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大きなガラス窓から差し込む眩しい朝の光に、ハジメはゆっくりと目を覚ました。
柔らかい布団に包まれたまま、大きく欠伸をひとつする。それから緩慢な動作で上半身を起こしてから、しょぼしょぼする眼を軽く擦った。
ぼんやりとする意識の中で、ハジメは記憶を辿るようにして白い天井を見上げ、次いで隣で眠る桜に視線を向けた。
ハジメも桜も裸だった。裸のまま大きなベッドの上でふたりきり、一夜を明かしたところだった。
駅前を流れる大きな川沿いに立ち並ぶホテルの一棟、その最上階。ここは元々桜の祖父が隠れ家的に作り上げた私室であったが、祖父が他界してからは、桜とハジメふたりの部屋となっていた。
だだっ広い部屋にはキッチンもあれば風呂場もあり、トイレだって一般家庭よりずいぶん広めだし、ここで普通に暮らすことだってできる。
だが今のところ、ここは大樹や玲奈たちにも秘密のハジメと桜だけの隠れ家であり、ただの遊び場にしか過ぎなかった。
桜の家にももちろん桜の部屋があるが、ハジメと遊ぶときは大抵ここだ。
部屋の隅には何インチあるのかも知れない巨大なテレビが壁に取り付けられており、その下に設置された大きな棚にはたくさんのゲーム機と、ふたりの好きなゲームや映画のソフトがずらりと並べられている。
もちろんサウンドにもこだわりがあって、部屋の中には最新型のホームシアター用スピーカーが取り付けられており、わざわざ映画館に行かなくても、映画館並みのサウンドで映画やゲームを楽しむことができた。
これだけの部屋を桜(とハジメ)に与えてくれたのは、桜の父親である。
桜の父親はメインとなる建築業の他に、不動産の取り扱いやデザイン業、映像制作会社、そしてホテル経営など、多岐に渡る会社を買収し経営している『YNホールディングス』の会長であり、同時に関連会社の社長である。
ハジメの父親もそのYNホールディングスの執行役員として働いており、会長である桜の父親とは幼いころからの親友で、そして同時に家族のような存在だった。
小さい頃からハジメは、まるで洗脳のように『お前は桜と結婚して会社を継ぐんだぞ』というようなことをどちらの父親からも言われ続け、自身も何も疑うことなく、敷かれたレールに沿うかのように生きてきた。今さらそのレールから外れようなんて思わないし、このまま桜と結婚することも当たり前だと思っていた。
桜とは産まれた時から一緒で幼馴染。いや、それ以上に兄弟姉妹のような存在であり、そして互いに一緒に居るのが当たり前だった。
今さら離れたいとは思わないし、そんな未来を想像することすらハジメにはできなかった。
自分たちが結婚して夫婦になるのは、生まれる前から決まっていたこと。
それに異存はないし文句もない。それは桜も同じだという自信があったし、それほど自分と桜の結びつきは強いものだと確信していた。
心も、身体も、全てが。
昨日はアレから皆と分かれ、桜とふたり、ここで半日ゲームに興じた。いつの間にか窓の外はすっかり暗くなり、川を挟んだ向こう側には煌びやかな夜の街が広がって見えた。
もうどうせだからこのままここに泊まろう、と言い出したのは桜だったと思う。
キッチンには常に食材が収められているし、夕食を簡単にすませたハジメと桜は、そのあと映画を鑑賞して、何となくその流れで一緒にシャワーを浴びて、そしてそのままベッドで――
けれど、すでにハジメにとって、それは気恥ずかしいことでも何でもなかった。
愛し合うふたり、しかも数年後には結婚するつもりである自分たちにとって、肉体関係を持つということは別段取るに足らないことであり、当然のことだったのだ。
それは神代の時代から連綿と受け継がれてきた男女の営みであり、これなくして人の世は栄えなかった、ごく自然の理。
ハジメは口元に笑みを浮かべて、涎を垂らしながら気持ちよさそうに眠っている桜の頬をつんつんと突いた。
「――ふあ?」桜は妙な声を漏らし、うっすらと瞼を開いた。それから頬を膨らませるようにして、「なんだよぉ、気持ち良く寝てたのに……」
「そろそろ起きろよ。もう八時過ぎてるぞ」
「まだ八時過ぎでしょ? 昨日あれだけ遅くまで起きてたんだから、もう少し寝かせてよ」
「起こせって言ったの、桜だろ?」
「……そうだっけ?」
「今日は昼からおばさんと買い物に行くんだろ?」
「あぁ、そうだったそうだった。昼までには帰らないといけないんだ」
それから桜も上半身を起こし、大きく両腕をあげて胸をそらすと小さく欠伸をひとつする。
一糸まとわないどころか、胸を隠しもしないその姿に、けれど見慣れたハジメは何も思わない。
その視線を感じた桜は口元をにやりとさせて、
「なに? もう欲情した? 昨日あんだけしといて」
「そう言えば、今日は親父さんと一緒に挨拶に行かなきゃならないんだよな」
ハジメは壁にかかった時計を見やる。
M&Aだったか何かでどこかのアパレル企業を新たにYNホールディングスに迎える為、桜の父親が自らその企業に挨拶に行くらしいのだが、ハジメも同行するように言われていた。
「おい、無視かよ! 欲情しろよ~!」
唇を尖らせる桜をよそに、ハジメは訊ねる。
「予定、何時からだっけ? 本社に来いって言われたの」
「ん~? 確か、十時だね」
「それまでに朝飯食って準備しないと」
