全速力で走り、駅前のマックに着くと、ノアはすでに来ていた。
「先生!こっちです!」
ノアが勢いよく立ち上がり、ぶんぶんと手を振る。その光景に見覚えがある。つい2週間前に見た光景だ。あのとき、僕は純粋だった。
だけど、僕はもうあのときの僕じゃない。
僕は肩で息をしながら、ノアの正面の椅子にゆっくりと腰を下ろした。
「先生、熱があるんですか?呼吸が苦しそう」
「あのさ、なんで俺の家が分かるの?」
目に力を込め、声を低く抑えて、脅すように囁いた。
ノアはうっすらと微笑みながら僕を見ていた。そして、こう言った。
「ハッタリです」
「……ハッタリ?」
「先生の高校は分かったので、家はこのへんなんじゃないかなって思っただけです。
その学生服のボタン。特徴的ですよね」
そうか。制服で特定を……。
「なんとなく先生は家とか学校にわたしが直接行くのを嫌がるかなって思ったので、わざとああ言ったんです。そしたら、2人きりで会ってくれるかなって」
……やられた。
「目的はなんなんだよ」
「言ったじゃないですか!お見舞いです!」
ノアはそう言うと、そばに置いていたリュックを引き寄せ、中から風邪薬やももの缶詰、みかんの缶詰、ポカリスウェットなどを次々に取り出した。
あっという間にテーブルの上は食べ物や飲み物でいっぱいになった。
「こ、こんなにいっぱい、持ってきたの?」
「はい!先生にはやくよくなってもらいたくて!」
僕はなんて言ったらいいのか分からなくて、黙って風邪薬の箱を見つめた。
……ほんと、なんていうか、ノアってとんでもなくユスリカが好きだよな。
ホラー小説が好きな悪趣味な女だけど、まっすぐで、純粋で……。
こんな純粋なファンに、僕はまた嘘をつくのか?
そりゃあ、僕はユスリカじゃないけど、姉ちゃんだって風邪をひいてるわけじゃないし……。
「先生、熱は測りましたか?わたし、一応体温計も持ってきたんです!あ、もちろん、新品です!わたしのうちにあるやつじゃないですよ、へへ」
「……風邪じゃないんだ」
「え?」
僕は視線を落とし、ノアを見ないようにしながら言葉をつぶやいた。なんだか決まりが悪い。もしノアが「そうなんですか」と答えたら、「だから、心配しないで」とだけ言い残して、帰ろうと決めていた。気持ちを悟られないように、そっけない態度で。
次の瞬間、ノアの手が伸びてきて、ひんやりとした手のひらが僕の額に触れた。思わず息が止まる。
冷たい感触がじわりと肌に染み込んでいく。「ほんとだ、熱ないですね」と、ノアの静かな声がした。
「体調じゃないなら、どうしたんですか?」
「えっと……」
僕はどもりながら、頭の中をフル回転して言い訳の言葉を考えた。
姉ちゃんが小説を更新しなかった理由……
それは同級生の殺害計画を立てているから?
「もしかして、スランプですか!?」
ノアがぐっと身を乗り出し、驚きに満ちた顔で僕の顔をのぞき込んだ。
「え、あ、うん……実はそう、そうなんだ」
ノアは不安げな顔をして、僕を見る。脳の中を点検しようとしてるかのように。
「大変……!……この間のわたしの作品じゃ、インスピレーションは湧かなかったんですね」
「え?」
ああ、先週渡された音声のこと言ってんのか。
「3日待ってください!」
ノアは大声でそう叫び、ハッとした顔で周りをキョロキョロと見回した。
そして、小さな声で僕だけに聞こえるように言い直した。
「……あと3日だけ、待ってもらえないでしょうか」
「どういうこと?」
「わたしがとびきりのネタを提供します。絶対に、先生が小説を書きたくなるような、衝撃的なものをお渡しします。だから、少しだけわたしに時間をください!」
その瞬間、興味がすっと冷めていくのを感じた。僕はため息を飲み込んだ。
また音声データの話かよ……。
僕が姉ちゃんだとして、スランプに陥ったからといって、ノアの【作品】をいくら聞いたところで書く気にはならない。絶対。
もう殺虫剤の投稿だってしてないし、【作品】なんてどうだっていい。
「ノア、気持ちは嬉しいけど、作品はいらな……」
「これからすぐに家に帰って、準備にとりかかります!」
ノアはそう言うと、軽くなったリュックを背負い、「私はいつだって先生の一番のファンですからね!」と笑顔で言い放った。
そして、猫のように身軽な動きでするりとソファ席から出ると、あっという間に店を出て行ってしまった。
「だから、いらないって……」
僕は力なく独りごちた。
作品をもらうってことは、またノアと会わなくちゃいけないじゃないか。
めんどくせえ。
それが僕の正直な気持ちだった。