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第10話・先生

「先生!!やだ、こんなところで偶然!あはは!! 聖地巡礼してたら、先生に出会っちゃった!すっごーい!

 もうこれ運命ですよね!あはははは!」」


 交差点を走って渡って来たノアは、声を弾ませて話しかけてきた。

 その様子は、昨日、唇から血を流しながら睨んできた人間とは思えない。

 僕があっけにとられていると、ノアは一変して言葉を止め、勢いよく頭をさげた。


「先生、昨日はすみませんでしたっ!!」


「え?」


「会ったばかりの人間に思考のすべてをさらけだすわけがないです!!それなのにわたし、先生に拒絶されたと思って、悔しくて、怒って帰っちゃったりなんかして!

本当に失礼な態度をとってしまって、申し訳なかったと思っているんです!」


 ノアは顔を上げ、すがるような目で僕を見る。


「もう先生に無粋な質問はいたしません!先生の生み出した作品を丁寧に読みこみ、先生の描く世界、絶望、そして美しい魂を享受します!!

それで、わたしの本気の気持ちの表れを受け取っていただきたくて――これを!」


 ノアの手にはショッキングピンクのUSBメモリが乗っていた。


「先生の最新作、『宴』のルイはわたしだと思いました。先生はわたしの心のよりどころなのに、わたしは愛する先生への思いを殺してしまった。

 だから、もう一度、先生を取り戻すために、お守りを……先生との出会いのきっかけとなってくれた作品を作りました。今回は、自信作です。どうか、どうか聞いていただけないでしょうか!」


 トーンの高い声とは裏腹に、USBを持つノアの手が震えている。

 僕の反応を本気で怖がっている。


 そんなにまでして、ノアはユスリカと……姉ちゃんと繋がっていたいのか。


 僕は心の中で、『ごめん』と呟いた。

 でも、謝罪の言葉はとうとう言葉にならなかった。

 もうノアに関わらない。それが僕にできる唯一のことだと思った。

 僕はノアからUSBメモリを受け取った。ノアの顔がパッと明るくなった瞬間、僕は用意していた言葉をノアに突き付けた。


「申し訳ないけどキミには二度と会わない。

でも、キミとの出会いが創作の刺激になったのはたしかだし、感謝してる。キミの作品もしっかり聞くし、物語を書くときに、必ず思い出すよ。だから、さようなら。会えてよかった。

これからは作品を通じて、僕からのメッセージを受け取ってくれ」


 みるみるうちにノアの目に涙が溢れ、やがて大粒の雫が頬を伝ってこぼれ落ちた。

 ひとつ、またひとつと頬を伝い流れていった。


「いこっ!」


 さあやが僕の手を掴み、強引に歩き出した。交差点の信号は青が点滅している。僕らは走って交差点を渡り切り、適当に角を曲がり続けた。しばらく歩いた後、さあやはそっと振り返り、「もう大丈夫」と囁いた。


