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第11話・理由

 汚れたスニーカーは洗ったけれど、うまく汚れはとれなくて、変な匂いもしたし、家の生ごみ入れに突っ込んだ。

 見つからないように、手が汚れるのもかまわず、ぎゅうぎゅうと奥に押し込んだ。


 ……気に入ってたんだけどな、このスニーカー。

 厚底のハイカットスニーカーが欲しくて、わざわざ仙台まで行って探したのにな。


 僕はゴミ箱の蓋を閉めると、駅前の靴屋にスニーカーを買いに行った。2980円のいかにも安そうな靴を買って、母に見つからないように靴箱に入れた。

 まあ、母さんは僕のスニーカーが変わったなんて気づかないだろうけど。


 夕食になると、姉ちゃんは母と映画に出かけたらしく、夕食を食べながら母が楽しそうに映画のネタバレを話していた。


「お姉ちゃん、開始1分で犯人分かったって言うの!ちょい役なのに、ものすごい俳優さん使ってるから、怪しかったって!うふふ、おもしろいでしょう。さすがお姉ちゃんでしょ? それにね……」


 姉ちゃんの顔を盗み見る。

 姉ちゃんは微笑みを浮かべながら、皿の上でほっけの塩焼きをほぐしている。


「ジュン、なんでお姉ちゃんのこと睨むのよ」


 慌てて母を見ると、怪訝な顔で僕を見ていた。「別に」と言いながら、急いでごはんをかっこむ。

 姉ちゃんは「妬いてるんだよ、置いていかれたから」といじわるっぽく笑った。

 母が「ジュンも誘えばよかったね、でもいっつも断るから」と言いながら、僕におつゆのお代わりはどうかと聞いてくる。父も「ジュンは難しい年頃だもんなあ」と頷く。


 どこにでもある家族。ホームドラマのワンシーンみたいな会話だ。

 姉ちゃんはどうしてこんなに普通の女子高生みたいにふるまうのだろう。

 唇の端に小さな笑みを浮かべたりすれば、僕はこいつが犯人だと確信できるのに。

 サイコパス女だと、父さんや母さんに訴えることができるのに。


 だけど、夕食はいつものように和やかに終わって、姉ちゃんは自室へと戻っていった。



      ☆



 週明けの月曜日。玄関で靴を履いていると、背後から母に呼び止められた。

 頭の中で母の声がする。


 『ジュン、あんたいじめられてるの? スニーカー、誰にやられたの?』


 ホッとして、姉ちゃんにやられたんだって、言ってしまおうか、どうしようか考えながら振り返ると、母はまったく深刻な顔をしていなかった。その手にはプリントが握られていた。


「お姉ちゃんプリント忘れたから渡して! 大事なプリントだから、絶対手渡ししてよ?」


 僕は無言で受け取ると乱暴にカバンに突っ込む。母は「丁寧に!」と注意するだけで、僕の足元を見もしなかった。


 母さんはダメだ。

『姉ちゃんが危険だ』なんて言ったって、きっと大笑いする。


『ジュン、あんたは純粋だから、フィクションを真に受けちゃうのね』


そう目じりを下げながら、姉ちゃんがどんなに可愛い子供だったか昔話を長々と話し出すに違いない。

 父さんは声色を変えて、『バカなこと言うんじゃない』と怒るかもしれない。

 2人とも姉ちゃんが作り出した完璧なキャラを信じてるんだ。時々、おちゃめなことを言う、かわいい娘のキャラクターを……。

 でも、僕は騙されない。

 姉ちゃんの、ユスリカの小説を全部読んだ僕は、姉ちゃんは普通じゃないことに気づいてる。


 もっと証拠が欲しい。

 あいつがおかしいという、証拠が。



 姉ちゃんの教室のドアは開いていた。

 僕はプリントを手に、姉ちゃんの姿を探した。

 窓際で友達とおしゃべりしているだろうと思ったけど、いない。

 窓際、教卓、そして並んでいる机に目を滑らせて……前から4番目の机の前で、視線が止まった。


 机の上に菊の花が一輪刺してある花瓶が置いてあった。

 まるで、誰か死んだみたいに。


 クラスの人間は、菊の花なんて見えていないかのように、各々おしゃべりに興じていた。

 机の横にぶらさがっている水色の袋に見覚えがあった。あれは母さんが姉ちゃんのために作った体操着入れだ……。

 何人かの女子が僕に気づいた。僕は慌てて踵を返すと、廊下を走り、階段を駆け下りた。自分の教室に戻ってからも、心臓の鼓動がドクドクと体中で鳴り響いていた。


 あれは、なんだったんだ……?


「ジュン、どうしたの?」


 さあやが心配そうな顔で近寄ってきた。


「……あ、あのさ。3Bの先輩に、知り合いいる?」


「3B?」


 さあやは小首をかしげると、「文芸部の先輩、違う組だし……どうだろう。3Bならだれでもいいの?なにか聞きたいことがあるの?」と言った。

 あの菊の花は……。

 僕の思考は夜の海みたいに真っ暗な闇の中に沈んでいく。


『小説を構想するときに、イメージがわきやすいからさ。部屋に飾るの』


 今思えばおかしかった。

 僕が姉ちゃんの部屋に行ったとき、菊の花の本数が増えていた……。

 買ったのなら、日にちを置いて、本数を足すなんて変だ。姉ちゃんは菊の花を買ったんじゃない。


 姉ちゃんのクラスのざわめきがよみがえる。姉ちゃんの机に菊の花を挿した花瓶が当然のように置かれた、あの異様な光景と一緒に。

 あいつらが『お供え』したんだとしたら。毎日、毎日、嫌がらせのように1本ずつ……。


「さあやの先輩、3Bの人のXのアカウントわからないかな。3Bならだれでもいいんだけど、できれば女子」


 僕はたぶんよっぽど蒼白な顔をしていたんだろう。さあやは「それなら、検索したほうがはやいと思う」と言って、スマホを操作し始めた。

 僕も慌ててスマホを出す。いやな汗をかいていた。うちの高校名と3Bで検索したものの、求めていたようなものはヒットしない。

 今度は姉ちゃんの名前を打ち込む。だめだ。出てこない。


「ジュン、これ!」


 さあやがスマホを差し出してきた。反射的にのぞき込むと、


『お菊、ついにへらったwww爆笑』


 僕は思わず顔を上げた。さあやは僕がポストを読んだのを確認すると、次のポストを見せてきた。


『お菊、今日も休みじゃんww このまま〇ね♡』


 ポストの投稿者には見覚えがあった。夕飯のとき、姉ちゃんが楽しそうに話していた友達の名前だった。こいつも、こいつも知ってる。クラスの女どもが、姉ちゃんをいじめている……?


 僕は『ついにへらった』というポストの日付を見た。10月16日。5日前。それから、姉ちゃんは学校に来ていないってことなんだろうか。

 家ではまったく変わった様子なんてなかった。楽しそうに、母と会話していた。僕にだって普通に軽口を叩いてた。なのに、『へらった』ってなんだよ。


 姉ちゃんはいま、どこにいるんだ。




















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