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第35話 崩壊の刹那

目覚まし時計が鳴り始めた。


小鳥のさえずりが外から聞こえてくる。車の走る音、自転車の走る音、学校に行くであろう子どもの騒ぐ声、朝から元気な犬の鳴き声、コーヒーの香りが鼻に漂う。


杏菜は、ベッドから起き上がると、いつもは明るいリビングが暗い気がする。


見えないが感覚でわかるようになった。窓から伝わる太陽の熱が感じられない。


湊は今日も出かけたのだろうかとウロウロと部屋を移動した。足に何かが引っかかる。


「いてっ!」


ソファに寝ていた湊の足が杏菜の体に触れた。危なく、転びそうになった。


「ちょ、ちょっと転びそうだった!!」

「はいはいはい」


適当な返事でごまかして、ずり落ちた毛布を体にかけた。いつもなら、出かけているはずの湊がここにいる。昨日は謝罪の言葉もなく、普通に帰宅して、

普通にいつも通りにネグリジェに着替えて、寝床についた。


何かがおかしい。


杏菜は、昨日は夢だったんじゃないかと思ってしまう。


そこへ、チャイムが鳴る。


「あー、杏菜、出てよ」

「えー、なんで私が」

「いいから」


 致し方なく、玄関の方へ向かう。今の服装のことを気にしないで

 出てしまっていた。


「おはようございます。ヘルパーの堀込の代わりに伺いました。佐藤郷子と申します。すいません、何だか、堀込が体調不良になったみたいで……杏菜さんでしょうか。あら、パジャマ姿のままですが、 大丈夫ですか? 風邪ひいちゃいますよ?」


