翌日の朝、階段を降りていくと、母と姉ちゃんの笑い声が聞こえてきた。
「あ、そうそう!そのまま!」
「あー!また崩れた!」
「一番外側がきれいに巻ければ、中はなんでも大丈夫よ!ほら、ここからが大事!」
「ほっ!!」
どうやら姉ちゃんが卵焼きを作っているらしい。
冷蔵庫から水のペットボトルを出して、水をグラスに注ぎ、ペットボトルを燃えるごみ入れに捨てようとして黄色い色彩が目に留まった。
菊の花束が捨てられていた。
背後から姉ちゃんと母の「やったー!」という声が聞こえる。振り返る。姉ちゃんは清涼飲料水のCMに出てきそうな顔で笑っていた。
僕はなにも言わずにペットボトルをごみ入れの中に投げ入れ、蓋を閉めた。
姉ちゃん、菊の花捨てたんだ。その調子じゃん。
今日は学校行くの?
また机の上に菊の花があったら、俺がいじめっこどもにジャーマン・スープレックス決めてやるから、安心して学校いきなよ。
そんなこと言えるわけもなく、僕はもごもごと朝食を食べ、いつも通りに家を出た。
「ジュン!」
ふいに背後から声をかけられ、姉ちゃんが走って追いついてきた。
「一緒に行こうよ、学校!」
僕はちょっと驚いて、下を向きながらもごもごと返した。
[……学校、もう行けんの?]
「行くよ。いつまでもヘラってられないし!あいつらのせいで大学受からなかったらムカつくしさ!」
僕の知ってるいつもの姉ちゃんだった。
自信に満ちていて、ムカつくほどきれいに笑う。いつもなら、その態度にイラついているけれど、今日は違った。
この笑顔が、僕の行動によって取り戻せたものなら、誇らしい気持ちだった。
「……いじめられてること、担任に言うんだ。証拠は全部とってあるから、あいつらも言い訳できないよ。徹底的に、糾弾する。
担任がもみ消そうとするなら、テレビ局でもネットでも大々的に公表してやる。
こちとら文章書き慣れてんのよ。悲劇のヒロインになりきってやる」
「……そんなことして姉ちゃん、メンタル大丈夫なのかよ」
「どうせ死のうと思ってたし、刺し違えてやるよ!」
姉ちゃんはどこまで本気かわからないことを言う。
『死なないでよ』なんてガキっぽく泣きつく気にはなれなかったし、かといって『寒い冗談よせよ』と突き放すのも違う気がした。
結局なんと言ったらいいかわからず、僕はただ黙って歩いた。
「……あとさ、わたしユスリカやめる」
僕は思わず立ち止まり、姉ちゃんを見た。
「やめる?」
「うん。よく考えてみれば、あの名前はいじめられっこの精神、そのものだし」
僕は姉ちゃんが言う意味がよくわからず、頭の中に『ユスリカ』を思い浮かべた。
ユスリカはみんなで群れて光に向かって飛ぶ虫だ。
コンビニの帰りに、コンビニの明かりに大量に群がってる。姉ちゃんは、あの虫の大群を見て、あんなふうに群れたいと思ったのだろうか。光に向かって。
「でもユスリカって害虫じゃん。感電して死ぬじゃん」
「だから、いいなと思ったんだよ。結局、わたしたちは害虫で、輝かしい未来じゃなくて、死に向かって飛んでるっていうのが、いいなって思ったの」
姉ちゃんはそれだけ言って、鼻歌を歌いながら前を歩き出した。
――じゃあさ、その名前をやめるってことは、死に向かって飛ぶのはやめるってことだよね?
そういうことだよね?
姉ちゃんは鼻歌をやめずに歩いていく。僕の言葉は唇をふるわせることなく、喉の奥に落ちていく。
なにを感傷的になってるんだ、僕は。
『死ぬ』だとか『刺し違える』だとか、こんな言葉、姉ちゃんのパフォーマンスに過ぎないじゃないか。
人はそんな簡単に死なねえよ。
僕はまた姉ちゃんにからかわれている気がして、ムッとして次の角を曲がった。
学校には遠回りなルートだけど、いい。
姉ちゃんと登校しているところなんて誰にも見られたくない。
姉ちゃんは強い。
ちょっとへらったって、一言声をかけただけで、復活してしまう不死身の女だ。
だから、僕はこのとき、想像もしなかった。
不死身の姉ちゃんが、その日、家に帰ってこないなんて……。