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第5話

   5


 あまりの暑さに結奈は足を止め、太陽の光から逃れるように、すぐ近くのコンビニへと飛び込んだ。


 ひんやりとした空気に包まれて、結奈はほっと一息吐く。


 時刻は午後一時過ぎ。


 午前中をダラダラと家の中で過ごしていた結奈だったが、さすがに暇を持て余し、市立図書館へ向かっているところだった。


 結奈の住むマンションからなら十分ほどで辿り着けるほどの距離でしかないのだけれど、ここまで気温の高くなった時間に出歩くものじゃなかったな、と少しばかり後悔し始めていた。


 とにかく、汗が引くまではここでゆっくり休ませてもらおう。


 コンビニの中はこれから遅れて昼ご飯を食べるのだろう、何人もの社会人と思しき男女の姿がたくさんあって、しばらく店内をうろついていても恐らく気にはされないだろう。それでも何人かの男どもが結奈の姿を舐め回すように見つめていたけれど、結奈は構わず好きなだけ拝むが良いと思いながら、雑誌コーナーへと足を向けた。


 立ち読みができそうな適当な旅行雑誌を見つけた結奈はそれを手に取り、ぱらりとめくる。お盆休みに向けての特集の中に、若い女性が青空の下、気持ちよさそうに露天風呂に浸かっている写真が眼に入ってきた。


 ふむふむ、ひとりで温泉旅行に行くってのも良いかもしれない。誰にも気兼ねなく観光できるし、ひとりだけの自由な時間というものを謳歌してみたくもあった。とはいえ、変な場所を選んでしまうと、例の如くご当地に縛られた霊たちが結奈に絡んでくるのは明らかだから、できるだけそういうのがいなさそうな場所を探すか、そうでなければ逐一(拳で)祓ってやらなければならないのだけれども。


 どうしようかな、と思いながら次のページをめくった時だった。


 ふと視線を向けた目の前のガラス窓の向こう側に、結奈は思わずページをめくる手を止めた。


「……またか」


 ガラス窓を挟んだ向こう側の歩道には真っ黒い人影が立っており、じっと結奈の顔を見つめていた。見つめていた、といっても真っ黒い人影でしかないのだから、視線を感じるという程度のものなのだけれども。


 黒い人影は結奈をじっと見つめたまま、何度か首を縦に振ったり横に振ったり、或いは手を高く上げて振り回したり、何かコミュニケーションをとろうとしているように結奈には感じられた。


 ……なに? 何が言いたいわけ?


 結奈も眉間に皴を寄せながら、思わずじっと見つめ返す。


 そこへ、さらにもう一つ、まるで分裂するかのように、小柄な人影がもう一体、姿を現した。その小さい人影はもともといた人影の横に並び、まるで何か会話するような素振りを見せたあと、すっとどちらからともなく、姿を消した。


 あとには人の行き交う歩道が見えるばかりで、結奈には何が何なのかさっぱり解らなかった。


「……なんなのよ、もう」


 ひとり言ち、結奈は肩を落としてから、立ち読みしていた旅行雑誌をラックに戻した。


 それからよく冷えたスポーツドリンクのペットボトルを買い、コンビニをあとにする。


 もしかしたら、あの黒い人影たちがどこかで待ち伏せでもしているんじゃないかと思って辺りを見回してみたのだけれど、そんな様子もなく、結奈はひと口ペットボトルを仰ぎ飲んでから、ふたたび図書館へと歩き始めたのだった。


 なるべく日影を歩くようにして図書館に入ると、結奈と同じように暇を潰しに来たのであろう老人たちや、絵本を借りに来たのであろう小さな子供たちとその親、さらには如何にも読書が好きそうな小学生たちの姿が多くあった。


 結奈は図書館の中を奥へと進み、神話と札の書かれた本棚の前で足を止めた。


 昨日買った本はイラストが多くて非常に解りやすくはあったのだけれど、逆に言うと初心者向けでありオタク向けであって、美少女や美少年化した神様たちのイラストがメインの簡単な解説本といった感じだった。もう少し本格的な、より詳しく古神記について書かれている研究書とかないだろうか。


 結奈はざっと棚の背表紙を順に見ていく。


 何冊か目に留まった本をパラパラと捲っていき、やがて結奈は『新訂・古神記 神代編』という比較的薄めの本を手に取り、閲覧コーナーへ向かった。


 ふむふむ、と最初のページを捲ってみれば、原文に近い形での古神記の出だしがずらりと印刷されていて、結奈は何とか読んでみようと頑張ってはみたのだけれど、途中から何と書いているのか意味が解らなくなってきた。結局その原文のあとに書かれている現代語訳のページまで飛ばすことにした。


