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第32話 目に映る 心の色

寝た気がしない。いつからこんな調子で毎日過ごしていたか覚えていない。ホストで働いていた頃は、睡眠は短時間ではあったが、深い眠りについて全然気にならなかった。


今では、短い睡眠でも浅いのか疲れが取れない。考えることが多すぎるのか。

大学に研究員の1人として抜擢されて、就職組ではなく、大学院にと推薦されてしまうほどだった。


眼科に関する資料をまとめて、このまま勉強し続けたら、眼科医にでもなれるんじゃないかというくらいの勢いだった。でも今のいる大学の学部が違う。

研究しているだけで、医師免許が取れるわけじゃない。湊の専門はIT業界。情報処理の専門家だ。ロボットの研究一筋に加えて、医療の知識を入れている。


視力回復を目指す。


むしろ、失った視力を取り戻すのだ。人間の常識を遥かに超えたものを作り出そうとしている。生まれたときから見えない先天盲の患者も、もちろん、不慮の事故で視力を失った患者にモニターになってもらい、見えなかったものが見えるようになったら研究は大成功となる。


毎日、治験者を呼び、あらゆる専門家を交えて会議する。アメリカから呼んだジェームズ教授も真剣に会議に参加していた。眼科医である堀口氏も加わって、医療や福祉に携わる専門家を集めて、ビックプロジェクトを取り行っていた。湊人はその中心で進行役として携わっている。


「湊先生。企画書案の資料を確認させていただきましたが、綺麗にまとめられていて、とても素晴らしいものでしたよ。商品が出来上がるのが楽しみですね」


「木之下教授。お褒めの言葉をいただきまして、光栄です。私のお力ではなく、みなさんのご協力があってのこそですよ。そして、私は先生ではなく、研究生です。 教えることは何もありませんよ。今、業者に発注をかけて、現物を作成してもらってました。あと1週間後とのことでした。」


 木之下教授はロボット研究開発に携わる研究熱心の人だった。湊にとっては、IT業界では憧れの存在だった。


「いやいや、湊先生ですよ。現場で仕切られるのは、かなり勉強されている方でなければ務まらないですから。早いですね。もうその段階に入っているんですか。ねぇ、堀口先生も鼻高々ですね。教え子がこんなに立派だと」


 堀口教授がそばに寄ってくる。


「いえいえ、そんなことは……。 まだまだ教え足りないところは多々ありますからね。でも私の右腕になっていることは確かです。一ノ瀬くんから声がかからなければ、この話は出なかったんですから。誇りですよ。な、一ノ瀬くん」


 背中をボンッと叩かれる。


「は、はぁ。ありがとうございます。そうなってるといいですけどね」


 湊は苦笑いして、その場を切り抜けた。大人の世界には忖度がいろいろとあって、他人のふんどしで相撲を取ることだって多々ある。ゴーストライターなどどして、表沙汰にならないことさえある研究。幸い、この現場ではそういうことが起きていない。


 この研究発表が公になれば、全国に商品化されて、経済効果も半端ないだろう。視力を失った患者にとっては藁をも縋るものだ。


 ただ、使用するには多額の費用がかかることがデメリットとしてある。


 湊はクラウドファンディングでもして、お金を貯めようかと目論んでいた。



 視力回復家電が商品化されることは目的の1つであるが、誰よりも、笹山杏菜という女性が、生きていく上で、全盲からの回復を期待していた。だが、それも難しくなっていた。


***** 


 ガシャン!!!


 台所のシンクにコップを投げてつけた。案の定、透明なガラスコップは粉々に割れている。


「誰のためにやってると思ってるんだよ!?」


 思わず、言ってはいけない禁止ワードを発したと気づいた時には遅かった。 杏菜は、その言葉を聞いて、何も発する言葉を見つけることができず、湊の発するオーラが怖くなって、体が震えた。ガラスコップの割れた音が耳に残っている気がした。


 荷物を必死にかき集めて、家から飛び出して行った。大事な白杖を持っていなかった。


「……ちくしょう!!」


 湊は、食卓の椅子を蹴飛ばしたが、蹴り飛ばした足の親指の爪が痛くなってうずくまった。



(こんなつもりじゃなかったのになんで俺は余計な一言を言ってしまったんだ……)


 それは数時間前のこと。

 夕日が沈んで、辺りは真っ赤に染まっていた。杏菜は、1人ベランダに椅子を置いて、外を眺めていた。見えるはずはないってわかっていたが、肌で風を感じたり、外の遠くからカレーライスの匂いが漂っていたり、交差点を行き交う車の走る音、自転車、バイク、歩行者の話す声を聞いていた。


「杏菜ちゃん、夕食作っておいたよ。食卓に置いておくからお腹すいたら食べてね」


 ヘルパーの堀込は、エプロンを外しながら、杏菜に夕食メニューを説明した。丁寧にトレイに並べられていた。


「今日は、酢豚としじみの味噌汁、あと、副菜は、ほうれん草の胡麻和えかな。デザートはシャリシャリりんごね」


 鼻に良い匂いが漂う。深呼吸をした。


「ベランダで何していたの?」


 堀込は、そっと近寄って同じ方向を向いてみた。特に変わり映えのない景色が広がっている。何が楽しいのかなと気になった。



「堀込さん。私ってここにいる意味あるのかな。時々思うんだよね。目が見えなくなってから、存在価値がものすごく低くなった気がして、仕方ない。湊との会話も以前より増して、全然できなくなったし、一緒にいて良いのかなってさえ思ってくる。家事だって何もできないのに」


 椅子の上で両膝を抱えた。肩が小刻みに震えた。


「大丈夫だよ。ここにいる意味あるから。考えすぎだね」


 堀込は、杏菜の背中にそっと手を置いた。


「堀込さん!!」


 こらえていた涙が流れた。杏菜は堀込に抱きついた。人恋しかったのかもしれない。孤独感が倍増していた。ある意味ビジネスで繋がっている堀込との関係が、湊よりも安心感を与えていた。


「おーヨシヨシ」


 ペットを宥めるように丁寧に頭を撫でた。


「堀込さんみたいな人が、彼氏だったらいいのになぁ」

「何言ってるの。一ノ瀬くんいるでしょう」

「堀込さん、私たち彼氏彼女じゃないですよ。ルームシェアする人です」

「え?!そうなの? 嘘でしょう。かなりのサポート受けてて、彼氏になってないの? むしろ、なんで?」

「ですよね。一緒に暮らしているのに何もないですから。だーかーら、堀込さんが彼氏になってよ!」

「えー、それは無理。仕事できなくなるよ」

「やーだ。いいじゃないですか。ピチピチギャル好きって言ってたし」

「いや、それは杏菜ちゃんのことじゃ……。んーーー」


 首をのけぞろうとした。杏菜は、無理やりキスを迫ろうとしたが、届かない。なおさら、目が見えないため、感覚もつかめない。両脇をくすぐって、体勢が崩れたところを狙って、 杏菜は、堀込にキスをした。抵抗をし続けたが、無理だった。


 ニコッと笑った杏菜が可愛くみえた。健気に必死に生きている彼女が愛しく思えた。歯止めが効かなくなる。ヘルパーである堀込は、杏菜との一線を超えた。ふわふわの大きなソファの上で、右手を杏菜の顔に触れる。目をつぶって、左手でぎゅーと顔に近づけた。嬉しそうな顔を見て、興奮が湧き起こる。 肌と肌のふれあいでぬくもりを感じていた。


 リビングに夕日が差し込んでいる。このまま時が止まることを願った。

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