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「おはようございます」
大樹はリビングに入ると、キッチンに立つ男に声を掛けた。
男は柔和な笑みを浮かべ、
「おはよう、ちゃんと眠れた?」
大樹に振り向き、優しく問うた。
男は黒いジャージのハーフパンツに薄手の白いTシャツ姿で、目玉焼きを焼いているところだった。
リビングのテーブルにはサラダの盛られたボウル皿と、焼いたばかりのトーストがのる皿が三枚並べられている。
朝食まで作ってくれていることに大樹は感謝しながら、「はい。ありがとうございます」と軽く頭を下げた。
男は――岡野
一王はフライパンをコンロの上に置きながら、「どうぞ、座って」と大樹に椅子をすすめた。大樹もそれに対して、素直に「あ、はい」と席に腰を下ろす。
いつも一王が朝食を準備しているのだろうか。匂いを嗅ぐだけでお腹の虫が鳴き出しそうだ。
大樹はリビングを見回し、
「……麻奈さんは?」
「あぁ、自分の部屋で支度中。先に食べてていいよ。メイクに時間かかるだろうし」
「じ、じゃぁ、お言葉に甘えて。いただきます」
「どうぞ」
一王はサラダのボウルを軽く押し出すように大樹の前に寄せてくれた。
大樹は自分のプレート皿にサラダをよそい、ひと口含んだ。あらかじめドレッシングのかけられていたサラダは想像以上に美味しく、気付くとバクバク腹に収めていた。朝からこんなに食べるのは久しぶりじゃないだろうか。いつもトースト一枚か、スーパーやコンビニで買ってきた菓子パン一個で済ませることの多い大樹にとって、バランスの良い食事というものは縁遠いものだった。目玉焼きの焼き加減も大樹に丁度良く、トーストと一緒に食べるととろりとした黄身がトーストに絡んでより美味しく感じられた。
ふと視線を一王に向けると、一王は無表情で大樹をじっと見つめていた。大樹は思わず食べていた手を止め、一王に訊ねる。
「あの、何か……?」
一王は「あぁ」と再び笑みを浮かべて、
「いや、なかなかの食べっぷりだなぁって。よっぽど腹が減ってたんだね」
「す、すみません。あまりに美味しくて……」
「そうかい? そう言ってもらえて嬉しいよ」
一王がそう答えた時、玄関へと続く短い廊下の先、玄関前の右側に位置する部屋の扉が開いて、綺麗に身支度を整えた麻奈が姿を現した。こちらの視線に気付いた麻奈は、どういうわけか一瞬眉根に皺を寄せてから、改めて口元に笑みを浮かべる。
「おはよう、大樹くん」
「お、おはようございます。昨夜はお世話になってすみませんでした」
ぺこりと大樹は頭を下げる。
「体調はどう? もう意識ははっきりしてる? 気分は悪くない?」
麻奈はリビングに入るとそう大樹に訊ねながら、一王の隣の席に腰を下ろした。
細身の真っ白なパンツに、水色のノースリーブのニットが見ていてとても爽やかで優しい印象だ。妹である玲奈や結奈と負けず劣らずの重そうな胸のふくらみと、そこにうっすら見える下着のラインもより大人の魅力を押し出すものであって、その姿は芸術品のように美しかった。
大樹は「はい」と頷き、
「ご迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」
「ううん」麻奈は首を横に振る。「でも、あまり無理はしないでね。あと、他にも何か身体や意識に異常があったら、玲奈や結奈に伝えてね」
「……? 宮野首さんたちに?」
病院に行け、と言われるのなら解るのだけれど、どうして玲奈や結奈たちに? 大樹はその違和感に首を傾げる。
「何かあったら、まずは親か親しいお友達に、ってこと」
「なるほど……? わかりました」
大樹は解ったような解らないような微妙な思いを押しとどめ、素直に頷いた。
それから朝食を食べ終えた大樹は時計に目を向ける。そろそろ時計の針は八時を示そうとしているところだった。
これ以上お邪魔するのも悪い気がして、大樹は早々に立ち上がると食器を自ら流しに持っていきながら、
「ごちそうさまでした。これ洗ったら帰ります。ありがとうございました」
「あぁ、いいよいいよ」一王は立ち上がり、大樹の持つ食器を受け取りながら、「あとは俺がやっておくから」
「でも……」
「大丈夫」麻奈も微笑み、「早く帰らないと、親御さんも心配してると思うよ」
「あ、そうだ、連絡も何もしてない!」大樹は慌ててズボンのポケットに手を伸ばして、「――あれ? スマホがない」
「え? 寝室に忘れてきたとか?」
麻奈に言われて使わせてもらっていた寝室――一王の寝室だったらしい――に向かったけれど、そこにも大樹のスマホは置かれてなかった。それどころか、家の中のどこにも大樹のスマホは見当たらない。
思えば昨日の昼、みんなでソレイユを回っていた時からスマホを使ったという記憶もなかった。もしかして、どこかで落としてしまったのだろうか。例えば、開かずの踏切にかかるあの陸橋とかに……?
大樹は慌てながら、
「ごめんなさい、本当にお世話になりました。スマホを探しながら帰ります」
「それか、警察にお願いするか、だね。誰かが拾って届けてくれてるかもしれないし」
一王の言葉に、大樹は「見つからなかったらそうします」と頷き、
「それじゃぁ、お邪魔しました」
玄関まで見送りに来てくれた麻奈と一王に頭を下げて、ふたりの家をあとにした。
もしスマホが見つからなかったら、親にどれだけ怒られてしまうんだろう。
戦々恐々としながら、大樹はマンションの階段を駆け下り、開かずの踏切へと向かったのだった。