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第3話

   3


 玲奈はゆっくりと瞼を開くと、薄暗い部屋の中、天井をじっと見つめた。


 きっちり閉じたカーテンの隙間から漏れる強い陽の光が、視界の隅にぼんやりと見える。


 昨夜はエアコンをつけっぱなしで寝てしまったものだから、ひんやりとした空気の中で、玲奈は首元まで布団を被って眠っていた。


 ふと視線を横に向ければ、コトラがすやすやと寝息を立てながら、今もまだ眠っている。


 玲奈はコトラの頭を数回撫でてから、起こさないようにベッドから抜け出した。


 大きく伸びをして、深呼吸をひとつする。


 昨日は昼過ぎからずっと腹痛と吐き気に見舞われたが、今朝はわずかな頭痛と腹部の違和感を覚えるくらいで、昨日よりはまだマシだった。


 玲奈はお腹をさすりながらトイレに向かい、しばらくして部屋に戻ると、コトラがベッドの上でちょこんと座って待っていた。


「――大丈夫ですか?」


「うん、とりあえず、今のところは」


「良かったです。でも、いつもいつも大変ですよね……」


「まぁ、そういうものだから、仕方がないね」


「治ったりはしないんですか?」


 そんなコトラの質問に、玲奈は思わず笑みを浮かべて、

「まぁ、歳を取っていけば、たぶん、そのうち?」


「僕も玲奈さんが楽になれるよう、何かお力になれればいいんですけど……」


「ありがとう、コトラ。その気持ちだけで嬉しいよ」


 玲奈はコトラの頭を撫でてから、パジャマから部屋着であるTシャツと短パンに着替えた。


 今日は出かける予定もつもりもないし、ラフな格好で良いだろう。


 さて、宿題の続きにでも取り掛かろうか、と勉強机に向かったところで、トントンと部屋のドアが叩かれた。


「は~い」


 玲奈の返事にがちゃりとドアを開けて現れたのは、黒のショーツに、上は可愛らしい刺繡の施された黒のブラジャーだけという、あまりにも露出度の高い姿の結奈だった。


 むわりとした生暖かい風が部屋の中に結奈と一緒に流れ込む。


「体調どんな? 大丈夫そう?」


「うん、昨日よりは平気だよ」


「そ、なら良かった」それから結奈は眉根を寄せて、「この部屋、寒くない?」


「そう? 私は丁度いいけど」


「あんまり身体冷やさない方が良いと思うよ。私はエアコン止めて薄着にしてる」


「……薄着を通り越して下着姿じゃない、お姉ちゃん。急に人が来たらどうするの?」


「そんときゃTシャツでも適当に着ればいいだけじゃん?」


「まぁ、確かにそうなんだけど――」


 答える玲奈の横を通り過ぎ、結奈はベッドの上のコトラまで歩み寄ると、

「コトラもおはよ~! 今日も可愛いな、お前は~!」

 わしゃわしゃとその頭を激しく撫でまわした。


 コトラは必死に結奈の手から逃れようと身悶えしつつ、

「や、やめてください! もっと優しくして~!」


「ははは! よいではないかよいではないか!」


 玲奈はそんな結奈を呆れたような視線で見ながら、

「もう、イジメないであげてよ、お姉ちゃん。私に何か用があるんじゃないの?」


 結奈はコトラから手を離しつつ首を横に振り、

「ううん、別に。ただあんたの体調を見に来ただけ」


「ありがとう。でもこれから宿題するから」


「どうぞどうぞ」

 結奈は言って玲奈のベッドに腰かけると、悶えるコトラを無理矢理その胸に抱きかかえ、

「――あれから奈央ちゃん、どんな感じ?」


 玲奈は勉強机の椅子に腰かけ、結奈に顔を向けることなく課題を広げながら、

「……どんな感じって?」


「何か、変わった様子とかない?」


 玲奈はシャーペンに手を伸ばして、一問目の問いに視線を向けつつ、

「変わった様子?」


「うん、そう」


「そう言われても、例えば?」


 玲奈が振り返りながら訊ねると、結奈はコトラの頭を撫でながら、わずかに眉間を寄せる。


「ちょっと雰囲気が変わった、とか。性格が明るくなった、とか。まるで別人になっちゃったみたい……とか」


 どこか不安げな様子の結奈に、玲奈も内心、どきりとした。


 確かに、玲奈も奈央に対しては拭いきれない違和感を覚えていた。


 人が変わってしまった、と言い切れるほどまだ付き合いがあるわけではないから、もともとの奈央の性格を玲奈もよく知っているわけではない。


 あの喪服少女の一件まで、玲奈は春から同じクラスであったにもかかわらず、まともに奈央と話をしたことはなかった。


 奈央は授業の合間などはいつも机に顔を伏せて見えない壁を張っているようだったし、放課後もあっという間に教室を出ていくので、話しかける隙というものをまるで与えてはくれなかったのだ。


 人を避けている、というのは何となく感じてはいたのだけれど、所詮わかるのはそれくらいで、実のところまともに話をするようになってから、まだひと月くらいしか経ってはいなかった。


 だから、もしあれが奈央の本来の姿だとしたら、変わってしまったのは玲奈の抱いていた奈央への印象であって、奈央自身では決してないのだ。


 けれど、本当にあれが、奈央の本来の姿なんだろうか、と思うことも多々あった。


 特に、夏休み前にあった、体育の最後の授業でのこと。


 体育倉庫に閉じ込められてしまう前の奈央と、その後の奈央。


 あの時玲奈は、奈央の何気ない微笑む姿に薄ら寒い何かを感じた。


 それが何なのかは今もなお解らないのだけれど、或いは――


 玲奈は軽くかぶりを振り、そんなはずはないとその考えを自ら拭い捨てる。


「急にどうしたの? 何か気になることでもあった?」


 それを悟られないよう、玲奈が努めて明るく訊ねると、結奈はじっと玲奈の瞳を見つめ、やがて鼻で軽く笑った。


「――いや、なんでもない!」

 それからコトラをベッドに戻し、すっと立ち上がると部屋のドアへと向かいながら、

「でも、何か気になることがあったら、すぐに教えてね」


「なにそれ、どういう意味?」


「ま、いいから。ね?」


「……うん、わかった」


「じゃあね。あんまりエアコンにあたり過ぎないようにね」


「わかった、ありがと」


 手を振って部屋から立ち去っていく結奈の背中を、玲奈は何とももやもやとした思いのなかで、ただじっと見つめることしかできなかった。

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