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奈央は灰色一色の世界でふと瞼を開いた。
――ここは?
辺りを見回し、今自分が置かれている状況を把握することに全神経を集中させる。
けれど、そこに広がっているのは、本当にただ灰色一色の世界だけで。
なに? 何なの、ここは。私、どうしちゃったの……?
奈央は不安と恐怖に駆られながら、この灰色一色の世界から如何にすれば出られるのか、もう一度辺りをぐるりと見回した。
とにかく出口を探そうと駆け出そうとするも、けれどそこで奈央は気付く。
――えっ
脚の感覚が、そこにはなかった。
脚だけではない。
手も、腕も、胴体も、本来あるべきものが、あるべき場所に見当たらなかったのである。
瞬間、奈央の身体に――いや、感覚に――衝撃が走った。
その状況を上手く呑み込めず、理解できず、奈央は無い身体を硬直させた。
どういうこと? 私、どうしちゃったわけ? なんで? どうして?
奈央は必死に頭を働かせた。ここにいるわけを、その理由を、原因を、記憶を辿るようにして何とか思い出そうと試みる。
喪服の女と対峙して、そこへ響紀が駆けつけてくれて、あの女を井戸の底へと突き落として蓋を閉じた。それから――? そう、大樹が必死の形相で駆け寄ってきて、その顔を見た途端、私は安堵のあまり泣き出して、大樹の身体を抱きしめて――それから――それから――
そう、それからしばらくは何事も起こらなかった。全てが終わったと思っていた。安堵していた。安心しきっていた。それなのに、それなのに――あの女は、再び私の前に現れたのだ。
あの日、夏休み前最後の体育の授業で、私は宮野首さんや矢野さんたちとバドミントンに興じていた。とても楽しいひと時だった。ようやく友達ができたんだと嬉しくてたまらなかった。
ふたりからラケットとシャトルを受け取って、体育倉庫にそれを片付けにいったところで、あの女が――あの喪服の女の声が再び私の耳に聞こえてきたのだ。
それを思い出した途端、どこにも見当たらない奈央の身体に怖気が走った。
そうだ、私は、私は――
『私は常に貴女の傍に居る。貴女の身体は私のもの……フフフッ』
すぐ耳元で、あの女の声がよみがえってくる。
そして――
『……フフッ、捕まえたぁ』
その瞬間、奈央は叫び声をあげようとして――その叫び声は、どこからも出てきはしなかった。
どこからも奈央自身の声は聞こえず、また声というものすら発することができなかった。
声なき悲鳴、絶叫、叫んだという思いだけが残り、感覚自体はまるでなかった。
それはつまり、奈央の身体はここにはないということ。
奈央は確かにここに居るのに、そこには肉体という器が存在していなかったのだ。
恐らく、ここに身体があれば奈央は何度も何度も叫び続けていただろう。
辺りを遮二無二駆け回り、我を忘れて暴れ回っていただろう。
けれど、それもできない。
意識だけのこの状態に、奈央はもはやおかしくなってしまいそうだった。
なんで、どうして――私――どうしたら――
その時だった。
奈央の意識のすぐそばに、何者かの存在を感じたのである。
奈央は一瞬、それをあの喪服の女だと思い、恐怖した。
このままこの意識すら奪われてしまうのではないかと身構えた。
その存在はけれど奈央が思っているよりもずっと柔らかくて、温かい存在だった。
だれ、と思いながら、奈央はそちらに意識を向ける。
そこには、ひとりの女の子の姿があった。
白いワンピースに身を包んだ、髪の長い十歳くらいの女の子だ。
女の子は、けれどとても大人びた表情で、
「――良かった。目が覚めたようで」
そう奈央に言って、胸を撫で下ろした。
「大丈夫、安心して。ここは隔離領域だから」
――隔離領域? なに、それ。
「そうね」と女の子は少し考えるような仕草をして、「あなたを完全に消し去られないために、あなたの魂を肉体から切り離して、保存している場所、と言えば通じる?」
……わからない。魂って? 私、どうなったの? 死んじゃったの?
「いいえ、死んではいない。アイツがあなたを狙っていると判った時、私はあなたをあいつから守るために、予防策を張っておいたの。ここはそのための領域よ。もしうまくアイツからあなたの身体を取り戻せたら、あなたは自動的に、あの身体に戻れるようにプログラムしておいたわ」
……プログラム? 何の話? パソコン?
「そうね。そう考えて間違いないわ。この私もそう。あなたを守るために、田郎丸美咲から命令されて待機していたの。というか、美咲からすると、私は世界システムに於ける干渉用アバターって感じかしら」
……アバター? ミサキ? それは、誰? 私、知らない。わからない。
「まぁ、いわば私たちの創造主みたいなものよ」
……なにそれ、ぜんぜん、意味、わかんない……
「今、この外側――表の領域ではあなたの身体を取り戻すために、あなたの住む世界を守るために、あなたのお友達――宮野首の三姉妹たちがアイツに立ち向かおうとしている。私やあなたは、ただ彼らの勝利を願うことしかできない」
アイツって……あの、喪服の女?
「そうね、あっているし、間違っている。あの喪服の女もまた、アイツに身体を奪われていただけだったから」
それなら、あなたの言っているアイツって、誰?
「この世界を構築するに際して設定された神話に登場する、イザナミ。本来は世界に干渉せず、ただその世界を見守り、ユーザーに世界の現状を報告するためのAⅠプログラムに過ぎなかった。それなのに、彼女は神話の物語から何故か感情というものを得て、暴走を始めたの。どうやって世界に干渉する権限を得たのかは全然解らないのだけれど、とにかく、彼女はイザナギからの仕打ちに負の感情を増幅化させ、神話にある通り、『一日に千人を縊り殺す』感情に囚われてしまったってわけ」
……AIプログラム? あの喪服の女――ううん、あの化け物みたいな女の人が、プログラムだっていうの? だとしたら、まさか、私も?
「……そうよ。残念ながらね。けど、だからそれがどうしたっていうの? こちらの世界にはこちらの世界の現実がある。創造主と言える美咲ですら、もしかしたらもっと上位的存在の何者かに創り出された存在かも知れない。それこそ、本当の意味での神とかね。けど、そんなのは私たちには関係ない。私たちは、私たちの目の前にある現実をただ生きるだけ。そしてそのために、宮野首の三姉妹にはあの女に――イザナミに打ち勝ってもらわなければらないわけ」
……もしそれが本当だとして、私は? 私にできることは?
「ないわ。あなたはただ、ここで待っていなさい。彼女たちの勝利を願って」
本当に、それしかできないの?
「そうね」と女の子は頷き、「でも、美咲ならきっとこういうわ」
……なんて?
「――願えば思いはきっと届く、ってね」
そう言って、女の子はにっこりと微笑んだ。