翌日、学校につくと、窓際で友達と喋っているさあやが見えた。
僕に気づくと、さあやは飼い主の帰りを待ちわびていた犬のようにかけよってきた。
「おはよう!」
おはよ、とクールに返して、席に座ると、
「あの、昨日の話なんだけどっ」
さあやは待ちきれない、と言った様子でノートを差し出してきた。
「これ、例の」
「サンキュー、家でじっくり読むわ」
イケてる僕は、受け取ってもすぐにノートを開いたりしない。余裕の表情を浮かべ、カバンにしまう。さあやは期待と不安が入り混じった顔で僕を見ていた。
「は、恥ずかしいな、すごい人に読んでもらうの……」
「読んでもらわないと上達しないよ?」
なーんちゃって!
なーんちゃって!!
「あと、俺のはこれね。まだ公開前だから、データ渡せなくてごめん」
「全然、全然!ありがとう!!」
僕がスマホを渡すと、さあやは僕の机の前ですぐに読み始めた。
さりげなく教室を見渡す。
いつもこの時間には来ているナオキはまだ来ていない。今日も休みなんだろうか。風邪かもしれない。
そういえば、今日の朝、テレビでニュースキャスターが『季節の変わり目で体調不良の人が増えている』って言ってたもんな。
もう一度、キョロキョロ。
クラスの陰キャグループの1人が、僕とさあやの様子をチラ見していた。
その瞬間。笑みがこぼれそうになって、僕は慌てて顔をひきしめた。
☆
「うおお……こ、これは……っ!先生の新たな挑戦が始まった、という感じでしょうか!今までと全く雰囲気が違いますね。まだ序盤ですが、ルイの狂気の表現が素晴らしいです」
放課後。僕は以前待ち合わせた仙台の喫茶店で、ノアと落ち合っていた。
ノアの感想も、さあやと同じだった。
ユスリカの新作・『宴』は家にも学校にも居場所がない主人公ルイが、愛猫を殺すところから始まる。
心のよりどころだったはずの愛猫を殺したルイは、泣きながら解体する。そして、愛猫の舌を乾かし、お守りとして持ち歩くようになる。いじめられるたびに、ルイは愛猫の舌の入ったお守りを思い出し、笑顔になる……。
しかし、ある日、お守りを母に捨てられ、ルイははやくお守りを作らないと、と恐怖する。
お守りがなければ、ルイは笑えない。
お守りは大好きなものの形見でなくてはならない。ルイは仕方なく、大好きな隣の家の少年でお守りを作ろうとする……。
たしかに、今までのユスリカの小説のテイストとは違う。
今までの主人公は、完全なサイコパスで、圧倒的に強くて、無慈悲な殺人マシーンだった。でも、今回は、心の弱った女の子が狂っていく様子を描いている。
「なにか心境の変化があったんですか?」
「え、いや。ちょっと飽きちゃったんだ。今までのテイストに」
ノアは意外だ、という顔をして、
「先生って不思議な人ですね。作品からはただならない怒りや憤りを発しているのに、お話している先生は普通の男の子にしか見えないんですもん。本物っていうのは、気配の消し方も一流なんですね」
と首を傾げた。
「ほとんどの殺人犯が、殺気を消せない。だからすぐバレちゃう。20年くらい前にも、中学生が凶悪事件を起こして世間が騒然としましたけど、近隣住民は『あいつがやったんじゃないか』ってしきりに噂していたらしいじゃないですか。
猫を殺して放置したり、盗んだナイフを近所の小学生に見せたりしてたらしいんです。ほんとバカ。そういう頭の足りない人間をわたしは許せません」
僕はバツが悪くて、カフェラテの入ったマグカップに口を付けた。すっかりぬるくなったカフェラテが、喉を流れていった。
「わたし、テッド・バンディが好きなんです。美しい容姿とIQ160の天才的な頭脳を持っていたシリアルキラー。先生ももちろんご存じですよね」
……知らないよ、そんな奴。
