「先生!!やだ、こんなところで偶然!あはは!! 聖地巡礼してたら、先生に出会っちゃった!すっごーい!
もうこれ運命ですよね!あはははは!」」
交差点を走って渡って来たノアは、声を弾ませて話しかけてきた。
その様子は、昨日、唇から血を流しながら睨んできた人間とは思えない。
僕があっけにとられていると、ノアは一変して言葉を止め、勢いよく頭をさげた。
「先生、昨日はすみませんでしたっ!!」
「え?」
「会ったばかりの人間に思考のすべてをさらけだすわけがないです!!それなのにわたし、先生に拒絶されたと思って、悔しくて、怒って帰っちゃったりなんかして!
本当に失礼な態度をとってしまって、申し訳なかったと思っているんです!」
ノアは顔を上げ、すがるような目で僕を見る。
「もう先生に無粋な質問はいたしません!先生の生み出した作品を丁寧に読みこみ、先生の描く世界、絶望、そして美しい魂を享受します!!
それで、わたしの本気の気持ちの表れを受け取っていただきたくて――これを!」
ノアの手にはショッキングピンクのUSBメモリが乗っていた。
「先生の最新作、『宴』のルイはわたしだと思いました。先生はわたしの心のよりどころなのに、わたしは愛する先生への思いを殺してしまった。
だから、もう一度、先生を取り戻すために、お守りを……先生との出会いのきっかけとなってくれた作品を作りました。今回は、自信作です。どうか、どうか聞いていただけないでしょうか!」
トーンの高い声とは裏腹に、USBを持つノアの手が震えている。
僕の反応を本気で怖がっている。
そんなにまでして、ノアはユスリカと……姉ちゃんと繋がっていたいのか。
僕は心の中で、『ごめん』と呟いた。
でも、謝罪の言葉はとうとう言葉にならなかった。
もうノアに関わらない。それが僕にできる唯一のことだと思った。
僕はノアからUSBメモリを受け取った。ノアの顔がパッと明るくなった瞬間、僕は用意していた言葉をノアに突き付けた。
「申し訳ないけどキミには二度と会わない。
でも、キミとの出会いが創作の刺激になったのはたしかだし、感謝してる。キミの作品もしっかり聞くし、物語を書くときに、必ず思い出すよ。だから、さようなら。会えてよかった。
これからは作品を通じて、僕からのメッセージを受け取ってくれ」
みるみるうちにノアの目に涙が溢れ、やがて大粒の雫が頬を伝ってこぼれ落ちた。
ひとつ、またひとつと頬を伝い流れていった。
「いこっ!」
さあやが僕の手を掴み、強引に歩き出した。交差点の信号は青が点滅している。僕らは走って交差点を渡り切り、適当に角を曲がり続けた。しばらく歩いた後、さあやはそっと振り返り、「もう大丈夫」と囁いた。
「先生って叫んでたけど、あの人、ジュンのホラー小説の読者なの?」
「ユスリカ宛てに家にファンレターが来て、2回会った……」
「そのUSB、『聞く』ってジュンは言ってたけど、中身知ってるの?」
「音声データだよ。さあやも聞いてる」
その瞬間、さあやの足が止まった。
「それって」
「……殺虫剤に投稿した音声。殺虫剤は俺のアカウント」
さあやに軽蔑される恐れなんて、もはやどうでもいいと思った。
誰かに言いたかったんだ。
僕はユスリカじゃないと打ち明けて、救われたかった。
ノアにあんな顔をさせてしまったのは、僕のせいだ。
僕はユスリカなんかじゃないのに、ノアは、僕のせいでいま、絶望してしまった。
それなのに、ノアのもとに戻って本当のことを言おうともしない僕はクズだ。どうしようもないクズだ。
「Xのポストって、ユスリカ作品のオマージュばかりだと思うけど……」
「はっきり言っていいよ、パクリだって」
僕の荒い声がさあやの頬にぶつかる。でも、さあやは全くひるまず、僕をまっすぐに見た。
「ジュンが殺虫剤だったことはこの際どうでもいい。それより、ジュンが本物のユスリカじゃなかったらどうしようって、わたしは心配してるの」