「先生って叫んでたけど、あの人、ジュンのホラー小説の読者なの?」


「ユスリカ宛てに家にファンレターが来て、2回会った……」


「そのUSB、『聞く』ってジュンは言ってたけど、中身知ってるの?」


「音声データだよ。さあやも聞いてる」


 その瞬間、さあやの足が止まった。


「それって」


「……殺虫剤に投稿した音声。殺虫剤は俺のアカウント」


 さあやに軽蔑される恐れなんて、もはやどうでもいいと思った。


 誰かに言いたかったんだ。

 僕はユスリカじゃないと打ち明けて、救われたかった。


 ノアにあんな顔をさせてしまったのは、僕のせいだ。

 僕はユスリカなんかじゃないのに、ノアは、僕のせいでいま、絶望してしまった。

 それなのに、ノアのもとに戻って本当のことを言おうともしない僕はクズだ。どうしようもないクズだ。


「Xのポストって、ユスリカ作品のオマージュばかりだと思うけど……」


「はっきり言っていいよ、パクリだって」


 僕の荒い声がさあやの頬にぶつかる。でも、さあやは全くひるまず、僕をまっすぐに見た。


「ジュンが殺虫剤だったことはこの際どうでもいい。それより、ジュンが本物のユスリカじゃなかったらどうしようって、わたしは心配してるの」


「心配?」


「さっきの人、普通じゃない。情緒やばいよ」


 さあやが後ろを見たので、僕も慌てて振り向いた。でも、そこには住宅街が続いているだけで、道路は見渡す限り、誰もいなかった。


「普通さ、連れがいたら、ちょっとは気にするでしょ?なのに、あの人、私のことまったく見ないんだよ。まるで見えてないみたいだった。

 それに、聖地巡礼とか言ってたけど、ユスリカ作品って本物の地名なんて一切出てこないんだよね。たとえば、『角を曲がると公園』みたいな情報からこの街を絞りだしたんだとしたら、相当やばくない?ストーカーレベルだよ」


 僕はごくんと唾を飲み込んだ。

 さあやは僕の目をじっと見据えた。いつものやわらかい表情じゃない、その目には冷たい光が宿っていた。


 さあやは声を低く落とすと、一語一語、突き刺すように言った。


「バレたら殺されるかもよ」


 沈黙が漂う。さあやは僕の表情を観察し、凍り付いた顔を確認すると、ダメ押しの言葉を放った。


「ユスリカファンって普通じゃない人多いんだから」



         ☆



 家に帰ると、さあやのノートの存在を思い出し、ベッドに寝転んで読んだ。

 内容を要約するとこんな感じだ。


 クラスの人気者で明るく可愛い主人公のリカは、家に帰ると母親に虐待されている。母はリカを愛しているのだが、愛しかたが行き過ぎているのだ。

 一緒に風呂に入りたがり、寝るときも一緒で、スマホの中も全部監視されている。リカは母の監視を逃れようと体を売って金を作り、スマホを買う。

 しかし、やがてそれも母に見つかり、リカは拷問される。

 リカは母への復讐に燃える。そしてリカは結論にたどり着いた。

『わたしが死ぬことがママへの一番の復讐』……。



 そんなに怖くはないけど、精神的には、きた。

 『クラスの人気者で明るく可愛い主人公』という設定が、どうしたってさあやと重なってしまう。


 まさか。さあやが虐待されてるなんて、そんなことあるのか?


 僕はどうかしてる。フィクションと現実の区別がよく分からなくなってきている。ノアに殺されるかもしれないと震えたり、姉ちゃんがサイコパスなんじゃないかと不安になったり……。

 へらってんじゃねえよ。

 僕だって、『クラスメイトの目にコンパス刺す』とか書いてたじゃないか。


 僕は立ち上がり、今度はノアの音声データを聞いてみることにした。


 ぐじゅっ


       くちゅ


  ずじゅ


ぐっぐっ


  ずじゅる



 僕は気持ちの悪い音を聞きながら、内心ほっとしていた。

 一作目は衝撃的だったけど、音の正体がわかった今は、なんの感動もない。音の内容は最初の作品とほぼ一緒だ。

 そうだよ。

 全部、フィクションなんだ。実際、『臓物を引っ張り出す』音なんて、誰も聞いたことがないのに、リアルだ、なんて思うことがそもそも滑稽だよな。


 ふいに人の声が混じった。聞き間違えかと思った。

 僕は慌てて音声を巻き戻し、もう一度再生した。


『い……いたい……』


 たしかに聞こえる。男の子の声だろうか。小学生くらいの、小さな子供のような声だ。

 セリフはたった一か所だけ、小さな音で入っていた。

 幽霊動画のよくある演出みたいだ。消え入りそうな声がほんの一瞬だけ入り、『おわかりいただけただろうか?』ってナレーションが入る。あの手のタイプ。


「……趣味わる」


 僕は怒りすら沸いて、音声を止めた。

 なにが『本気の気持ちの表れ』だよ。子供をこんな気持ち悪い録音に参加させるなんて。

 声をいれてリアルにしようとしたんだろうけど、逆に安っぽい。くだらない低予算映画を見せられた気分だ。


 どいつもこいつも。

 本気で恐れてた自分がバカみたいだ。


 階下から、照り焼きの匂いが漂ってくる。顔を上げると6時半だった。

 ノアに抱いていた申し訳なさがスーッと薄れていく。さっきまでの陰鬱な気分は消えていた。

 僕は今日の晩御飯はブリ照りだろうと予想して、その瞬間、腹がぐーっと鳴った。










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