「え、あ、えっと、すいません。今着替えてきます」


 ヘルパーという声を聞いた湊は寝癖をぼりぼりとかきながら、杏菜が部屋で着替えている間に追い返した。


「すいません、今日は、俺がいるんで、ヘルパーキャンセルで大丈夫です。

 連絡しなくて、申し訳ありません」

「あ、そうでしたか。まぁ、私も助っ人で来たものですから逆に助かります。それでは明日以降も大丈夫でしょうか?」

「そ、そうですね。当分は利用しないかもしれません。必要な時は、こちらから連絡します」

「すいません、もしかして、堀込が、不手際でもありましたか?」

「いえいえ、違います。こちらの都合です。堀込さんには何から何まで

 お世話になって、助かってました」

「そ、そうなんですね。それでしたら、いいんですけど。では、またの機会によろしくお願いします」

「はい、ありがとうございました」


 湊は、玄関のドアを閉めた。そこに杏菜が着替え終わってやってきた。


「お待たせしました。あれ、郷子さんは、どこ行ったの?」

「帰った」

「え、なんで。今日、ブルーベリーに行こうと思ってたのに、施設の友達とデートに行く約束してたんだよ。結子ちゃんのデートに付き添う約束が……」

「……ふーん」


 湊はあくびをしながら、頭をぼりぼりとかいてリビングのソファにまた寝っ転がった。落ちた毛布を体にかけている。



「なんで、こういうときに限ってヘルパー使わないの? 施設にも行きたいのに!!」

「そんなの自分の胸にあててから話してもらえる?」

「え……昨日謝ったじゃん」

「……」


 湊は都合が悪いと黙るようだ。杏菜の訴えも聞く耳も持たない。すると、テーブルに置いていた湊のスマホが何度も音とバイブで鳴っていた。


「ほら、電話、鳴ってるよ!!」


 目が見えなくても、音はすぐわかる。湊は気づかないふりをしているようだ。気になった杏菜は、テーブルのスマホをスワイプしてみた。スピーカーフォンボタンを押す。


「あ、ばか!何やってるんだよ」

『一ノ瀬くん?! 今日、なんで来ないの? 商品のお披露目会に重要な君が

 来ないと始まらないよ!! 聞いてる?!』

「……」

「湊、何か言ってるよ」

「……」


ソファにまた横になって、寝返りを打った。電話に対応したくないようだ。


「すいません、同居人なんですが、湊、ちょっと具合悪いみたいです」

『え? 同居人さん? 近くに一ノ瀬くんいるの?』

「ええ、まぁ。そうなんですけど」

『本当に絶対来てって言ってもらえるかな。今日の商品発表逃したら、全部パーになるんだよ。君がいないと進められないから早く来て欲しいかなぁ』

「湊、行かないの?」

「……」


何も話してくれない湊に苛立ちがわき起こる。


『とりあえず、現地で待ってるからって伝えてもらえるかな。よろしくね!!』  堀口教授は、慌てた様子で電話を切る。湊はずっとソファに横になり、黙ったままでいる。


「ねぇ、湊。なんで行かないの? 商品お披露目会って何?」

「……もう、意味無くなったから」

「は?」

「俺は、世の中の視覚障害者の人に目が見えるようにって考えた家電を

 堀口教授と一緒にこれまで頑張って作ってきたけど、もう何だかやりたくなくなってきた。行きたくない、お披露目もしたくない」


 ソファに顔を埋めながら話すため、声がこもっていた。


「なんで。そんなこと言うの。というか、すごいことじゃない。目の見えない人のために作るって。どうして、途中でやめるの?」


 その声を聞いて湊はボソボソと言う。


「俺は、杏菜の目が見えたらいいなって思って作ってきたのに、俺なんか必要ないとか言われた気がして、何のために頑張ってきたのかわからなくなった。杏菜は、監獄だのなんだの、ヘルパーに助けてもらいながら、俺だって、研究で疲れた体酷使して、風呂入れたり、着替えさしたり、してきたのに全部がなかったことにされた気がして、嫌になった。教授が眼科の本職の手術だなんだで仕事が入ると俺が代わりにカバーしなくちゃいけないからその分、休みが少なくなるんだよ。残業してるみたいでさ、拘束時間長くて! それなのに、杏菜は、堀込がどうたらこうたらって、 だったら、堀込と一緒に住めばいいだろ。俺はこの部屋から出ていくよ。もう、研究に時間注ぎ込むのはやめるわ。悪かったな、力になれなくて」


 そんなこと言うつもりはさらさらなかった。でも、不満が次から次へと出てくる。毎日研究に明け暮れて、プログラムとの睨めっこ。あーでもこーでもないと試行錯誤の繰り返し。失敗も何度もあった。やっと、機械と体のシンクロ度が増して、視神経を通しての視力回復に治験で成功した矢先のことだった。


 こんなに必死で頑張っている湊を見ていないのは杏菜だった。大学に通っていることは知っていたが、視力についての研究していることも知らなかった。会話不足も原因かもしれない。


「み、湊!!」


 湊が自分の部屋に荷物をまとめようと行こうとすると、後ろからしがみついた。


「結局、杏菜は尻軽女だろ。やれればいいんだろ。彼氏作ったらいいさ。俺は、彼氏じゃないし、ルームシェアしているだけの男だ。それ以上でもそれ以下でもない。堀込が彼氏ならいいじゃないの? 大家として、この部屋は貸すよ。でも、もう、一緒にいる意味ないよな。助けてくれる人がいるんだろ。そもそも、俺が勝手に決めたことだから関係ないな。勝手に決めてごめんな。悪かったよ」


 湊は杏菜の頭をポンと撫でた。くすんだ瞳が湊の顔を見つめる。これでもう終わりなのだろうか。目から一筋の涙がこぼれ落ちる。


「もう、俺は、その涙を拭えない」


 湊の手が離れていく。何も言葉が出てこない。離れてほしくないのに離れていく。そばにいてほしいにそばにいない。湊は、荷物をまとめて、玄関のドアを開けて、出て行った。


12時。

 お昼のお知らせチャイムがどこからか聞こえてくる。杏菜は崩れて落ちて、声にもならない涙を流し続けた。


 床が濡れていてもどこが濡れているかさえわからなかった。

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