「心配?」
「さっきの人、普通じゃない。情緒やばいよ」
さあやが後ろを見たので、僕も慌てて振り向いた。でも、そこには住宅街が続いているだけで、道路は見渡す限り、誰もいなかった。
「普通さ、連れがいたら、ちょっとは気にするでしょ?なのに、あの人、私のことまったく見ないんだよ。まるで見えてないみたいだった。
それに、聖地巡礼とか言ってたけど、ユスリカ作品って本物の地名なんて一切出てこないんだよね。たとえば、『角を曲がると公園』みたいな情報からこの街を絞りだしたんだとしたら、相当やばくない?ストーカーレベルだよ」
僕はごくんと唾を飲み込んだ。
さあやは僕の目をじっと見据えた。いつものやわらかい表情じゃない、その目には冷たい光が宿っていた。
さあやは声を低く落とすと、一語一語、突き刺すように言った。
「バレたら殺されるかもよ」
沈黙が漂う。さあやは僕の表情を観察し、凍り付いた顔を確認すると、ダメ押しの言葉を放った。
「ユスリカファンって普通じゃない人多いんだから」
☆
家に帰ると、さあやのノートの存在を思い出し、ベッドに寝転んで読んだ。
内容を要約するとこんな感じだ。
クラスの人気者で明るく可愛い主人公のリカは、家に帰ると母親に虐待されている。母はリカを愛しているのだが、愛しかたが行き過ぎているのだ。
一緒に風呂に入りたがり、寝るときも一緒で、スマホの中も全部監視されている。リカは母の監視を逃れようと体を売って金を作り、スマホを買う。
しかし、やがてそれも母に見つかり、リカは拷問される。
リカは母への復讐に燃える。そしてリカは結論にたどり着いた。
『わたしが死ぬことがママへの一番の復讐』……。
そんなに怖くはないけど、精神的には、きた。
『クラスの人気者で明るく可愛い主人公』という設定が、どうしたってさあやと重なってしまう。
まさか。さあやが虐待されてるなんて、そんなことあるのか?
僕はどうかしてる。フィクションと現実の区別がよく分からなくなってきている。ノアに殺されるかもしれないと震えたり、姉ちゃんがサイコパスなんじゃないかと不安になったり……。
へらってんじゃねえよ。
僕だって、『クラスメイトの目にコンパス刺す』とか書いてたじゃないか。
僕は立ち上がり、今度はノアの音声データを聞いてみることにした。
ぐじゅっ
くちゅ
ずじゅ
ぐっぐっ
ずじゅる
僕は気持ちの悪い音を聞きながら、内心ほっとしていた。
一作目は衝撃的だったけど、音の正体がわかった今は、なんの感動もない。音の内容は最初の作品とほぼ一緒だ。
そうだよ。
全部、フィクションなんだ。実際、『臓物を引っ張り出す』音なんて、誰も聞いたことがないのに、リアルだ、なんて思うことがそもそも滑稽だよな。
ふいに人の声が混じった。聞き間違えかと思った。
僕は慌てて音声を巻き戻し、もう一度再生した。
『い……いたい……』
たしかに聞こえる。男の子の声だろうか。小学生くらいの、小さな子供のような声だ。
セリフはたった一か所だけ、小さな音で入っていた。
幽霊動画のよくある演出みたいだ。消え入りそうな声がほんの一瞬だけ入り、『おわかりいただけただろうか?』ってナレーションが入る。あの手のタイプ。
「……趣味わる」
僕は怒りすら沸いて、音声を止めた。
なにが『本気の気持ちの表れ』だよ。子供をこんな気持ち悪い録音に参加させるなんて。
声をいれてリアルにしようとしたんだろうけど、逆に安っぽい。くだらない低予算映画を見せられた気分だ。
どいつもこいつも。
本気で恐れてた自分がバカみたいだ。
階下から、照り焼きの匂いが漂ってくる。顔を上げると6時半だった。
ノアに抱いていた申し訳なさがスーッと薄れていく。さっきまでの陰鬱な気分は消えていた。
僕は今日の晩御飯はブリ照りだろうと予想して、その瞬間、腹がぐーっと鳴った。