「あんなに残忍に30人以上の女性を殺したのに、裁判には女性ファンが殺到。声援が飛びました。そして、テッドは証人の女性と獄中結婚。裁判長ですら『法廷で活躍する君が見たかった」と彼の話しぶりに魅了されていました。本当にゾクゾクする素敵な男性です」
ノアは虹色に光るビー玉のような目で僕を見つめた。
「先生は、彼以上に知的で、魅力にあふれた方です。先生になら、殺されてもいい」
僕はカップを慎重にテーブルに置いた。
カフェラテを飲んだばかりなのに、口の中ははやくも乾き始めていた。
『ファンとは絶対に関わらない。顔も見たくない』
姉ちゃんの声を思い出す。僕を見つめていた、暗い目も、一緒に。
小説の世界なんてフィクションにすぎない。『死』というワードも、『恋愛』や『スポーツ』と同義語の、ただのお題だ。目的達成までの紆余曲折をいかにスリリングにリアルに表現するかがミソで、姉ちゃんはお話を作るのがうまいってだけだ。
少なくとも、姉ちゃんは布団圧縮機で猫を窒息死させたりしないし、僕に刃物を向けたりしない。僕の知る姉ちゃんは、いじわるは言うけど、人をいたぶって喜ぶような人物じゃない。ホラー映画は見ないし、世にも奇妙な物語ですら、「こわい」と言ってチャンネルを変える。狂気を抱えているのかもしれないけど、殺人犯にはならないと思う、たぶん。絶対。そんな勇気なんかない。
でも、目の前の女はどうだ。
殺人鬼を心から愛して、気持ちの悪い音声を作るのが趣味の女……。
「ユスリカの作品は全部フィクションだよ」
たまにいるよな。フィクションとリアルの区別がわからないヤツって。
僕はカップの中の波が静かに消えていくのを見つめながら、もう、この子と関わるのはやめようと決めた。
「そろそろ、帰ろ」
顔を上げた僕は、ギョッとした。
ノアの唇から真赤な血が流れていた。ノアは唇を噛みしめ、2つの目で僕を凝視していた。ポタッポタッと血が滴り、ノアの着ていた白いブラウスに落ちた。
な、なんだ、こいつ……。
次の瞬間、スマホの着信が僕らの静寂を切り裂いた。
僕は慌ててスマホを手に取り、「あ、もしもし!?」と電話の相手に呼びかけた。母さんが帰りの遅い僕に怒ってかけてきたのかと思ったけど、違った。相手はさあやだった。
「ジュン、ナオキから連絡あった!?」
「え、ナオキ?ないけど……なんで?」
さあやはちょっと黙って、
「私も、今、お母さんから聞いたことだけど、でもまだ噂だから、ほんとかどうかはわかんなくて。でも、ナオキってもう2日も休んでるよね?ラインも全然既読つかないし、変なことに巻き込まれてるってこと、ないかな。事件とか」
と早口でまくしたてた。
まったく意味が分からない。
「ナオキがどうかしたの?」
「でも、まだ噂の段階なんだけど」
「本当かどうか定かじゃないのは分かったよ、で、その噂ってなに?」
「ナオキ君、女の人盗撮して捕まったって」
「え、盗撮!!!??」
思わず叫んだあと、僕は慌てて声のボリュームを抑えた。
「い、いつ、ど、どこで?」
「おとといの夜。女の人のあと付け回して、女の人が怖くなって交番にかけこんだって。ナオキ君、すぐに逃げたけど、それが逆に怪しくて警察官がおっかけて、捕まえたみたい。カバンから盗撮用のカメラとか、警棒とか見つかって、やばいことになったって……お母さんの知り合いの知り合いがその女の人の友達ってヤツで、だから、まだ『ナオキ』違いかもしれないけど」
喫茶店の中は会社帰りのOLやサラリーマン、女子高生たちで賑わっている。なのに、まるで彼らは幕の外にいるみたいに音がくぐもって聞こえる。
いつの間にか、ノアはいなくなっていた。僕に腹を立て、帰ってしまったのだろうか。
だけど、いまはもうそれどころじゃなかった。
ナオキが捕まった?
盗撮用のカメラと、警棒をかばんの中に入れて?