あんたの背がちっちゃくて、おばかさんなのは、お腹の中の栄養をぜーんぶお姉ちゃんがもっていっちゃったからなのよ。
僕は小学校の高学年になるまで、ずっとそのバカげた言葉を信じていた。
担任の先生に「姉ちゃんのせいで、算数ができない」と泣いたら、先生に大笑いされて、そこでやっと、母の発言がクソみたいなジョークだと気づいたのだ。
僕は姉ちゃんが嫌いだ。
頭が良くて美人で才能あふれる姉ちゃん。いつだって僕は姉ちゃんと比較され、凡人の烙印を押されてきた。
「98点?お姉ちゃんは100点しかとらないのよ。あんたも頑張りなさい」
そう鼻で笑って僕のテストを突っ返してくる母も嫌いだ。
そんな母を注意もせず、「うちの子たちは優秀だなあ」とへらへら笑ってる父も嫌いだ。
嫌い嫌い嫌い嫌い。その呪詛の言葉は年を追うごとに凶暴になる。消えろ消えろ消えろ死ね。
死んでしまえ。お前らなんか。
だけど、ムカつけばムカつくほど、心の奥の奥のほうに、塩の粒ほどの大きさの『認められたい』という気持ちがあることに気付く。それは僕の涙の結晶だ。そんな文章を書いたら、『詩人じゃん!』って姉ちゃんに笑われそうだから、絶対に言葉にはしないけれど。
冷蔵庫のドアを開けると、ホールケーキの箱が入っていた。
「なにこれ」と言うと、「今日、発表の日だから」と母は嬉しそうに言う。
マジかよ……。
僕の心は熱湯をかけられたレタスのように、急速にしおれていく。
掛け時計を見上げると、17時過ぎだった。部活に入っていないのに下校が遅くなったのは、先生と英語のスピーチの練習をしていたからだ。
『僕、学年代表で英語のスピーチすることになった』と本当は母に報告するつもりでリビングに来て、ちょっともったいぶって飲み物でも飲もうと思って冷蔵庫を開けて、これだ。僕は静かに冷蔵庫のドアを閉めた。
次の瞬間。母のスマホがけたたましく鳴った。
「もしもし!?お姉ちゃん!!??」
母が弾けるような笑顔で電話に出た。
「ああ……そう……え……そうなんだ。そっか……」
声色がみるみるうちに落胆の声に変わっていく。
「見る目がないわよ、その審査員たち!そうだ、年齢が若すぎて敬遠されちゃったんじゃない!?気にすることないからね!お姉ちゃんならいつでもプロになれるんだから」
僕はうんざりしながら冷蔵庫をもう一度開け、ホールケーキの箱を取り出す。箱を開けると『受賞おめでとう!』と書いてあるチョコレートプレートをつまみ上げ、『食べていい?』とジェスチャーで母に聞いた。
母は野良犬を追っ払うような顔で頷いた。
「うんうん。今回は残念だったけど、次があるから!……え?大学?ああ、そうね!大学もお姉ちゃんなら一流のところに入れるものね」
母は姉ちゃんに慰めの言葉を送り、やっと電話を終えると、「それ見たらお姉ちゃんが哀しくなっちゃうから、4等分にして、ショートケーキにしないと……ああ、ごちそう作っちゃってどうしよう」とブツブツ言いながら夕飯の心配をしだした。
4等分にしたって、食卓にごちそうとケーキが並んでいたらバレバレじゃん。バカじゃねえの。
僕の名前は浅井ジュン。
12月6日生まれのいて座。得意科目は英語で、苦手科目は音楽だ。昔、家族でカラオケに行ったときに、姉ちゃんに「へたくそ」と言われて以来、歌うのが嫌いになった。姉ちゃんのことも「音痴!」って言ってやろうとかまえていたのに、結局姉ちゃんは一度も歌わなくて、それを今も根に持っている。
浅井わかな。それが天敵の名前。2個上の高校3年生。いまは受験シーズンで、早稲田の一文を狙っている。
早稲田への進学を強く希望したのは母だった。
『朝井リョウさんはね早稲田在学中に賞をとって、時の人になったのよ!賞をとれば就職にも有利だし、将来安泰よね』
そのセリフを聞かされるたびに僕は心の中で、絶対ムリだろ、と吐き捨てる。
だってそうだろ。母さんだって本当は姉ちゃんの小説を読んでないじゃないか。
「ちょっと……お母さんは純文学っていうのが分からないから」とか言って逃げるけど、なにが純文学だよ。
姉ちゃんの書いている小説は、頭のおかしなサイコ野郎がただ人を殺すだけの物語だろ。
☆
チョコレートのついた指を舐めながら、2階にあがった。
階段をあがりながら、気付けば顔がほころんでいて、「ざまあみろ」と小さく呟いて自分の部屋のベッドにダイブした。
学年スピーチのことは、夕飯のときに満を持して言おう。受賞できなくてお通夜状態になっている姉ちゃんを追い打ちをかけてやる。そしてこう言ってやるんだ。「俺、やればできるみたい」って。「俺はやりたくなかったんだけど、先生に俺の発音がいいからどうしてもって説得されてさ~」っていうのもつけ足そう。
鼻歌交じりにスマホをいじり、ふと姉ちゃんが応募したというホラー小説大賞の募集ページを見に行った。最終発表は『9月中旬』となっていて、今からまだ一か月近くある。姉ちゃんの場合は担当編集者から内々に連絡がきたということだ。
ユスリカ。
夏のコンビニの窓に大量に張り付いている小さな虫の名前。
それが姉ちゃんのペンネームで、たしかに最終選考の名前に入っていた。
「小説ねえ」
僕はスイスイとスマホを操作して、『ユスリカ』で検索してみた。
すぐに小説サイトがヒットして、姉ちゃんのページが現れた。まず目に飛び込んできたのは、ホラーランキング。1位は『エレベーター』というタイトルで作者はユスリカだった。
『ベランダから落下した瀕死の女を回収しに行く場面最高です!!』
『エレベーターの監視カメラに写る狂気の描写がさすがユスリカ様!!』
『変な方向に曲がってる女の足がエレベーターのドアに引っかかるところ、ぞっとしました!』
「きも……」
僕は思わず顔をしかめた。
ユスリカには応援スターが万単位で投げられ、ファンも10000人以上いる。
ファンは皆、ホラー小説が大好きな頭のおかしい人間なんだろう。グロいシーンになればなるほど喜んでいるようだ。僕が昔、姉ちゃんの創作ノートを斜め読みしたときよりも、数段気持ち悪さがレベルアップしていたけど、でも。
「こんなの、俺にもできるっつうの……」
ちいさな対抗心の炎は、ユスリカの賞賛コメントを見ているうちに瞬く間に大きく燃え上がった。
僕にもできる。たかがホラーじゃんか。怖い話なんて、人が死ぬだけの物語だし、残酷なシーンくらい、僕にだって書ける。頭がおかしい真似をすればいいんだろ。
そうだ。
僕は自分のひらめきにワクワクした。
SNSだ。一気にバズって人気アカウントにしよう。
僕はXのアカウントを作り直し、ちょっと悩んだ末に『殺虫剤』というアカウント名にした。
ユスリカを駆除する殺虫剤。
バズリ散らかして、僕の方が上だってことを見せつけてやる。