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第14話・姉ちゃんの秘密

 早朝の公園に足を踏み入れると、昨日と同じ風景が広がっていた。犬を散歩する人、軽くジョギングをしている人……全員同じ人かもしれない。

 芝生をまた一歩、踏みしめる。

 草の柔らかな感触を足の裏に感じる。

 空には雲ひとつない。太陽の光が降り注ぐ公園は、どこもピカピカに照らされている。


 だけど、どんなに景色が美しくても、僕の気分は晴れない。


 僕はいま、女子トイレの出入り口を睨みつけている。姉ちゃんが出てくるのをひたすら待っているのだ。

 姉ちゃんは中でなにをしているんだろう。もしかしたら、凶器を女子トイレのロッカーに隠していたりして……?


 ――――出てきた!!!


 僕は反射的にトイレの建物の陰に隠れる。

 そろそろと覗き込むと、グリーンのチェックシャツにワイドジーンズ、スニーカーを履いたポニーテールの女性が出てきた。

 あれ?違う人か――そう思った瞬間、背格好に妙な既視感がよぎった。見慣れた肩のライン、歩き方……間違いない。あれは姉ちゃんだ。


 私服に着替えてどこに行く気だ……?


 心臓の鼓動が、いやなリズムを刻んでいる。姉ちゃんが私服に着替えて何をしようとしているのか、見当もつかない。嫌な予感ばかりが浮かんでくる。


 僕は気配を消すように息をひそめ、トイレの建物の陰から、じっと観察する。

 犬の散歩中のおばさんが姉ちゃんとすれ違う。おばさんが連れていたパピヨンが甲高い声で吠えた。


 ―――姉ちゃんは手にしていたバールを犬の脳天に振り下ろす。


 僕は我に返る。

 姉ちゃんはおばさんに笑顔で笑いかけ、歩き出す。

 僕は距離を保ちながら、姉ちゃんを追いかける。



       ☆



「……1日中そうしてんのかよ」


 公園のベンチに仰向けになり、目を閉じている姉ちゃんに向かって、僕はうんざりして吐き捨てた。

 木々の葉の隙間から差し込んだ光が、姉ちゃんの顔に柔らかな影を落としていた。そよ風がふくたびに、光と影が絶え間なく移り変わる。その様子を、僕は突っ立って見ていた。

 姉ちゃんはまぶたを閉じたまま、口元をうっすらと緩めた。


「学校は?」


「こっちが質問してんだよ。姉ちゃんも一週間行ってねーだろ」


 姉ちゃんは静かにまぶたを開けた。長いまつげがゆっくりと揺れて、深い湖みたいに透き通った瞳があらわになる。

 姉ちゃんは驚いた様子も見せず、静かにつぶやいた。


「……そこまでバレちゃってるんだ」


 2時間前。尾行していると、姉ちゃんは公園の中央にあるベンチに腰を下ろし、やがて横になって昼寝を始めた。

 何か次の行動に出るかと思って待っていたのに、ただ静かに目を閉じているだけだった。スマホをいじることもなく、ただじっと。

 僕はずっと遠くから姉ちゃんの様子を観察していたけれど、急に馬鹿らしくなって声をかけたのだ。


大丈夫だ。ここは人の目もあるし、こんな場所で姉ちゃんが僕に襲いかかるわけがない……はず。


「毎日、ここで昼寝してんの?」


「そうだよ」


「いじめられてるから学校行きたくないんだろ。いつまでそうしてるつもりだよ」


姉ちゃんは小さく頷き、「そうだね、冬になったら凍死しちゃうね」と冗談めかして肩をすくめた。

 姉ちゃんの態度に、僕の中にフツフツとこみあげてくるものがある。それは同情なんかじゃない。怒りだった。


 僕はこんな女を恐れていたのか……?

 クラスのいじめにすら抵抗できない女のことを。


 目の前にいる姉ちゃんは、ただ現実から目を逸らしているだけの、弱い人間にしか見えない。


 姉ちゃんが同級生に復讐を企んでいる。それは僕の妄想にすぎなかったのか?


「なあ、もう、へらへら笑う必要ねえんだよ。ここには俺と姉ちゃんしかいないんだから」


「あはは、なにそれ。ジュン、わたしが無理して笑ってると思ってるの?」


「いじめられてんのに笑ってたら、狂人だろ。それとも頭おかしいの?」


 一瞬、間があった。姉ちゃんが挑発的な目で僕をじっと見据えた。


「はは、狂人か。そっか、あはは、わたし、無理してたよね。うんうん。ジュンに知られてすっきりしたわ。じゃあ、白状する」


 僕は緊張しながら、姉ちゃんの答えを待った。


「ずっと、Xに書かれてるわたしの悪口をジュンが見つけたらどうしようってびくびくしてたんだよね。いじめられることより、家族にバレるかもって想像するだけで、焦りで頭が真っ白になってさ……。

 わたしの本性を父さんや母さんやジュンに絶対に知られたくなかったの。だから、学校ではわざといじめなんか気にしてないって顔をしてたんだ」


 姉ちゃんが苦笑いを浮かべた。


「でも、それが逆効果だったみたいで、いじめがどんどんひどくなっちゃって。教科書に落書きされたり、スカート切られたり……もう、隠すの限界って感じ? だから『もういいや』って思って、学校ボイコットしちゃった」


 僕は眉をひそめた。


「姉ちゃんの本性って?」


 すると、姉ちゃんは茶目っ気たっぷりに笑って「へへっ、バレるまでは内緒だよー!」と言いながら、ベンチに座り直した。


 イマイチ腑に落ちない。

 あの、姉ちゃんが?