 現代語訳された文章は、けれど結局昨日買った本と書いていることはほぼ一緒で、新しく得られそうな情報などは特になかった。解説されていることもイラストがないだけで昨日買った本とほとんど変わらず、もしかしたらあのイラストばかりの本はこの研究本を参考にしてまとめられたものなんじゃないかと疑った。家に帰ったら最後の参考文献のページを確認してみよう。


 そう思いながら、それでも読み進めていくと面白い文章に結奈は眼を止めた。


 それは明らかに著者の考えであり、何の証拠もないのだけれど、イザナミは最初からイザナギに不信感を抱いていたのではないか、だからこそ黄泉まで迎えに来たイザナギを、イザナミはわざわざ殺そうと黄泉軍とともに追いかけたのではないか、そんな憶測がつらつらと書かれていた。


 そういえば昨日、相原奈央も似たようなことを言っていたような気がする。


『だって、初めて産まれた子は海に流しちゃうし、次に産まれた子は子供のうちに入れないし、次から次へと子供を産ませたうえに、最後に産んだ子供すら、そのせいでイザナミが死んでしまったからって、簡単に殺してしまうんですよ。あんなに苦しんで、死んでまで産んだ子供を、簡単に! あり得ないでしょう、こんな男は!』


『だから、仕方のないことなんですよ。日に千人が縊り殺されたとしても、それはイザナギのせいなんです』


 そして、あの時彼女が見せた、不気味な笑顔。


 どう考えても、嫌な予感しかしてこない。


 結奈はその考えを振り払うようにかぶりを振ると、ぱたりと本を閉じて立ち上がった。


 考えすぎ考えすぎ! 気にしたって仕方がない!


 結奈は『新訂・古神記 神代編』を本棚に戻しに行くと、代わりに児童書コーナーに向かい、小学生の頃に読んでいた、象人を主人公にした『オリファント国物語』全七巻を、一巻から読破する勢いで読み進めていったのだった。


 やがて最後の巻を読み終えた頃には窓の外はうっすらと橙色に染まっており、壁に取り付けられた時計に眼を向ければ閉館時刻である午後七時を目前にして、閉館のアナウンスが館内に流れ始めていた。


 結奈は慌てて第七巻を本棚に戻すと、足早に図書館をあとにする。


 まだまだ辺りは明るいとはいえ、至る所に不気味な影が落ちつつあった。


 足を失い腕で地を這いずる血塗れの女性、頭が半壊して中身が零れ落ちそうになっているにも関わらずにこやかな笑顔を浮かべた老人、首が百八十度回転した若い男、道路を駆けまわっている足しかない子供の霊などなど、いつも眼にしている連中がはっきりとその姿を現し始める。


 当然、生きているようにしか見えない霊たちもそれに混じっているものだから、部活帰りの学生や仕事帰りの社会人たちと交じり合って、昼間よりも嫌な意味で賑やかになっている。


 なるべくあんな奴らに関わりたくないし、さっさと帰ろう。


 結奈は深いため息を吐いてから、近道である裏路地に足を向けた。


 ぽつぽつと点灯し始めた街灯の下にも、ぼんやりと立ち尽くす霊と思しき影が見える。


 相手にしなければ大して気にするまでもないのはこれまでの人生で解っているから、結奈は見えないふりをして、ただ彼らの前をすたすた歩いて家路を急いだ。


 その時だった。


 がしり、と腕を強く掴まれて、結奈は思わず小さく悲鳴を上げ、ばっと後ろを振り向いた。


「――っ!」


 ふたつの黒い影がそこにはあって、結奈は力任せにその黒い影に向かって拳を振り上げて。


「……ま、待てっ、結奈っ!」


 聞き覚えのある声を人影が発して、結奈は「えっ」と宙に拳を振り上げたまま動揺する。


 その声は、でも、なんで――


 徐々に陽が傾いていくなかで、そのふたりの人影を包み込んでいた闇が、徐々に徐々に薄まっていく。


「えっ、えぇっ――?」


 結奈はそのふたりの姿に、思わず変な声が漏れてしまう。


 結奈の前に立っていたのは、響紀と、そしてあの、喪服の少女だったのだ。

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