに心臓が耐えられなかった。
「え……杏菜、見えてないのか。おかしいなぁ。充電ないのかな。晃太、充電器知らないか?」
機械のスイッチをぽちぽちといじって確かめた。
「……え? さっきフル充電したばっかりだぞ」
「嘘だろ。杏菜、せっかくつけて見えるようになったと思ったんだけどな。
感動の世界みたいになると思ったんだけどなぁ。失敗だな。んで、教授、次の商品はいつ試作品できるんですか?」
「気が早いな。湊くん。まだ3ヶ月はかかるよ」
「そうなんですね。仕方ない。新作ができるまで待つとするか」
湊は今は無理だと諦めていた。ひとしきり会議を終えて、研究室の外に出た。杏菜は心臓はかなりの速さで動いていた。
(しばらくはいい。絶対見えなくてもいい。たぶん、耐えられないかも)
あまりのかっこよさにそばにいるのも意識してしまうほどだ。
杏菜は湊から少し離れて歩いていた。
湊から手を繋ごうとしたらそれさえも避けていた。
その行動に不思議に感じた。