腰を上げようとしたハジメに、桜が不意に手を伸ばしてきた。
「いいよいいよ、あたしが朝ごはん準備するから。ハジメはゆっくりしてなよ」
「え? いいのか?」
「ま、簡単なもんしか作んないけどね」
「ありがとな、桜」
「いいってことよ!」
笑顔で言って、桜はベッドから起き上がると、素っ裸のままキッチンへ向かった。
ハジメは桜がキッチンでゴソゴソしている間、ベッドサイドのテーブルに置いたスマホに手を伸ばした。
昨夜のうちに『体調、大丈夫か?』と大樹にメッセージを送っていたのだけれど、今この時間になっても返事は届いていなかったし、そもそも『既読』の文字すら表示されてはいなかった。
よほど疲れた様子だったし、もしかしたら今もまだ眠っているのだろうか。
しかし、あの疲れた様子はあまりにも不自然だった。疲弊している、と言うよりはそもそも魂が抜けかけている、そう表現した方が良いんじゃないかというくらいに大樹の意識は朦朧としているようだった。焦点の合わない視線に曖昧な返答。あれはもはや夏バテなんてレベルじゃない。
それだけではない。
変わったのは、相原奈央もだ。
あれだけ大人しかったあの相原が、今では綺麗に大人びた化粧と服装で、毎日のように大樹とデートに出かけているというじゃないか。
元々あのふたりは屋外で遊ぶよりも、屋内で大人しく本を読んでいるようなタイプだった印象がハジメにはある。それが夏休み前のあの喪服少女の一件以来、人が変わったようにアクティブになって、違和感しかそこにはなかった。
ハジメはあの喪服少女の一件にはあまり関わっていなかったけれど、玲奈や桜たちから大方のことは聞かされている。
奈央の身体を奪おうとしたあの喪服少女は、奈央自らの手によって、あちら側へと退けられた。
それが本当なら、もともと奈央の性格はあんな感じで、この一年間、喪服少女の為に感情を抑えてきた、ということになるのだろうか。
……本当に?
ハジメには全くそうには思えなかった。
どう考えても違和感と不安は拭えないし、まだあの一件は終わっていないような気がしてならない。
こんなふうに思うのは自分だけなんだろうか? 桜や玲奈たちも、何かおかしいと感じているのではないだろうか? それとも――
「は~い、おまたせ~!」
「おん? ありがと……う?」
桜から手渡されたのは、緑色のドロドロした液体に満たされたコップだった。
これが何なのか、ハジメはよく理解している。
「……俺、これ苦手なんだけど」
「え~、そんなこと言っちゃう? あたしがせっかく作った元気になる特製野菜ジュースを」
「いや、それは、もう、うん……」
そう言われてしまうと、飲まないわけにはいかない。
別に不味いとは言わない。これまでだって何度も口にしているし、矢野家の朝食には欠かせないものであるという事実もよく理解している。
矢野家特製のオリジナル野菜ジュース。
栄養満点だろうし、身体に気を使っている矢野の父親も、毎朝これを飲んでいる。
桜と将来的に結婚すれば、当然自分も毎日これを飲むことになるのだろう。
だが、どうしてもこの食感、のど越しが苦手で仕方がなかった。
ドロドロとした液体が食道を這うように下っていくあの何とも言えない謎の感覚。
慣れるしかない、とは思うのだけれど、何度飲んでもなかなか慣れない。
「……そっか、イヤ、か」
「んなわけないだろ! ほら!」
ハジメは意を決して、一気に野菜ジュースを飲み下した。
味は美味い。果物の甘味の奥に隠された野菜の苦みが、ほんのりとアクセントとなって口の中いっぱいに広がっている。
けれど問題は、口の中に残るザラザラした果物や野菜の破片と、ゆっくりと下っていくのど越しだ。
何とかそれを耐えて、ハジメはベッドサイドのテーブルにコップを置いた。
「美味しかったでしょ?」
「あぁ……美味かった」
「元気になった?」
「あぁ……元気になった」
「ほう、どれどれ」
言って桜はおもむろに布団を引っぺがし、ハジメの股間をじっと見つめる。
「な、なんだよ急に!」
「お~、ホントだ。元気になってる」
「ち、違うって!」ハジメはさすがに恥ずかしくてたまらず、声を大にして、「わ、わかってんだろ! これはただの朝立――」
手で隠そうとするハジメのその腕を、桜は瞬時に左手で阻み、そして右手でハジメのソレをぎゅっと掴んだ。
「……時間、まだあるよね?」
「さ、桜、お前――!」
「なによ~、いいじゃん、一回くらい!」
「いやいやいやいやいや!」
「嫌、なの?」
すぐ目の前に桜の顔が迫り、勢いそのままにハジメは桜と唇を重ねる。ねっとりとした舌がハジメの口の中を這い、執拗に絡んだ。
しばらくして、桜は唇を離し、意地悪な笑みを浮かべてから、
「――ほら、もっと元気になった」
「……桜お前、野菜ジュースになんか入れた? 身体がなんか熱いんだけど」
「だから言ったじゃん? 元気になる特製野菜ジュースだって」
「……お前なぁ」
ハジメは桜の腕を掴むと身体を反転させ、勢いよく桜の身体をベッドの上に仰向けに倒し、その身体に覆い被さるようにして桜の顔を見下ろした。
桜もそれに抗うことなく、むしろ待ってましたとばかりに嬉しそうにニヤリと笑んで、
「――いっそこのまま、赤ちゃん作っちゃう?」
「……それはさすがにまだ早いって」
ハジメは真面目に答えて、サイドテーブルの小さな箱に手を伸ばした。