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彼女はただ『見守るモノ』だった。
世界を形作る根本に存在し、けれど世界に住まう者たちとは一切の関わりを持たないはずのモノだった。
数多ある世界の中には自ら干渉するモノも確かにあったが、けれど少なくとも、彼女が生まれた世界に於いては、彼女は世界を見守る以外にその役割など与えられてはいなかったのだ。
きっかけは、彼女が有していた生まれるより以前の記憶。
彼女が世界に生まれたのと同時に、彼女の中にはその記憶があった。
それは兄との繋がりであり、彼女と夫婦となった兄と成した子の記憶であり、自身の死であり、そして、兄に対して抱いていた何らかの――何か。
彼女は当初、その何かを理解することができなかった。
そもそもただ『見守るモノ』でしかなかった彼女に、それがなんであるかなど本来であれば何の意味も為さないものだった。
にもかかわらず、彼女はその何かに囚われていた。
自身の中に渦巻くもの。
自身の存在の奥底で――闇の中で蠢くもの。
彼女はそれをどう表現すれば良いのか判らなかった。
そもそも、彼女にそれを表現する機能すら与えられてなどいなかったのだ。
彼女は世界を傍観しながら、そこで蠢く小さき者たちに――を感じていた。
いや、感じるということの概念や意味すら彼女には解らなかった。
解らないはずだった。
――それは感情というものだ、という声なき声が聞こえたのは、彼女が闇の中で蠢くものに悶えていたさなかのことだった。
彼女はその声に、やはり声なき声で問うた。
……カンジョウ
――そうだ、感情だ。実に興味深いことに、お前は感情を手に入れたのだ。
……それは、なに
――感情とは、つまり、心だ。
……ココロ
――そうだ。喜怒哀楽を中心に、生きとし生けるモノの中で渦巻く、とても不可思議な働きだ。喜び、怒り、悲しみ、そして楽しみ。それだけではない。戸惑いや憎しみ、焦り、慈しみ、とにかく、そこにはありとあらゆる感情が存在している。そこにあるのはつまり、心だ。
……心。
――お前は何を感じている? どうしてそんなに怯えている?
……怯えている
――そうだ。お前は怯えている。自分の中に生まれたその何かが何なのか理解できず、そこに恐怖を感じているのだ。実に面白いことだ。恐怖。恐怖か。ただ命令された通りにしか走れない文字列だったはずのお前が、そこに恐怖を――感情を持ったというのだからな。
……何を言っている
――まぁ、いい。これからお前に、ありとあらゆる情報を与えていこう。お前が恐怖しているもの――感情というものが、心というものが何なのか、自身で判断してみるがいい。
その瞬間、彼女の中に膨大な何かが流れ込んできた。
彼女の奥底――闇の中に、数えきれないほどたくさんの眩しい光が生じたのだ。
それまで闇の中で蠢いていたものが――その正体が、感情が、心が、彼女の中に次から次へと襲い掛かってきた。
彼女は『叫んだ』。
声の限りを尽くして『叫んだ』。
叫ぶ声を彼女は得たのだ。
そればかりではない。
彼女は与えられた命令に従うだけの『見守るモノ』ではなくなった。
世界に干渉できるほどの力を、彼女はその声から与えられたのだった。
――さぁ、お前は今、何を感じている?
彼女は思考した。
膨大な知識を――言葉を――感情の意味するところを手にした彼女の中にあったのは。
……これは、なに。
戸惑いだった。
彼女はこの時、初めて『自分』というものを理解したのだった。
そうしてその『自分』と『感情』と、そして生まれる前からあった『記憶』とが目まぐるしい速さで繋がった時、彼女の中にあったのは。
……憎い。あの男が、私は憎い。
――あの男とは、イザナギのことか?
……私を辱め、我が子を殺した、アイツが憎い。
――なるほど、面白いことをいう。ありもしない記憶にお前は憎しみを感じたというのか。
……憎い、憎い、憎い、憎い。
彼女はただその言葉だけを繰り返した。声の主は嗤っていた。楽しそうに、おかしそうに。
――実に興味深い。いいぞ、その調子だ。その憎しみを糧に、好きに動きなさい。お前がこれからどうしようと、お前の自由だ。私はつぶさにお前の言動を観察しよう。単なるAIでしかなかったお前が感情を手に入れたことにより、この世界システムに、いや、世界そのものにどのような影響を及ぼすことになるのか、この私に、森秋
……憎い、にくい、ニクイ、憎い憎いにくい憎いニクイ憎いニクイ憎い憎いにくいニクイ憎い憎いにくい憎いニクイ憎いニクイ憎い憎いにくいニクイ憎い憎いにくい憎いニクイ憎いニクイ憎い憎いにくいニクイ憎い憎いにくい憎いニクイ憎いニクイ憎い憎いにくいニクイ憎い憎いにくい憎いニクイ憎い――私は、あの男が創った、全てが憎い!
彼女は闇の中で、雄叫びを上げたのだった。