 ヘビ女が僕ら家族にいじめをバレたくなくて必死だった?


「……それでもユスリカかよ」


 僕は姉ちゃんを見下ろして、吐き捨てるように言った。

 姉ちゃんはビクリと肩を震わせ、ゆっくりと僕を見上げる。浮かんでいた笑みは消えていた。


「ユスリカの小説、読んだんだ?」


「全部読んだよ。全部、救いのない、後味の悪い小説だった。姉ちゃんの頭ん中は、もう覗いてるんだよ」


「……書いてるのは、たしかにわたし。でも、小説の中の凶暴な『ユスリカ』はわたしじゃない」


「は?」


 姉ちゃんは視線をふっと遠くに泳がせた。


「ジュンに理解してもらえるか分かんないけど……はじめは、居場所が欲しくて、書いたんだ。みんなのコメントやレビューが届くのがうれしくて……やっと誰かに認めてもらえた気がして嬉しかった。

 それに、世の中にはこんなにも絶望してる人がいるんだって。少し、安心した」


 姉ちゃんの言葉は、日本語なのに全然うまくかみ砕けない。


 ……世の中に絶望している人間がいることが、嬉しい?



「でも、読者が求めていたのは無慈悲な『ユスリカ』だった。残酷で、躊躇なく人を殺す化け物。それが彼らの崇拝するユスリカで、いつの間にか、わたしはユスリカを成立させるためのコマになった。だから、ユスリカはわたしだけど、わたしの人格そのものじゃない」


 姉ちゃんが唇を噛んだ。


「わたしは、ただ……本当は人間って残酷で、ひどいことを平気でする生き物なんだって、書きたかっただけ。世界はきれいごとばかりじゃない。少なくとも、わたしの目に映るこの世界は、まるで光がない真っ暗な場所なんだって、呟きたかっただけ」


「何言ってんだよ。今さら俺にいい人だって思われたいわけ?」


「ユスリカの世界は、わたしの叫びだった。誰にだってあるでしょう、残酷でドロドロした気持ち!会社のお局が暴漢に襲われて死ねばいいのにとか、思ったりするのは普通でしょう。

 わたしは小説の世界で暴漢になった。みんなのヒーローを演じた。すべては、わたしの歪んだ承認欲求が、ユスリカっていう化け物を作り上げてしまったんだ」


「……なんだよそれ」


 姉ちゃんになにか言ってやろうとして、姉ちゃんの体が震えていることに気づいた。

 いつも完璧で、僕を小馬鹿にしている姉ちゃん。その姉ちゃんが、今、真っ白な顔で唇を噛んでいた。


 姉ちゃんのことが嫌いだった。完璧で、父にも母にも愛されている姉ちゃんが大嫌いだった。

 だけど今、自分の弱さをさらけ出している姉ちゃんに対して、これ以上言葉をぶつける気はおきない。


 姉ちゃん。あんたが考えていることなんて、僕にはほとんど理解できない。

 それでも、これだけはうっすらと、分かった気がする。


 姉ちゃんは……小説の世界に救いを求めてた。

 でも、それは叶わなくて……ずっと、孤独だった……?


 ため息をひとつ吐いて、僕はそっと姉ちゃんの隣に腰を下ろした。静かに並んで座る僕たちの間に、言葉はない。僕はただ、隣に座り続けた。


「……次の作品は、ガラッとイメチェンしてみたら?」


 どのくらいそうしていただろう。僕はポツリと思いついたことを口にした。姉ちゃんの反応を待たずに、僕は話し続けた。


「ユスリカは、凶悪なものしか書かないなんて、誰が決めたんだよ。勝手に思い込んでるのは姉ちゃんだろ?

 今度の作品はさ、思いっきりハートウォーミングなヤツにしちゃえよ。それでついてこないファンはほっとけって。ユスリカの新しい一面を評価してくれる読者は絶対いる。

 俺の友達だって、姉ちゃんのファンなんだから。姉ちゃんの新しい世界見せてやればいいよ」


 姉ちゃんは驚いた顔で僕を見つめていた。そして、すこし間をおいて、


「ユスリカ、リニューアルオープン!みたいな?」とはにかんだ。


いつもの笑顔だ。僕はその顔にホッとして、カバンからノートを引っ張り出し、ペンケースから万年筆を取り出した。


「構想、考えよう!」


 姉ちゃんは嬉しそうに万年筆とノートを手に取る。


「ジュン、こんな立派な万年筆持ってたんだね」


と言いながら万年筆をくるくると回した瞬間、顔色が変わった。


「これ……、わたしに届いたもの?」


 『ユスリカ大先生』

 その万年筆に、ノアの愛の言葉が彫られていることをすっかり忘れていた。


「え、あ、それは……!」


 僕はしどろもどろになりながら言い訳を考えようとした。でも、考えたってうまい言葉なんて思いつくわけない。

 次の瞬間、姉ちゃんが万年筆を両手で持ち、バキッと真っ二つに折った。

 僕があっけにとられていると、姉ちゃんはペンの中から小さなチップを取り出し、僕に見せた。


「これ、なんだと思う」


 僕は慌てて姉ちゃんがつまんでいるものを見る。赤く点滅している……これは、ナオキの家で見せられたものに、似ている。


「……発信機?」


「当たり」


 そう言い終わると、姉ちゃんは発信機を地面に叩きつけ、何度も何度も、一心不乱に踏みつけた。

 粉々になった破片が足元に散らばる。姉ちゃんの目がふらっとこちらを向いた。


「ね。わたしのファンはこういうヤツらなんだよ……」


 その瞳は、穴ぼこみたいに真っ暗だ。

 僕は思わず息を呑んだ。









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