エレベーターのドアが開いた。
中には、汗をかいて走ってきたであろう一ノ瀬 湊、源氏名はアキラがいた。杏菜の顔を見て、ほっとしたのかぎゅっと抱きしめた。
「良かった」
息が荒い。なんでここにいるのかわからない。杏菜はなぜここにいるのかという疑問と、なぜだか裏切ったみたいで罪悪感が芽生えた。
「……湊、なんでここに」
「杏菜のGPS見て、ここに来た。やっぱり心配になって……。
あいつは? ヒカル」
「えっと……。えー、そのー」
肌ツヤがツルツルしてるのを見て、湊は何かを悟った。
「風呂入った?」
「……えっと、どうだったかな」
「化粧水つけまくった?」
「えー……そのー」
「事後ってことか」
「えー、違うよ、まさか。そんなわけないじゃん」
「尻軽女が良く言うよ」
「は?!尻は軽くないわよ。どちらかといえば胸の方が軽いわ。悲しい……もっと大きくなりたい」
「……質量の問題じゃねぇよ。んで?ちゃんと防いだ?」
「……湊、保護者みたい」
「お前の母さん、そういうの言わなそうだから代わりに聞いてんだろうが!」
ジッポのライターをカチカチと鳴らして、早くタバコが吸いたそうだった。イライラがとまらない。ストレスだ。
「それ、言わないといけないの? 湊に?」
「ああ、だって、どうすんだよ。できたら」
「……できないよ。」
「は?」
「ちゃんと飲んでるからピル。安心して。んじゃ」
杏菜は急にしおらしく、エレベーターのスイッチを押して、 下の階に向かった。エレベーターの中に2人きりになった。 狭い空間で湊の香水が漂っていた。
「湊。なんの香水つけてるの?」
何でもない話をしようと声をかけた。
「お前、何してんだよ」
「え?」
「なんで、笑いながら、泣いてるんだ?」
頬に手をつけて涙を確認した。
「嘘、泣いてると思ってなかった。なんで涙、出てくるの。
別に、悲しくなんてないんだよ。湊、来てくれて嬉しかったのはあるのに……」
湊は、杏菜を自分の胸に引き寄せた。気持ちが落ち着くまで
ずっと抱きしめていた。頭をそっと撫でた。右の指でそっと涙を拭った。
「犬みたいに撫でるのやめてほしいな」
「俺のペットみたいなもんだ」
「そういうこと言わないでもらえる?」
「……カルガモだった。」
真面目に間違った。
「そうじゃなくてさ」
神妙な面持ちで下を向く杏菜。
「何か嫌なことされた?」
「ううん。嫌じゃなかった」
「んじゃ、いいだろ」
「なんか違うかなって思って」
「は?」
「だって、湊じゃなかったから。顔だけ湊だったら良かったかなとか」
「俺の何を知ってるんだよ」
「湊はやらせてくれないから。顔が湊で他はヒカルさんとかね」
「ん? 俺は、一体、何を聞かされているんだ。とにかくだ。 俺は、やらないからな」
1階にエレベーターが着くと3歩先に進む湊を追いかけて
杏菜は左腕をがっちりと掴んで歩いた。湊は抵抗しなかった。交際はしてない。家族ではない。同居人でもない。肩書は家主と借主というような感覚でほぼ他人に近い。それでも2人で一緒にいる空間はお互いに心地良かった。
その気持ちに気づくのはしばらく後になってからだった。一緒にいる時間が短く感じた。