「ただいま」
午後10時の玄関で、湊は体がボロボロのまま、フラフラと部屋の中に入った。ソファに身を委ねて、目を手のひらで塞いだ。部屋から杏菜が出てきた。
シャンプーの香りが漂っている。
「おかえり。今、帰ってきたんだね」
「杏菜、風呂は? もう入ったの?」
「え、うん。堀込さんにお風呂入れてもらったよ」
「なんで?」
「え、なんでって別にいいじゃん」
「風呂は頼んだことなかったよな」
「……一緒に入りたかったから」
「ふーん」
湊は、機嫌悪そうに起き上がって、台所の冷蔵庫からペットボトルの炭酸水をコップに注いでごくごく飲み始めた。
「別にルームシェアだし、干渉はしないけどさ。そういうの連絡もらってもいい? 俺だって、疲れてても風呂入れるって思って帰って来てるからさ。一日の流れあるし」
「子供じゃないから1人で入れるよ」
「見えないだろ。お湯の温度だって微調整が必要なんだよ。一歩間違えばやけどだってするんだ。目が見えてても蛇口にあたってゴリゴリと肌が痛くなるのもあるし」
「はいはい。いつもありがとうございました!」
「なんだよ、それ」
「どーせ、ヤキモチでしょう」
「は? ちげぇよ」
「どうだか。そうやって、体裁よくルームシェアとか言ってるけど、監獄のようにここに住まわせてそういうプレイじゃないかと思うわ。自由もきかないのに……」
持っていたガラスコップを勢いよく割った。イライラのオーラを杏菜に向けた。
「誰のためにやってると思ってるんだよ!?」
思わず、言ってはいけない禁止ワードを発したと気づいた時には遅かった。杏菜は、その言葉を聞いて、何も発する言葉を見つけることができず、湊の発するオーラが怖くなって、体が震えた。ガラスコップの割れた音が耳に残っている気がした。
部屋の荷物を必死にかき集めて、家から飛び出して行った。
ドアはバタンと閉まる。
杏菜は、大事な白杖を持っていなかった。
「……ちくしょう!!」
湊は、食卓の椅子を蹴飛ばしたが、蹴り飛ばした足の親指の爪が痛くなってうずくまった。
(こんなつもりじゃなかったのになんで俺は余計な一言を言ってしまったんだ……)
教授達の会合に付き合わされて、聞きたくもない論文自慢大会にいかに優秀かを言い合う中間管理職。 気疲れが半端ない媚びうって、胡麻すって、先生と呼ばれる人々をアゲアゲして、何が楽しいのか。それでもこの関わりなくして、商品化するのも難しい。専門家たちが集うことも大学教授だからこそできるもの。我慢するしかない。両者傷つかないコメントを用意して、あっちやこっちの話を聴いて、良い気持ちで帰ってもらおうと気使いをしていた。その技はやはりホストの仕事が役に立っているのかもしれない。
女性だけじゃなく、男性も持ち上げられて、喜ばない人はいない。それを知ってか知らずか、杏菜は湊の状況を知らない。湊も杏菜がどんな気持ちで日々過ごしているかも知らない。会話不足でお互いの情報を手に入れていない。
堀込の介入で久しぶりに会話していた。杏菜は逆に話ができて嬉しかった。
機嫌を悪くするなんてとがっかりしていた。杏菜のスマホに搭載されている
AI機能を使って電話アプリを出した。
コールが続く。
真っ暗な家の外、街灯もぼんやりとしか光っていない。白杖もなく、手を伸ばしながら、電話しながら、恐る恐る前を進む。感覚がつかめず、転びそうになる。通行人は見て見ぬふりだ。
白杖も持たずに外に出た杏菜を湊は、追いかけた。息を荒くして、何度も立ち止まって走り出す。 どこまで、行ってしまったのかと心配になった。
歩きながら、杏菜のスマホはコールがずっと鳴っていた。